70.別れ
九月が近づくと、空気が変わった。
選抜試験がすぐ間近に迫っている。演習棟の出入りが増え、どの学年の生徒も目に見えて練習量が増えた。
エヴァとの議論の時間が再開されたのは、夏休みが明けてから三日後だった。
いつもの学習室に入ると、エヴァが先にいた。窓の外を見ていた。テーブルの上に、六月に渡してもらったのと同じ氷の結晶が一つ置いてある。溶けていない。ルベルドが持ち帰った物も同様にまだちゃんと形を残している。
ルベルドが席に着いた。
「帰ってきましたね」
「ああ」
「顔色がいい。旅は上手くいったようですね」
「問題なかった」
「……加護の話は本当ですか」
「本当だ。内容は言えないが」
エヴァが少し間を置いた。それ以上は聞かなかった。ルベルドは少し意外だった。エヴァは物事を正確に把握しようとする性格だ。知らないことを放置するのは珍しい。
「……聞かないのか」
「あなたが言えないと言ったことを聞いても意味がない。それに」
エヴァが少し目を上げた。
「あなたが加護を持ったとしても、あなたがあなたであることは変わらない。どんな加護かよりも、それの方が大事だと思っているので」
ルベルドは少し黙った。
「……そうか」
「そうです」
エヴァがテーブルの上に資料を広げた。
「今日の議題は、氷魔法の出力制御と応用の話をしたいと思っています。選抜試験前の最後の議論になりますから、実践的な内容を」
「分かった」
議論が始まった。
エヴァの氷魔法は、この一ヶ月でまた精度が上がっていた。結晶の密度が上がり、成形にかかる時間が短くなっている。夏の間も練習を続けていたのが分かる。
「氷の展開速度が上がったな」
「夏の間に取り組んでいました。結晶の方向性を先に決めておくことで、展開の際に一つ手順が省けるんです」
「先行して形の設計をする。……それは俺が防壁に取り組んでいた方法と近い」
「あなたの話を聞いていて思いつきました。参考にさせてもらいました」
「そうか」
「役に立ったならよかった」
エヴァが少し氷の結晶を動かした。指先から魔力を流して形を微調整する。変形がなめらかだった。
(……この令嬢は、本当に地道に積み上げる)
才能だけで動いているのではなく、分析して、改善して、また動く。その繰り返しを丁寧にやっている。
「選抜試験、どう見ていますか」
エヴァが聞いた。
「通るつもりだ」
「私もそう思います。あなたが加護を得たなら——正直に言うと、今の三年生でも、あなたを止められる者は限られる」
「ユーリがいる」
「ユーリ先輩は確かに強い。けど——あなたが本気で戦う姿を見たことのある先輩は、今の学園でほとんどいない。そこの差が出ると思います」
ルベルドは少し考えた。
「……お前は俺のことをよく見ているな」
「隣に長くいたから」
「そうか」
「応援しています。通ってください」
エヴァの声は淡々としていた。しかしその言葉には確かな重みがあった。ルベルドはそれを受け取った。
「……ありがとう」
「お礼は試験が終わってから言ってください。それで十分です」
外が暮れてきた。議論は日が落ちるまで続いた。
◆◇◆◇
卒業式は学園の中庭で行われた。四年生が学園を巣立つ。整列した生徒の中にレオニードの姿があった。
ルベルドはその式を、遠くの軒先から観覧した。
式が終わった後の夕方、演習棟の前でレオニードが一人でいた。近衛騎士のマントを外して、荷物を持っている。学園での活動は今日が最後だ。
ルベルドが近づいた。
「先輩」
レオニードが振り返った。いつもと同じ穏やかな顔だった。
「来るかなと思っていたけど、本当に来た」
「貴方には世話になった。来ないわけがない」
「そうだね」
レオニードが演習棟の壁に寄りかかった。夕暮れの光が建物を赤く染めていた。
「一年弱、か。早いね」
「早い」
「君を見た最初の日、廊下で見かけたのを覚えている。一年生のくせにやたら落ち着いた目をしている子だと思った」
「そうか」
「今もその目は変わっていないけど——中身は随分変わった」
「先輩が変えてくれた部分も大きい」
レオニードが少し驚いたような目でルベルド見た。
「……変わったとは言ったけどそんな事まで言ってくれるとは思わなかった」
「事実だから言う」
「まあ、そうね。ただ——私が教えたのは技術の細部だけだよ。根っこにあるものは最初からルベルドの中にあった。私はそれを引き出しやすい方向に向けただけ」
ルベルドは少し黙った。
「……一年弱の稽古で、今年の選抜試験を受けるに足る実力がついたと思いますか」
「正直に言うね」
「頼む」
「通る。今の君なら通ると思っている。加護を得たと噂が十分に流れた。それとこの一年の成長の速さを合わせれば、選抜試験の水準は越えられる。それだけの根拠がある」
「……根拠があってよかった」
「ルベルドは根拠を求めるね、いつも」
「感情論より根拠の方が信頼できる」
「そういうところは変わっていないな」
レオニードが荷物を少し持ち直した。
「ねえ、一個だけ聞いていいかな」
「なんだ」
「コゴメ様の傍に立つ、という気持ち——今はどれだけ強くなっていますか」
それは面接官が試験者を見定めるような相手の真髄を確かめる為の言葉だった。
ルベルドは少し間を置いた。
「……一年前より、ずっと強くなっている。それは確かだ」
「具体的には」
「……コゴメが風邪をひいて図書棟に来なかった日、俺は退屈だった。それだけじゃなく、心配だった。傍にいられないことに——何かが落ち着かなかった。その感触が、今は分かる。あれが何だったかが」
「なに?」
「コゴメの傍にいることが、俺の普通になっていた。俺はコゴメが隣に居ない日常をもう考えられない。俺は、コゴメの事が好きだ」
レオニードが静かに頷いた。
「……それが近衛騎士になりたい理由の核心だね」
「そうだ」
「守りたいじゃなくて——傍にいたい。そのために守れる者になりたい。その順番が大事なんだと思う。大会の決勝でもコゴメ様の方を何度か確認していたのを、あなた自身は意識していなかっただろう?それが全部を示している」
ルベルドは答えなかった。しかし否定もしなかった。
「本当にコゴメ様の事が大切なんだね。学園にいる間、令嬢に恋心を持つ者は今までも見たきた。だけど、それを理由に近衛騎士を目指した人でここまで到達した人は君が初めてだよ。来年は選抜試験が終わったら、報告に来てくれるかな。私は学園を離れるけど騎士として引き続き活動するから——ルベルドが通ったと聞いたら、本当に嬉しいと思う」
「分かった。報告する」
「約束ね」
「約束する」
レオニードが少し微笑んだ。夕暮れの光の中で、その笑顔は柔らかかった。
「——じゃあ、頑張って。あとは自分でやること。私が言えることは全部言った。後はルベルドが自分の力でやること。それだけだよ」
「分かっている」
「うん」
二人は少し黙っていた。遠くで誰かの笑い声が聞こえた。卒業生たちの声だろう。
「……先輩」
「うん」
「一年、ありがとうございました」
レオニードが少し目を細めた。
「……私からも、ありがとう。君は良い弟子だった」
「弟子と認めるか」
「最初から思っていた。面と向かって言うのが少し恥ずかしかったけど」
「そうか」
レオニードが荷物を持って歩き始めた。その背中を、ルベルドはしばらく見送った。
(……先輩が行く)
夕暮れの光が、演習棟の壁から消えていった。




