61.アダム
黒い煙だ。木が燃えているのではなく、火ではない煙——魔力を消費したときの、特有の黒みがかった滓だ。
「あれは!?」
レインが振り返った。
「集落の方だ」
同時に、ルベルドは丘の下から圧を感じた。
重い。
一人の存在から来る魔力の圧力だ。訓練された者の、制御された圧力。しかしその量が——ルベルドの知る人間の中で、一人の基準に近かった。
(……三年の特別近衛騎士に匹敵する水準。それが、一人でここに向かって来ている)
「来るぞ」
「え——」
木々の間から、男が現れた。
年は二十前後に見えた。がっしりした体格で、外套は暗い色をしている。よく見れば髪の色が赤い。例の男だと気づく。
目が鋭い——感情がない、というのではなく、冷めていた。全てを見下ろしているような、そんな目だった。腕に刻まれた紋様は見えない。刻印系の強化ではない。
この男の力は、純粋な鍛錬と魔力量から来ているものだ。
(……恐ろしいな)
「お前たちが先に来ていたか」
男が言った。声は低く、落ち着いていた。
「神域に来た理由は?」
「それはこちらが聞くことだ」
ルベルドが前に出た。
「この場所を荒らすつもりか」
「荒らすとは穏やかではない。俺たちはただ、神と話をしたいだけだ」
「……お前たちは誰の命令で動いている」
男が少し眉を上げた。
「学生にそれを教える義理はないが——まあ、答えてやろう」
男の視線がルベルドをまっすぐ見た。
「お前、面白い目をしているな。並の学生じゃない。……どうだ、俺たちの組織に来ないか」
(……提案?)
ルベルドは驚かなかった。警戒の中に、その可能性は頭に置いていた。しかしこれほどあっさりと言ってくるとは思わなかった。
「……俺の力をそう判断するのか」
「ここまで圧力を感じさせる学生は、滅多にいない。たとえ加護がなくてもだ。そういう原石は、使い方次第で格段に伸びる」
そのとき。
集落の方の煙が、濃くなった。
悲鳴のような声が、風に乗って聞こえてきた。
ルベルドは即座に判断した。
(……この男に加えて、集落側にも別動隊がいる。同時攻撃だ。狙いは——神域での俺たちとの対処と、住民への陽動か)
「ルベルド!!」
レインが振り返った。煙の方向を見て、表情が変わる。
「住民が!!行かないと!!」
「待て」
ルベルドが言った。
男がまだいる。この男を放置してレインが一人で集落に向かうのは危険だ。しかし——集落も放置できない。
(……計算する)
この男の力は高い。ルベルドが「見せられる範囲」の力で相手をするには綱渡りだ。しかし——集落に向かっているのは男の手下だろう。強さの桁は数段落ちるはずだ。
(……レインは集落で戦える。ただし、今は加護がない。ギリギリになるかもしれない)
「レイン」
「なんだ!!」
「俺がこいつの相手をする。お前が集落の住民を助けに行け」
「でも——お前一人で大丈夫か!?」
「俺は問題ない」
「本気か?あいつ、めちゃくちゃ強いだろ!!」
「……問題ない、と判断した。村を守れるのはお前だけだ。俺はお前を信用している。だからお前は俺を信じろ。お前ならできる」
レインが一瞬だけ、ルベルドをまっすぐ見た。
「できる!!だから……必ず終わらせて村に戻ってこいよ!」
「約束する」
「絶対だぞ!!」
レインが走った。土属性の魔力を足元に流して速度を上げ、丘を駆け下りていく。
男がそれを見て、特に止めようとしなかった
「友人を行かせたか。いい判断だな」
「お前の仲間は集落の人間をどうするつもりだ」
「今日のところは脅して終わりだ。それで神が姿を消せば意味は無いからな。俺の目的はここにある」
「神域を狙うためか」
「まあ、そうだ。ただ今は少し目的が変わった」
男がルベルドを正面から見た。
「お前に興味が出た。もっと話したい」
「話す内容による」
「まあ聞け。俺たちの組織の名前を知っているか」
ルベルドは少し止まった。
「……知らない」
「アダムという」
(アダム)
兄スルクがヴェルダで言っていた言葉が、頭の中に戻ってきた。「組織がある」と。名前は明かさなかったが——これがその名前だろう。
「我々の目的はシンプルだ。神の力を手に入れ、この世界の均衡を変える。魔族……いや、今の世は魔王が決定権を持つ。それを我々アダムの手で取り返す」
「取り返す――とは、なんとも傲慢な考えだな。元から人間が上に立っていた事などないと思っていたが。そのために神殺しのために動いている、と」
「……いや、それは少し古い考えだ。組織の一部には今でも魔族への復讐を第一にしている者がいるが——俺は別の考えを持っている」
ルベルドは黙って聞いた。
「神が与える加護の体制を変えることだ。力を持てるのが神に選ばれた人間だけというのは、おかしい。お前も強い。若くしてその魔力の密度は神に選ばれなくてもここまで来られると証明している。そういう者が、加護を持つ者以上の力を手に入れられる可能性を探っている。俺たちと来ないか」
「断る」
男の動きが少し止まった。
「早い返事だな。理由を聞かせてくれ」
「お前たちは神域で島の人間を傷つけた。昨日聞いた話だ。老人の腕を一発食らわせた」
「それは俺の仕事の範囲ではない。仲間の一部が——」
「俺には関係ない。組織の行為はその組織のものだ。老人を傷つける組織には入らない。それ以上の理由はいらない」
男が少し眉を上げた。
「守りたいものがある人間か。……若い」
「若さが関係あるのか。それで何が変わる」
「守りたいものが足枷になる。いつか分かるさ」
「足枷でもいい。俺は俺の判断で動く」
男は長い息を吐いた。
「まあ、断られるとは少し思っていた。だからこそ最初から戦うつもりだったしな」
「そうか」
「一つだけ聞く。俺に殺されないでくれるか?」
それは挑発ではなかった。本気の言葉だ。ルベルドは少し間を置いた。
(……本気を出す)
この場には人間はいない。レインは離れた。コゴメもダリアもいない。いるのはルベルドとこの男だけだ。
「お前を倒す」
男が少し目を見開いた。
「そう来るか。なら俺も手加減しない」
ルベルドは右手を開いた。
闇の魔力が集まった。
今まで人間の前では絶対に出さなかった力——魔王の息子の本来の出力が、掌に生まれた。周囲の空気が微かに変質した。温度が少し下がる。影が濃くなるような感触。
「……ほう」
男の目が細くなった。
「やっぱり普通じゃない。何者だ、お前」
「旅人だ」
「嘘が上手い。まあいい」
「いいから来い」
男が構えた。体重の乗った、安定した構えだ。
「名を教えてやろう。ズームという。今日は俺と戦ってもらう」
「ルベルドだ」
「知っている。良い名だ」
ズームが動いた——と思った瞬間には、すでに右側に来ていた。
速い。
速度のある戦い方ではなく、動作の無駄がない。一歩一歩が最短距離で最大効率の動きをしている。
(……これが、この男の強さの根幹か。力量でだけじゃなく、動きの質もいい)
ルベルドは後退しながら闇の防壁を展開した。
ズームの拳が防壁に当たった。防壁が揺れた——揺れただけで崩れなかった。しかし衝撃の大きさが、並の人間のそれではないことが分かった。
(……本気を出す必要がある)
今まで「人間の範囲内」で戦ってきた。魔族としての力を、あくまで制限した状態で。
しかし——この男に対して、それで通用するかどうか。
(……通用しない)




