第17話 その名は
長義が去った後、大国屋敷の中庭で、鯉丸は褌姿となって頭から桶の水を浴びた。
鯉丸が腰掛けに座って前屈みになると、傍らにいた紅葉が水の入った小さな桶を片手で持ち上げ、鯉丸の髪を中に入れて、丁寧にもう片方の手でもみ洗いする。
「まさか、京に着く前に元服できるなんてね」
「正直、予想外だった」
鯉丸が桶を紅葉から受け取ると、紅葉は両手で髪をもみ洗いする。
そこに、フィーが通りがかった。
「はい、これ」
そう言って、フィーは紅葉に小さな容器を手渡した。
紅葉が疑問符を浮かべながらその蓋を開くと、花のような甘い香りが漂った。
「……?フィーさん、これは?」
「洗髪料って言ってね、これを髪を洗う時に使うと、汚れが落ちやすくなるんだよ」
「へぇー、どうやって使うの?」
「少し手に出して、擦って泡立ててから髪につけるの。ちょっと水につけると泡立ちやすくなるよ」
紅葉が言われた通りにすると、濃厚な花の香りが辺りに広がる。
その強烈な匂いに鯉丸は顔を引き攣らせたが、紅葉は顔を輝かせた。
泡を纏った紅葉の指が、鯉丸の髪を梳く。
その感覚に、鯉丸は安心感を抱いていた。
「じゃ、ごゆっくり~♪」
鯉丸は動けないので顔は見えなかったが、きっとフィーはニヤニヤ笑っていたのだろう。
時折容器から洗髪料を出しつつ、紅葉は鯉丸の髪をワシャワシャと洗う。
「なぁ、紅葉」
「何?」
「……寂しい思いは、してないか?」
その言葉に、紅葉の指が止まる。
「……今でもね、夢を見るの」
そう言いながら、紅葉は再び指を動かし始めた。
「あの日のことか?」
「違うよ。昔のこと」
紅葉の言葉に、鯉丸はああ、としか返せなかった。
「卵丸がね、夕餉ができたかって、何度も台所を覗きに来るの」
「……ああ」
「父上は魚の焼き加減に文句言ってね、アタシがじゃあ自分でやってよって言うと、ブツブツ言いながら食べるの」
「……」
「……あの頃は、こんな事になるなんて、思いもしなかった……!」
その言葉とともに、光る雫が地面に落ちた。
鬼灯山城での惨劇からここまで、余りにも、余りにも短い期間で色々なことがあった。
心の整理など、している暇も無かった。
「紅葉」
「?」
だからこそ、ここで言わねばならない。
「拙は、君が好きだ」
「……っ⁉」
紅葉の手が、びくりと震えた。
「将軍家に入れば、たぶん今までよりも過酷な道を行くことになると思う。だがそれでも、これから先も君と生きていきたい。君が笑って過ごせる日を、増やしていきたいんだ」
「……鯉丸」
鯉丸の頭に、紅葉が額をコツンと触れさせた。
「そういうことは、面と向かって言ってほしいな~」
「……いやだ」
「いくじなし」
微笑みながら、紅葉が離れる。
そして、洗髪を再開しながら言った。
「まあでも、今はこれで、勘弁してあげましょう」
その声には、隠しきれない喜びの色が滲んでいた。
◇◇◇
翌日、妙戒寺。
本日の出陣に参加する予定だった諸大名が居並ぶ中で、鯉丸の元服の儀式が行われた。
もっとも、戦準備の最中に行われた元服だったため、氏神への参拝を省略したり、烏帽子は境湊で調達された急ごしらえの品だったりと、粗は目立った。
それでも式は厳かに執り行われ、長義の手によって鯉丸の髪が切られた。
「……確かに洗ってこいとは言ったがの、香をつけるのはやりすぎじゃぞ」
「面目次第もございません」
呆れたように言う長義に、鯉丸は恥ずかしそうに俯いた。
長義は切った髪を整えて三宝に乗せながら、鯉丸にだけ聞こえる小さな声で言った。
「ま、聖天騎士団と関係があるなら、そういうものを貰っても不思議ではないがの」
「……は?」
聞き捨てならない言葉に、思わず鯉丸が顔を上げた。
一方の長義は、ニヤニヤと愉快そうに笑みを浮かべていた。
「な、なんで……?」
「余は征夷大将軍ぞ?隠された秘密を知る立場にあるし、いずれはお前もそうなるのじゃ」
そう言いながら、長義は鯉丸の髪を束ねて髷を結い、烏帽子を被せた。
「やはり急ごしらえは否めぬのう。余がこのような粗末な烏帽子を下賜したと噂されてはかなわん。京へ着いたら、まともなものを誂えよ」
「は、ははっ!」
「あと、聞きたいことは多かろうが、後のことは経守に任せておるで、あやつにどうしたらいいか尋ねるがよい」
「はい!」
「良き返事じゃ」
そう言って、長義は鯉丸の前に紙を載せた別の三宝を置いた。
その紙には、『義龍』と書かれていた。
「鯉は、激流の滝を登りきるという試練を経て龍となり、天へと昇っていくという」
そう言って、長義が立ち上がる。
「人生とは、果ての無い激流を遡る旅である。行く手には、幾度となく滝が立ちはだかろう。されどそれは、終わりなき苦行にあらず」
長義が、屈託のない笑みを浮かべる。
「友を得よ。家族を得よ。生きるということを学び、人を生かす喜びを覚えよ。さすれば、作るべき世の形も見えてこよう」
そして、長義が高らかに宣言する。
「今日この時より其方は、為真天照院義龍と名乗れ!」
「ははっ!」
その言葉に、鯉丸――義龍は平伏した。
◇◇◇
「知っていたのか?聖天騎士団の件」
元服の儀式を終えて経守と合流した義龍は、開口一番そう言った。
義龍は経守が聖天騎士団のことを知っていたと考えていたが、疑いをかけられた経守は心外そうに眉を寄せた。
「私は何も知りません。ただ、私が於能碁洲でのことを御所様に報告したところ、御所様から『白服の者には全てを喋るな』という指示が出されましたので、何か知っておられるのだろうな、とは思っていました」
馬を繋いでいる場所まで歩きながら、経守は淡々と言った。
「……その指示、いつ受け取ったんだ?」
「境の屋敷。天照院様のお目見えが終わった後で、です」
義龍は腕を組んで思考する。
神八洲で聖天騎士団について、知っていると確認できたのは長義だけだ。ただし、将軍が知っているということは、皇も知っている可能性は高い。
「高貴な身分の人間だけが騎士団の存在を知っている一方、騎士団は神八洲を認知していない」
「フィー殿の発言を真と受け止めるなら、そういうことになりますね」
「……彼女はまだ屋敷か?」
「いいえ。今日は一度報告に戻ると言って、朝から不在しております」
「相変わらず、肝心な時におらんなぁ」
そう言いつつ、義龍は経守を見る。
「まあいいさ。この件はこれ以上考えても、推測にしかならん。それより、今後の予定を教えてくれ」
「はっ。旅支度を整えたら、我等は京へと上ります。洛中へと入りましたら、小庭第という屋敷がありますので、そちらに入って頂きます」
「大国家の屋敷か?」
「将軍家が所有している屋敷で、天照院様に与えられるとのことです」
その言葉を聞き、義龍は嬉しそうに笑った。
「やっとゆるりと休めるか」
「窮屈でしたか?」
「そんなことは無いが、他人の家と思うと気が引けてな」
「家臣の家です。好きにお使いください」
「家臣、か。本当にいいのか?」
「勿論。今更、幕臣に戻れと命ぜられても困ります」
「……そうか」
そう言って、義龍は微笑んだ。
二人はそれぞれの馬に跨り、その馬を大国家の奉公人が引き、帰路へとついた。




