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龍王奇譚  作者: Rikyo
第1章   鯉丸登龍門編
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第1話    その名は鯉丸

 神八洲(かみやしま)。


 奥羽洲(おううしゅう)、東海洲(とうかいしゅう)、北陸洲(ほくりくしゅう)、畿京洲(きけいしゅう)、於能碁洲(おのごしま)、中津洲(なかつしゅう)、南海洲(なんかいしゅう)、西海洲(さいかいしゅう)。

 八つの島とその周囲に散らばる無数の小島からなるこの国は、長きにわたり皇(すめらぎ)を頂点とする朝廷のもとにあった。皇の末裔たる公家たちが政を担い、その威光は八洲の隅々にまで及んでいた。


 だが、栄華はいつしか、政を担う者たちの目を曇らせた。


 都では、公家たちが衣の美しさを競い、夜ごと宴を催した。その贅を賄うため、民には重い税が課された。日々の糧にも事欠く者が増える一方で、朝廷では処すべき政務が積み残されていく。

 田畑は荒れ、道には盗賊が出没するようになった。それでも、都の宴が途絶えることはなかった。


 その衰えゆく秩序の中で、力を蓄えた者たちがいた。

 各地で治安の維持と徴税を担っていた、武士である。


 なかでも抜きん出た勢力を誇ったのが、為真(いさな)家であった。やがて、その当主は皇より、すべての武士を統べる征夷大将軍の位を賜る。為真家は京に幕府を開き、朝廷に代わって政の実権を握った。


 武士の世の始まりである。


 しかしその幕府とて、末永く一枚岩ではいられなかった。

 内では有力者たちが権勢を争い、外では各地の武士が領地を奪い合った。争いを鎮めるべき将軍の命も、次第に顧みられなくなっていった。


 家柄も、官位も、もはや安泰を約束するものではなかった。臣下が主君をしのぎ、昨日まで従っていた者が、今日には兵を率いて反旗を翻す。


 後に戦国と呼ばれる時代が、幕を開けたのである。






     ◇◇◇






 沢のせせらぎが、木々の間に絶え間なく響いていた。

 頭上では枝葉が幾重にも重なり、夏の烈しい日差しを遮っている。葉の隙間からこぼれる光が、水面に小さく揺れていた。


 茂みを分けて、一羽の野ウサギが姿を現した。

 水際で足を止め、耳を立てる。しばらく辺りをうかがったのち、そっと身をかがめ、水面に口を寄せた。


 ふいに、その耳が動いた。

 弾かれたように顔を上げ、身を翻す。


 だが、逃げ込むはずの茂みに届くより早く、木々の間から一羽のタカが空中に躍り出た。水際で翼が大きく広がり、ウサギの姿がその下に隠れる。

 羽ばたきが収まると、沢には再び、水の音だけが残った。



「ようした。見事ぞ」



 茂みの向こうから、声がした。

 枝を払いながら現れたのは、狩装束をまとった少年だった。


 年の頃は十代半ばといったところ。背丈は五尺五寸(約166cm)ほどで、木漏れ日を受けた肌は白い。背にかかる艶やかな黒髪を、うなじの辺りでひとつに束ねていた。タカを見る穏やかな目には南国の海を思わせる青い瞳があり、面差しには少年のあどけなさがまだ微かに残っていた。


 少年は水際へ下り、タカの傍らに膝をついた。

 腰の革袋から褒美の肉を取り出すと、タカはすぐさまそちらへ目を向けた。



「そう急くな。ゆるりと食え」



 少年は小さく笑った。

 嬉しそうに肉をついばむタカを見守る眼差しは、とても穏やかで優しかった。


 タカが褒美の肉を食い終わったのを見届けると、少年は獲物を拾い上げ、タカを腕に据えて立ち上がった。



「では、帰ろうか」



 少年は上機嫌で山道へと足を向けた。

 木漏れ日の落ちる坂を下るにつれ、背後のせせらぎは少しずつ遠ざかっていった。木々の枝葉が奏でる風の音に耳を澄ませていた少年は、せせらぎとは別の騒々しい音がしていることに気が付いた。



「鯉丸(こいまる)さまーっ! どちらにいらっしゃいますかーっ!」


「この辺りにおいでなのは、わかっておりますぞーっ! 鯉丸さまーっ!」



 静かな山に、男たちの呼び声が響き渡った。声は幾度も少年の名を呼びながら、坂の下から近づいてくる。


 少年――鯉丸の口元から、笑みが消えた。

 腕のタカが声のする方へ首を巡らせる。それを横目に見て、鯉丸は眉をひそめた。


 騒がしい足音がすぐそこまで迫ると、鯉丸は木陰から山道の真ん中へ歩み出た。



「そう大声を上げるな。タカが驚いて逃げたらどうする」



 男たちが、はっと足を止めた。

 不機嫌そうに立つ主の姿を認めるや、張り詰めていた顔が一斉に緩む。ひとりが深々と息を吐き、別のひとりは額の汗を拭った。


 やがて、男たちの中からひとりの僧侶が進み出た。


 背丈は五尺九寸(約180cm)を超え、年の頃は五十代半ばといったところ。もとより険しい目つきに、眉間の皺がいっそう気難しげな印象を添えていた。


 僧侶の名は、誓山(せいざん)宗玄(そうげん)。

 鯉丸の教育係を務めている人物である。


 宗玄は鯉丸の姿をひとしきり確かめると、安堵とも呆れともつかぬ息を漏らした。



「鯉丸さま。あなたはいずれ、須佐(すさ)家を継がれる御身なのですよ。供も連れずに山へ入り、鷹狩に興じるなど、お慎みください」


「爺(じい)、拙(せつ)を子ども扱いするな。歩き慣れた山で道に迷ったりするものか」


「習い事を放り出して遊びに出るのは、子どものすることでございます」



 鯉丸は口を開きかけた。

 だが、言い返す言葉が見つからず、唇を引き結ぶ。宗玄は主の沈黙を見届けると、声を落として続けた。



「それに、山は神域にございます。たとえ大の大人であろうと、山の神の怒りに触れれば、神隠しに遭うのです」



 宗玄の目が鯉丸の背後へ向いた。山道の先には、昼でも暗い木立が続いている。



「気ままな振る舞いを重ねておいででは、いずれ、よからぬ縁を招きかねませんぞ」



 鯉丸は一度自分が来た道を振り返り、少し考えてから「悪かった」と呟いた。



「次はちゃんと供を呼ぶ」


「その前にちゃんと習い事を受けてください」


「考えておこう」



 タカを据えていないほうの手をヒラヒラと振り、鯉丸は供の者たちと共に山を下りていく。そのあっけらかんとした様に、宗玄はため息を吐かずにはいられなかった。

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