35.エヴァという人間
ある日の夕方、演習棟で練習を終えたルベルドは、廊下でレオニードとすれ違った。
「ルベルド」
レオニードが穏やかに言った。
「少し良いかな」
「何だ」
「エヴァ様の側近になった、と聞いたよ」
「そうだ」
「私たち縁があるよね。コゴメ様のこともそうだし、エヴァ様の事も。本人から聞いたよ。『ルベルド・コロールとの週二度の議論はとても楽しい』と、あの人らしい言い方で」
直接エヴァがそういったのだとしたら少し意外だった。ルベルドは少し口の端を動かした。
「そうか」
「私はエヴァ様の近衛騎士になる。進級後には正式に任命される。それまでの間、彼女の『補佐』をしているのだけど」
レオニードが少し間を置いた。
「エヴァ様は、自分で選んだ人間しか傍に置かない。あなたを選んだということは、それなりの理由があるよ」
「分かっている」
「あの方は感情が見えにくいけど感情がないわけじゃない。ただ、感情を示すことが得意じゃない。そこは誤解しないであげて」
「……それは分かり始めている」
「良かった」
レオニードが少し笑った。
「あなたとエヴァ令嬢の組み合わせは、私には少し意外だったけどいい組み合わせだと思うな。コゴメ様とどっちを応援するか迷っちゃうくらい」
「どういうことだ?」
「君は頭はいいけど人の気持ちを読み取るのは苦手だよね」
(……レオニードは的確だ)
「お前はそういう分析が好きだな」
「嵐神の加護の影響かな。先を読む癖がある」
レオニードが肩をすくめた。
「一つだけ言っておく。エヴァ様に何か重いものを背負わせないように。あの方は、一人で抱えようとする」
「……どういう意味だ」
「あの方は責任感が強すぎる。弱みを見せることを、してくれない。そういう人間が感情的な依存をするようになると、本人が苦しんじゃうから」
「……俺がそういう相手になるかどうかは、今の段階では分からない」
「そうね。でも頭に置いておいて」
レオニードはどこか呆れたような顔をして去った。ルベルドはしばらくその場に立っていた。
(……エヴァは、一人で抱えようとする)
初めて会ったときから、何かを抑えた空気があった。
それはルベルドにとって——少し、分かる感覚だった。
◆◇◆◇
三度目の議論の帰り際、エヴァが突然言った。
「あなたは何でも本で読んで知っているの?」
「大体は」
「では、海を見たときどんな感じだったの?」
唐突な質問だった。
「……なぜそれを」
「あなたの試験後の自己評価書に『今夏、初めて海を見た』という記述があったから。試験の書類に私的なことを書く人は珍しかったわ。あなた、可愛いところもあるのね」
「……読まれていたか」
「あなたには特段興味があったから、それで」
ルベルドは少し考えた。
「目が離せなかった。水平線があって、空との境目がぼんやりしていて——どこまでが海でどこからが空か分からない場所が、遠くに見えた」
「……それを『きれい』とは思わなかったの?」
「そういう言葉が浮かばない程に見とれていた。……綺麗だと思ったからの反応だ」
エヴァが少し黙った。
「私は海を見たことがある。でも『大きい』と思って終わりだった」
「……感じ方は人それぞれだ」
「そうね。でも——あなたのその感じ方は、面白いと思う」
「面白い」という言葉を、エヴァは感情なく言った。しかしルベルドには、それが本心だと分かった。この令嬢が「面白い」と言うとき、それは本当に純粋な知的好奇心から来ている。
(……エヴァ・クレールは、難しい人間ではない)
感情が見えにくいだけで、内側には確かに何かがある。それがどういうものかは、まだ分からなかったが。
五度目の議論の日、エヴァが珍しく少し早く来ていた。
ルベルドが学習室に入ると、エヴァはテーブルの端に小さな氷の結晶を浮かべていた。手のひらほどの大きさで、複雑な六角形の形をしている。
「……それは?」
「練習。『身体の動きを先に』というのをを試していたの」
エヴァが氷を消した。
「少し、良くなった気がします」
「気がするだけか?」
「確信には実績が必要です。一回うまくいっただけでは確信には至りません」
「……それは正しい考え方だ」
二人は席に着いた。この日は「応用魔法と判断速度の関係」がテーマだった。
議論が進むうちに、エヴァが突然言った。
「あなた、コゴメ王女のことが好きでしょう?」
ルベルドは少し止まった。
「……なぜその話を」
「だって貴方他の子とは分かりにくいのにコゴメ王女の事になるとあからさまに変わりますもの」
(……この令嬢には、見える)
「……否定しない」
「私に話す必要はないけれど、一つだけ聞いていい」
「なんだ」
「あなたはその感情を別の者に向ける可能性はある?」
ルベルドはエヴァを見た。エヴァの表情は変わらない。しかし眼差しが、いつもより少しだけ揺れているように見えた。
「ない」
断言だった。
エヴァが少し間を置いた。
「それは良いことだと思います」
「……お前もお節介なやつなのか」
頭の中に騒がしいレインの顔が浮かぶ。
「どうでしょう」
エヴァが少し止まった。それから——初めて、口の端がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。
「貴方は私が初めて見た頃から大きく変わりましたね」
「……そうか?」
エヴァは小さく頷いた。
「あなたの変化に、置いてかれてしまったようで少し悲しいです。私は感情が乏しいままだから」
「感情が見えにくいだけだとレオニードは言っていたぞ」
「……あの人は余計なことを言う」
エヴァが目の奥が小さく動いた。
「事実ではないか」
「……事実ね」
エヴァが視線を手元に落とした。
「私が感情を表に出さないのは、出す方法が分からないから、というのが正確だと思う。どう表現すれば良いか分からなくて、だったら出さない方が誤解がないと思ってきた」
「……それは俺も似たような経緯だ」
ルベルドは静かに言った。
「一年生の初めの頃は知らない感情がたくさんあった」
「今は?」
「少しずつ、分かるようになってきた。悔しい、嬉しい。そういう言葉が、後からじゃなく同時にくるようになってきた」
「……そういうことが、あるのね」
「時間と、話す相手がいれば」
エヴァが少し黙った。窓の外、秋の葉が風に揺れている。
「……私にも、そういうことが起きるでしょうか」
「俺には分からない。しかし、エヴァ令嬢は、今ちゃんと話している。それは前進だ」
「……そうね」
エヴァが視線を上げた。
「きっとあなたと話しているおかげ。本当はもっと話したいのだけれど―――」
エヴァはどこか遠くを見た。
「あなたの時間はあなたのものだから」
「そうか。ただ俺にとってお前といるのは悪い時間ではない」
エヴァがまた少し黙った。それから「そう」と言った。今度の言葉はいつもより少し温度があった気がした。
選抜試験から二週間後、進級式が行われた。
一年生が二年生になる。それだけのことだが、学園の廊下の空気が、少しだけ変わった気がした。
「二年生!!」
レインが廊下でぐるりと大回転した。
「俺、二年生になったぞ!!」
「そうか」
「お前もっと喜べよ!! 一年間頑張ったんだぞ俺たち!!」
「頑張ったな」
「それだけか!!」
ルベルドは少し口の端を動かした。
「……良くやった。お前も、俺も」
「……!なんか、そっちの方が嬉しいな」
レインが少し照れくさそうに笑った。
「来年の試験、俺また受けるからな」
「分かっている」
「兄貴、来年で卒業だから見てくれるの最後だと思う。全部出したい」
「出せるかどうかは俺には分からないが、お前が諦めない限り可能性はある」
「ルベルドに言われるとなんか本気で信じられる!ありがとな!!」
二年生になった廊下を、二人で歩いた。
その夜、ルベルドは宿の窓から星を見た。
(……来年の秋まで、やることがある)
選抜試験。学業の維持。実技の精度向上。エヴァ令嬢との時間から学べることを吸収する。そして―――父上の言葉の意味を、いつか考えなければならない。
「魔族と人間の共存は平和にはできない」
その言葉が、静かに浮かんでいた。
(……良い一年だった)
コゴメとの日記のやり取り。レインとの旅。洞窟。嵐の夜。試験の悔しさ。エヴァとの出会い。
それらを抱え、明日から二年生だ。




