37.神域の奥
実習は翌週の水曜から始まった。
対象の神域は「ヴェルダ山林」──ハートヴェルから馬車で二時間ほど北上した場所にある深い山林地帯で、かつて「緑の神」が宿ったとされる古い聖地だ。
朝の集合場所には、今年の二年生全十三班が集まっていた。引率の教員が二名──実技担当のロウと、もう一名は魔法感知の専門家らしい高齢の女性教師だった。
「各班、自立して行動する。緊急の場合は魔法信号弾を使え。班員を単独行動させるな。以上、出発」
説明が短かった。ロウらしい。
馬車が走り出した。ルベルドはレインの隣に座り、窓の外を見た。街並みが後ろに流れて、やがて森が始まった。
「神域ってどんな感じなんだろうな」
レインが言った。
「一応空気が違うって聞いたことあるんだ。魔力が濃いとかさ」
「……それはお前の兄から聞いたのか?」
「そう!何せ俺の兄貴は加護持ちだからな!!あの大地の神から加護を貰ったって少し前に聞いた」
(大地の神……クロードと同じということか)
去年の四年生大会の事を思い出す。
その優勝者と同じ加護という事は近衛騎士ではなくとも相当の実力者ということだ。
「お前の兄上は凄いな」
「へへ!だからこそ俺も負けないように頑張る!!」
「いい心がけだ」
(それにしても兄か……魔界に帰った時に父上は何も言わなかった。生きてはいるのだろう)
ルベルドは何となく後ろを見た。
後ろの席でダリアがコゴメに何かを言っていた。コゴメが笑っている。その笑顔をルベルドは視界の端で確認してから、再び窓の外に目を向けた。
(……神域。加護を得るための場所)
神が顕れるかどうかは分からない。しかしもし顕れたとして―――この班の中で、神に認められそうな者は誰か。
ルベルドは考えた。
(コゴメはすでに愛の女神の祝福を受けている。ダリアは……力への意志が強い。レインは……まっすぐだ)
どちらにしても、ルベルド自身は関係のない話だ。魔族に神の加護は下りない。
(……分かっている。ただ)
知らない場所に行くことの、純粋な好奇心が動いていた。それだけで十分だった。
馬車が止まった。
「着いたぞ」
レインが先に降りた。ルベルドも続いて降りた。
山林の入り口に立って──空気の違いが、すぐに分かった。
(……濃い)
魔力の密度が、ハートヴェルより明らかに高い。それも人工的なものではなく、地面の奥深くから滲み出てくるような自然な濃さだ。魔族の感覚器官を持つルベルドには、それが皮膚を通じてじんわりと伝わってきた。
「……すごい」
コゴメが小声で言った。
「なんか、空気が違いますね」
「お前にも分かるか」
「薄く分かります。なんか、ここは特別な場所なんだって感じで」
ダリアが周囲を見回した。鋭い目で、木々の間を確認している。
「……実習の注意事項通り、班員の単独行動は禁止だ。姉様、僕から離れないでください」
「もう、分かってるよ」
「分かっていない人に限ってそう言います。それに姉様には前例があります」
「ダリアぁ」
子供らしいコゴメの様子を見てルベルドは少し口の端を動かした。
(……これが、姉弟ならではだな)
「行くぞ」
ルベルドが先に歩き出した。
◆◇◆◇
三日間の実習の目的は「神域内の魔力マップ作成」だった。
地図を持ち、エリアを分割して魔力の流れを感知し、記録する──教員から渡された課題表には、そう書かれていた。
一日目は無事に過ぎた。
山林の中は、確かに不思議だった。木々が古く、幹が太い。地面の苔が深く、足を踏み出すたびに柔らかな音がする。鳥の声は聞こえるが、その声が不思議と遠く感じる。
夜の野営では、ルベルドが見張りを買って出た。睡眠をそれほど必要としない魔族の体質が役に立つ。途中コゴメが起きてきた時には二人で少し話したり、ダリアが交代を申しでたりもした。レインは熟睡していた。
二日目の朝から、空気が変わり始めた。
より深い区画に進むにつれて、魔力の密度が上がった。それだけではなく何かが、静かに「こちらを見ている」ような感覚があった。
「……ルベルド」
レインが少し声を落とした。
「なんか変な感じがしない? なんか、見られてるような」
「感じている」
「これ、神の気配ってやつか?」
「分からない。ただ、この場所は普通ではない」
ダリアも同じ感覚を持っているようだった。無言で、しかし目を鋭くして周囲を観察している。
コゴメが少し立ち止まった。
「……何か、います」
声が静かだった。コゴメらしくない、しっとりとした声音で。
「どこだ」
ルベルドが聞いた。
「前。……大きな木の根元に、光が見える気がします。ほんの少し。緑色の」
ルベルドが視線を向けると―――確かに。
大きな古木の根元で、何かが淡く光っていた。緑色の、微かな光。人間の目では見えないかもしれないが、コゴメにはそれが見えている。
(……愛の女神の祝福があるから、神の気配が感じ取れるのか)
「近づいていいのか」
レインが囁いた。
「……分からない。ただ」
ルベルドは一歩前に出た。
「逃げる必要もない」
四人で、ゆっくりと古木に近づいた。
近づくにつれて、光が大きくなった。木の根元に、地面から滲み出るように緑の光が広がっている。温かくはない。冷たくもない。ただそこにある、という存在感だった。
「……これが」
コゴメが息を飲んだ。
「神の、気配……?」
返事はなかった。ただ、光がある。
四人は古木の前に立って、しばらく黙っていた。
風が止んだ。鳥の声も、遠くに消えた。
ルベルドはその静けさの中で、何かが動く気配を感じた。──地面の奥から。木の根から。空気の中から。何かが、じわじわと集まってくるような。
(……これは)
「……来た」
ダリアが言った。声が低かった。ルベルドも感じた。何かが、ダリアに向かって動いている。
霧の中から、光が滲み出すように現れた。人の形をしているが輪郭がぼんやりしている。顔はない。ただ——圧がある。
(……神だ)
ルベルドは本能的に理解した。これは神の顕現だ。人間に加護を与えるかどうかを見極める存在。
神はダリアの前に立った。それ以外の三人には―――視線すら向けなかった。
ダリアが一歩前に出た。
「……来なさい」
試練が始まった。
それは戦闘ではなかった。ダリアの足元から地面が割れ、幻影のような敵が次々と現れた——過去に戦った相手、自分の弱点を突いてくる動き、疲弊した状態でなお立てるかという問い。
ルベルドたちは手を出せなかった。これはダリア一人の試練だった。
レインが拳を握って見ていた。コゴメが息を呑んでいた。
ダリアは―――倒れなかった。
最後の幻影が消えたとき、ダリアは膝をついていたが、顔は上を向いていた。
神の光が、ダリアの手に触れた。
「……あなたは―――加護を受けるとるに相応しい」
声ではなかった。ルベルドの耳には言葉として届かなかった。しかしダリアには聞こえたらしく、目を閉じてその光を受け入れた。
光が収まった後、ダリアはゆっくり立ち上がった。
「……変わった」
静かにそれだけ言った。
「何の加護だ!!?」
レインが思わず聞いた。
「炎の加護だと思う。まだよく分からない。前より、ずっと強く火属性の魔法を使える―――そんな感じがする」
神がまだその場にいた。次にコゴメの前に移動した。
コゴメが少し体を固くした。ルベルドは一歩前に出ようとして―――止めた。
これはコゴメ自身の時間だ。
神はコゴメをしばらく見ていた。それから、光の形が少しだけ変わった。
(……何かを言っている)
コゴメの表情が、驚きから―――静かな何かに変わった。神との間に何かが交わされている。ルベルドにはその内容は分からなかった。
やがて神の光が薄くなった。コゴメが振り返った。その目は何故か少し潤んでいて、神との対話で何かがあったのだと分かる。
「……加護は、受け取れませんでした。でも―――何かを、もらった気がします。うまく言えないですけど」
「そうか」
ルベルドは言った。
「はい」
コゴメが少し笑った。
神はルベルドの前には来なかった。
遠くから一瞬だけ光の輪郭がルベルドの方を向いた気がしたがすぐに霧の中へ消えていった。
(……俺のことは、分かっているのだろうか)
やはり魔族に加護は与えない。それが神の選択だ。ルベルドは静かにそれを受け入れた。
レインだけが、神と対面できなかった。
神はレインの前にも現れたが、試練を与えることなく通り過ぎた。
「……俺、まだ足りないのか」
レインが呟いた。
「今じゃないというだけだ」
ルベルドは言った。
「神が通り過ぎたのは、拒絶ではない。まだ時が来ていないということだろう」
「……そうか。そうだよな!!」
レインが返事をする。
その時、森が揺れた。
「──退け」
ルベルドが瞬時に振り返った。
それと同時に、山林の木々の間から、黒い影が動いた。




