82.教えて欲しい(コゴメ視点)
目が覚めた時、最初に感じたのは白い天井だった。
知っている天井だ。学園の医務室。石灰を塗った白い壁と、少し高い窓から差し込む光。夕方の色に見える。オレンジがかった、傾いた日の色だ。
体を起こそうとして、すぐに左腕が痛んだ。
「動かないでください、姉様」
ダリアの声がした。隣の椅子に座っていた。いつから居たのかは分からない。表情はいつも通り静かだったが、目の下が少し疲れた色をしていた。
「……ダリア」
「目が覚めましたか。よかった」
ダリアの声は静かだった。安堵と、何か別のものが混ざっていた。コゴメはそれを聞いて、少しずつ記憶を手繰り寄せた。
図書棟。ルベルドが来た。
それから——。
◆◇◆◇
本棚の奥に隠れていたのは、ルベルドの指示だった。
「コゴメ、本棚の奥に入れ。できるだけ遠く」
鬼気迫った声だった。コゴメは何も言わずに従った。ルベルドがそういう声を出したのだ。それが事態の緊迫性をコゴメに明確にさせた。
静かにしていた。息を潜めていた。ズームという名の男とルベルドが戦う気配を、本棚越しに感じながら、コゴメは膝を抱えてじっとしていた。怖かった。動けなかった。動いてはいけないと分かっていた。
二人の戦いの音が聞こえた。ぶつかり合う音。重いものが砕ける音。ルベルドが吹き飛ばされる音も聞こえた気がして、コゴメは息を呑んだ。
(……大丈夫だ。ルベルドさんは大丈夫だ)
自分に言い聞かせた。
しかし——誰かが、来た。
ルベルドでもズームでもない。魔力の気配も感じなかった。ただ、気配がした、と思った瞬間には、その男はコゴメの眼前に立っていた。
黒い髪が、肩を越えて背中まで流れていた。修道士のような服を纏い、肩には赤い布を掛けている。年齢は三十前後に見えた。顔は笑っていた。コゴメの姿を見て笑い、しかしどこか不快そうにしていた。
声が出なかった。
「こんなところに隠れていましたか」
男の声は静かだった。あくまで穏やかな、会話の声だった。怒りも急かしもない。
「怖くないですよ。今日、貴方を傷つけるつもりはありません」
「……あなたは、誰ですか」
コゴメは絞り出した。声が震えていたかどうか、自分では分からなかった。ただ、目を逸らせなかった。逸らしてはいけない気がした。
「名乗る理由がありません。ただ、一つだけ聞いてもいいでしょうか」
男が少し首を傾けた。
「なぜ貴方は、魔族と共にいるのですか」
言葉の意味が、最初は分からなかった。
「……魔族、と言いましたか」
「ええ。ルベルド・クレインという名の少年です。今、あなたの傍に置かれている人物」
「彼が、魔族」
「ご存知ありませんでしたか。ならば教えましょう。あの少年は人間ではありません。魔界の者です。魔界を支配する――魔王の息子」
感覚が、止まった。
男が何を言っているのか。ルベルドが、魔族。魔王の息子。それはどういうことなのか。
(……ルベルドさんが、魔族)
言葉の意味は理解できていた。しかし、結びつかなかった。ルベルドとあの言葉が、コゴメの中で一致しなかった。
初めて会った日のことを思い出した。森の中で迷子になって、泣いていた。草の冷たい感触と、木の匂いを覚えている。そこに現れたのが、年齢の近い少年で。「泣いている声が聞こえたから来た」とだけ言った。
浮遊魔法で空に上がった。視界が一気に開いた。色とりどりの街が見えた。あの時の感覚は今も覚えている。
闇魔法を見た時、「夜みたいな色です」と言ったら、ルベルドが黙った。あの時の顔が忘れられない。
図書棟で、回復魔法の理論を教えてくれた。いつも優しかった。
大会で「待ってろ」と近衛騎士になる誓いをして、それを守ってくれた。
あの人が、魔族。
(……信じられない。でも、分からない)
コゴメの内側で、二つの気持ちがぶつかった。男の言葉を信じたくない、という気持ちと——あの人について、自分は何を知っているのかという問い。
ルベルドの素性は、ずっと謎だった。旅人として来た。遠くから来た。それ以上は教えてくれなかった。それが当然だと思っていた。人には言えないことがあると思っていた。
でも——。
「……貴方の言葉を、すぐには信じられません」
コゴメは言った。声が震えていなかったのは、奇跡だと思った。
男がわずかに目を細めた。驚いたのかもしれない。怒ってはいない。ただ——少し、見直すような目になった。
「信じなくても構いません。しかし、これだけは持って帰ってください」
男の手に、細い何かが光った。
「祝福を受けた者の血には、特別な性質があります。少しだけ、分けていただきます」
次の瞬間には、左腕に微かな痛みが走っていた。針の先ほどの、小さな刺し傷だった。それだけだった。しかし、そのあとの記憶はない。
◆◇◆◇
「……姉様」
ダリアの声で、記憶が途切れた。
「大丈夫ですか。顔色が悪い」
「ごめんね。……少し、思い出していたの」
コゴメは壁にもたれて、天井を見た。
左腕の傷痕は、もう治療されていた。回復魔法をかけてもらったのだろう。しかし痛みとは別の、妙な感覚が残っていた。何かを少し、奪われたような感覚。
「あの男が何者か、分かりますか」
ダリアが小声で言った。
「分かりません。ただ——ルベルドさんに関係している人たちだと思います」
「……その通りです。ルベルドも今、確認を取っています。姉様、今日は休んでください。話は——」
「ダリア」
コゴメは少し早口に言った。
「ルベルドさんに、会いたいです」
ダリアが少し目を細めた。
「今日は難しいです。学園でも様々な対処が行われていて」
「分かっています。でも、少しだけ」
コゴメは真剣な顔でダリアを見た。
「話したいことがあります。ルベルドさんと、直接。言わなければならないことがある」
ダリアは少し沈黙した。それから、短く頷いた。
「……分かりました。伝えます」
◆◇◆◇
その夜、コゴメは医務室のベッドの上で、一人でいた。
灯りは小さかった。蝋燭の光が壁を揺らしている。外の廊下は静かだった。ダリアが外に立っている気配がした。何があっても離れないつもりでいるのだろう。
(……ルベルドさんが、魔族)
男の言葉が、何度も浮かぶ。
考えれば考えるほど、それが「あり得ない話」とは言いきれなかった。
最初に見た浮遊魔法は人間の一年生が使える魔法としてはおかしくて。それは最初から感じていたはずだ。それに、選抜試験でも。ルベルドが元から強いとは言え、加護を得たばかりで今の学園最強と言えるユーリに勝利した。それに今となっては加護を得たこと自体が嘘では無いか、と思う。
ルベルドが魔族となれば神域実習で会ったルベルドの兄も必然的に魔族だった事になる。
でも。
(それで、何が変わるの)
コゴメは自分に問いかけた。
ルベルドさんが魔族だったとして。それで、あの人が私に向けてくれたものが変わるのか。「ただお前といたいからいる」と言った言葉が、嘘になるのか。
ならないと思った。
あの言葉は本物だった。コゴメには分かった。ルベルドは嘘をついていない。ずっと一緒にいて、あの言葉が、今まで紡いだ全てが嘘になる訳じゃない。
でも——隠していた。
一年以上、隠し続けていた。
(なぜ言えなかったのか。聞きたい)
怒りではなかった。責める気もなかった。ただ——聞きたかった。本当のことを、あの人の口から直接聞きたかった。
コゴメは目を閉じた。
(明日、会おう。それで聞く。全部、直接聞かないと)
それだけ決めた。それだけで、少しだけ落ち着いた。
外の星が、窓から少し見えた。深い夜の色だった。
(ルベルドさんは今、何を考えているんだろう)
コゴメはそれを思いながら、ゆっくりと目を閉じた。




