87.結末
スルクの拠点は、古い石造りの小屋だった。
小屋、と呼ぶには少し大きすぎる。かつて何かの見張り台として使われていたらしく、周囲の木々を越えてハートヴェルの方角まで見通せる高台だった。内部は整えられており、地図と書物が壁沿いに積まれていた。
「ここにどのくらいいた」
ルベルドは室内を見回しながら聞いた。
「半年くらい。ちょくちょく拠点は変えてるんだけど、今はここが一番使いやすいよ」
「学園に近すぎないか」
「近いと思うでしょ。でも逆に、近い方が目立ちにくいこともある。遠い場所に潜むより、人の目が多い場所の方が気配が紛れるんだ」
スルクが毛布をルベルドに投げた。
「今日は寝ろ。明日から話を始める。一人で色々抱えすぎてたんだろう、顔が疲れてるぞ」
「……確かに疲れた」
「素直だ。ルベルドが素直で嬉しいよ」
「……うるさい」
スルクが笑った。
ルベルドは用意された場所に横になった。
疲れていた。体よりも頭が、そして胸が。一日の出来事が多すぎた。コゴメとの対話。広場での追放。ダリアの言葉。レインの顔。スルクとの合流。
そのどれもが重く、しかしどれも大切なものとして胸の中に積み重なっていた。
(……戻れる。必ず戻る)
そう思いながら目を閉じた。
眠りは、すぐに来た。
◆◇◆◇
夢の中は、雨だった。
ハートヴェルの街が見えた。しかし何かが違った。空気が重く、色が失われているようで、石畳の上を流れる水の音だけが妙にくっきりと聞こえた。
学園が見えた。
近づくにつれて、分かった。
正門に、旗が立っていた。黒い旗。アダムの旗だ。
(……いつの話だ、これは)
ルベルドは夢の中で、自分が見ているものが夢だと気づかないまま、それを見ていた。
学園の廊下を歩いた。生徒たちがいた。しかしその目が——空だった。焦点が定まっていない。何かを信じ込んだ者の目だ。笑顔はある。声もある。しかし何かが根本的に抜け落ちていた。
レインの姿を探した。見つけた。
レインは廊下の隅に立っていた。一人だった。いつもの笑顔はなかった。ただ、黙って廊下を見ていた。その目に——諦めのような何かがあった。
「レイン」
声をかけた。レインが振り返った。
「……ルベルドか」
「ここはどうなっている」
「……どうもなにもないよ。もう、こうなったんだよ」
レインが視線を前に戻した。
「ダリアは?」
「戦ったよ。でも——組織に取り込まれた生徒が多すぎた。一人じゃどうにも。コゴメ王女を守れただけで、精一杯だった」
「コゴメは」
レインが少し黙った。
「……王女様は、いる。無事だ。でも、もう外には出られない。組織が言ってる。『大切に守る』ってさ。本人の意志とは関係なく」
ルベルドは廊下の先を見た。
図書棟の方向だった。いつもコゴメが座っていた窓際の席が見える方向。
(……コゴメ)
「スルクは」
ルベルドは聞いた。
レインが少し間を置いた。その間が——答えのような気がした。
「戦った。あの創設者と。でも……」
レインの声が少し細くなった。
「負けた。スルクさんが負けた」
ルベルドは何も言えなかった。
「俺たち、もうどうすればいいか分からなくて。お前が来てくれるかもしれないって思ってたけど、お前は学園を追われて、どこにいるかも分からなくて——」
雨が強くなった。
廊下の窓から見える空が、暗くなっていく。
「ルベルド」
レインが振り返った。泣いていた。
「俺たち、待ってたよ。ずっと待ってたんだ。なんで来てくれなかったんだよ」
「……来ようとした」
「来てくれなかった。お前の帰る場所は、もうここにはないんだ」
レインの言葉が、胸に刺さった。
ルベルドは手のひらを見た。闇の魔法を出そうとした。力が、出なかった。
(なぜだ。なぜ力が出ない)
焦りが来た。しかし体が動かなかった。
廊下の向こうから、足音がした。黒い外套の者たちが歩いてくる。その中央に——あの男がいた。創設者だ。
男がルベルドを見た。笑っていた。どこか楽しそうな顔だった。
「魔王の息子よ」
男が言った。
「帰る場所がなくなった気分はどうですか」
ルベルドは答えなかった。
「スルクも負けた。あなたも力が出ない。これが現実です。魔族と人間が共存できるなどという夢は、どこまでいっても夢でしかない」
廊下が歪んだ。
レインが消えた。光が失われた。
残ったのは黒い旗と、雨の音と——ルベルドだけだった。
(……違う。これは)
違う、と思う声がした。
しかし体が動かなかった。声が出なかった。
男が一歩、近づいてきた。
「誰も待っていません。帰る場所は——」
◆◇◆◇
「——ルベルド」
声がした。
肩を揺すられた。
目が覚めた。
天井があった。石の天井。スルクの拠点の天井だ。
窓から光が差し込んでいた。朝だった。
「ルベルド、顔色悪いぞ」
スルクが隣に立っていた。
「……朝か」
「ああ。そんなに長くは寝てないと思うんだけど、随分うなされてたから声かけた。何かあったか」
ルベルドは少しの間、何も言わなかった。
夢の内容が、まだ鮮明に残っていた。レインの泣き顔。スルクが負けたという言葉。帰る場所がないという感覚。
「……嫌な夢を見た」
「そうか」
「スルクが創設者に負けた。学園がアダムに完全に落ちた。コゴメは囚われた。お前の帰る場所はもうないと言われた」
スルクは少し黙った。
それから、ルベルドの隣に腰を下ろした。
「そんな夢を」
「ああ」
「……嫌な夢だな」
「そうだ」
スルクが少し前に出た。
「ルベルド」
「なんだ」
「そんな事にはならない」
はっきりとした声だった。いつものふわりとした言い方ではなかった。
「俺達には変える力がある。あの結末は決まっていない。決まっていないから、俺たちは動いている」
「……力があっても、負けることはある」
「そうだよ。俺が負けることもあるかもしれない。でも——それで終わりじゃない。お前がいる。お前が俺の分まで動ける。そのための時間を、今作ってるんだ」
ルベルドは少し間を置いた。
「……兄上が負けた時の話なんて、聞きたくない」
「そうだな。だから俺が負けないようにするよ」
スルクが笑った。今度はいつもの、軽い笑顔だった。
「さて、飯にしよう。朝飯くらい作れるぞ、俺でも」




