59.嵐の神
ガウルの家は港から少し歩いた場所にある石造りの小屋だった。
中は質素で清潔だった。壁に漁師の道具が整然と掛けてあり、角の棚に何かの干し草が束ねてある。窓から海が見えた。
ガウルが茶を出した。磯の香りのする濃い色の茶だった。
「お前たち、神域に行きたいのか」
茶碗を受け取りながら、ガウルが聞いた。
「はい。嵐の神がこの島に眠っていると聞きました」
「眠っている、か。俺たちは『見守っている』という言い方をする。眠っているより、もう少し近くにいる感じがするから」
ガウルが自分の茶碗を持ち上げた。
「この島に来て七十年。嵐で流されたことは一度もない。漁師仲間が何十人も死ぬような嵐でも、ガルム島の漁師は皆助かる。それが嵐の神の加護だ」
「島の人たちはみんなそれを知っているんですか」
「生まれた時から聞いている。神様が守ってくれている、だから感謝して生きろ——爺さんに婆さんに散々言われた」
ガウルが少し笑った。
「神域の場所は分かりますか」
「分かる。北の森に入って、半刻ほど進むと岩場に出る。そこからさらに奥に進むと石柱が立っている。その先が神域の入り口だ。昔から『神の座』と呼んでいる」
「具体的に教えていただいてありがとうございます」
「ただ」
ガウルの声が少し重くなった。
「……最近、島に変な者たちが来た」
レインが身を乗り出した。
「黒い外套の男たちですか」
「知っているのか」
「以前、別の場所で会いました。神を狙う連中だと思います」
ガウルが茶碗を置いた。
「三日前のことだ。五、六人が突然来て、島の漁師に神域の場所を教えろと迫った。漁師の一人が断ったら、魔法で痛めつけてきた。仕方なく場所を教えてしまった」
「怪我人は出ましたか」
「腕を一発食らったが、大事には至らなかった。ただ——怖い思いをさせてしまった。島の年寄りに、そんな事をするとは思わなかった」
ガウルの目に怒りが宿った。静かな怒りだった。
「その中に、特に目立つ男はいましたか」
「一人だけ、妙に大きな男がいた。背が高く、体格がいい。他の男たちとは別格の雰囲気がした。赤茶の短い髪で……顔に古い傷がある」
(……そいつが実質の戦力だ)
ルベルドは静かに判断した。
「今その男たちは北の森にいるということですね」
「神域の方向に向かっていった。……お前たちも行くのか」
「行きます。ただ、今日の夜は島の方々に家から出ないようにお願いできますか。また来た場合、集落が狙われる可能性があります」
ガウルが少し黙った。
「……お前ら、あいつらを追い払う気か」
「俺たちが行くのは神域へです。ただ、鉢合わせた場合に備えます」
ガウルが立ち上がった。
「今日は泊まっていけ。無理に今日動く必要はない。明日の早朝に出た方がいい。北の森は朝の方が視界が良い」
「……お世話になります」
「礼はいい。ただし——無事で帰ってこい。若者がこの島で死んだら、俺は眠れなくなる」
ガウルが静かに言った。
ルベルドはその言葉を受け取った。
老人の口から出た言葉は短かったが、確かな重みがあった。
◆◇◆◇
「どうして加護を求めているんだ」
夕飯の時だった。ガウルが聞いてきた。
「俺の方からいいですか!!」
レインが少し前に出た。
「俺、近衛騎士になりたくて修行をしています。でも、まだ自分の力に限界を感じていて。この島の神様のことを聞いて、来ました」
ガウルが少しの間、二人を見比べた。
「……正直だな」
「正直に話した方が良いと思ったので」
レインがルベルドを横目で見た。ルベルドは表情を変えなかった。
「嵐の神は昔から、この海と島を守ってきた。数年前にも、陸から若い騎士様が一人来たことがある。その方が神様の加護を受けて帰っていったのが、島の人間は今でも話題に上がる」
(……レオニードだろう)
「その騎士様はどんな方でしたか」
「落ち着いていた。若いのに、でもどこか芯が通っていて。神様に会う前に、島の年寄りにいろんなことを聞いて回っていた。神域は、急いで行こうとしても辿り着けない。島のことを知ってから行く方がいいと、昔からそう言われているんだ」
「知ってから行く、とはどういう意味ですか」
「神様は、来た者が何を求めているかを見る。力だけ求めている者には姿を見せない。でも、ちゃんとした意志を持つ者の前には現れるって、昔からそう伝わっているんだ」
ルウルはその言葉を聞きながら、去年の実習での神との邂逅を思い出した。神は確かに選ぶ。誰にでも与えるわけではない。
「……島のことを教えてもらえますか。どんな歴史があるのか、神様がどんな形で島を守ってきたのか」
「いいとも。そういう話なら、いくらでもできる」
ガウルの話は長かった。
嵐の神がまだ若く、力があり余っていた時代のこと。島を大きな波が襲ったとき、神が海を鎮めたこと。漁師が海で遭難しかけたとき、突然の追い風が船を港まで運んだこと。
話の一つひとつに、島の人間たちの神への感謝と敬意が滲んでいた。神が「力の象徴」ではなく「守るもの」として語られている。
(……この島の人間は他とは考え方が変わっている)
多くの人間が神は「力を与える存在」として見る傾向がある。しかしこの島では、神は一種の守護者として、長い時間をかけて人間の生活の中に根づいている。
夕方まで話を聞いた。
ガウルが最後に言った。
「神域は島の中央の丘の上にある。ただ——丘の手前には霧が出る場所があってね。それを抜けないと辿り着けない。霧は、来た者の心を映す。怖れと迷いがある者は、霧の中で迷い続ける」
「怖れと迷いがなければ抜けられる、ということか」
「必ずしも『ない』必要はない。怖れも迷いも、人間の自然な感情だから。ただ——それより強い何かを持っていれば、霧は晴れる」
「より強い何か、とは」
ガウルが少し笑った。
「それは自分で見つけるものだ。外から教えてもらうものじゃない」
◆◇◆
夜、ガウルの家の小さな部屋に二人は寝ていた。外はすっかり暗い。低い机の上に置かれた蝋燭についた小さな火が2人の顔を照らす。そんな中でレインがボソリと語りかけてきた。
「ルベルド」
「なんだ」
「霧の話、気になるよな」
「……そうだな」
「怖れと迷い。あるかもしれないけど……それより強いものって、何だろう」
「考えておけ。きっと大切なことだ」
「分かった。……ルベルドはさ、加護が無い俺の為を思って誘ってくれんだよな。でも、それ以外にもちゃんとした理由がある。それも聞きたい」
(……レインは、よく見ている)
「……コゴメの傍にいるためだ。それが全ての根本にある。お前が力を付けることも、俺が強くなることも、その先に繋がっている」
「そうだよな」
レインが頷いた。
「俺も、そういうもんだ。友達のために、って思うと、力が出る気がする」
「友達、か」
「俺の友達はお前と、コゴメ王女と……あとはダリアとエヴァ令嬢も、広い意味ではそうかな。みんなのそばで戦える奴になりたい。それが、俺が加護を求める理由だ」
ルベルドはその言葉を聞いて、少し目を細めた。
(……レインは、きちんとしている。自分の軸を持っている)
「……お前なら、霧は抜けられる」
「え、そんなに確かな感じで言うか」
「俺の観察では、そうなる」
「……プレッシャーとか言いたいけど、嬉しいの方が勝った!!」
それから言いたいことを言ってスッキリしたのか、レインはあっという間に眠った。緊張があるはずなのに、眠れてしまうのがこの男の強さだとルベルドは思った。
ルベルドは眠れなかった。
天井を見ながら、考えた。
(……組織が先に動いている。神域の場所を把握している。俺たちが来ることも、もしかしたら把握しているかもしれない。組織の規模は分からない。ただ、赤茶の男は強い)
ガウルの話を聞いたとき、ルベルドはその男の描写から魔力の水準をある程度推測した。他の者たちとは別格の雰囲気——それが意味するのは、単なる体格の違いではないだろう。スルクの存在を知った上で再度動き出した。それが選択できるだけの実力を男は持っていると考えるのが妥当だ。
(……レインを連れてきた)
その事実が、静かな重みとして胸にある。
(守る。それは俺の義務だ)
決めたら、決めたままでいる。それがルベルドの性格だった。
目を閉じた。
波の音が聞こえた。この島を守る神の加護が、波の音にも宿っているような気がした。




