27.帰省
ハートヴェルに戻って三日後のことだった。
夕方、レインと別れて宿に戻ったルベルドは、部屋の窓から空を見ながら考えていた。
(……魔界に帰るか)
人間界に来てからもう一年が経とうとしている。父上は魔王だ。ルベルドが人間界にいることを、知らないはずがない。しかし何も言ってこない。それはつまり、待っているということだろう。
(一度、顔を見せるべきだ)
決めたら動くのが早い。深夜、街の外れの暗い林の中で、ルベルドは魔界への転移魔法を展開した。
漆黒の渦が足元に広がる。
―――そこへ踏み込んだ。
◆◇◆◇
魔界の空は、変わらず暗い紫だった。
転移した先は魔王城の近く、城下の外れの岩場——密かに設定していた転移点だ。
(……久しぶりだな)
一年ぶりの魔界の空気は、人間界より重く、乾いていた。生き物の気配が少なく、静かで——ルベルドが「退屈」と感じていた静けさだ。
しかし今は、「退屈」とだけは感じなかった。懐かしい。それが先に来た。
(……変わったな、自分も)
城の正門に向かった。門番の魔族が目を丸くしたが、すぐに道を開けた。
玉座の間に向かった。扉の前で一度だけ深く息を吐いて、開けた。
父上は玉座に座っていた。
白に近い銀色の髪。大きな体。静かな目。ルベルドを見て、表情は変わらなかった。怒っている様子はない。
「……帰ったか」
声は低く、穏やかだった。
「はい」
「一年ぶりだな」
「はい」
沈黙。玉座の間の重い静けさの中で、ルベルドは父上を正面から見た。
父上は何も問わなかった。
「なぜ行った」も「何をしていた」も何も。
理由は大体察しが着いていた。
「体は問題ないか」
「はい」
「食事はできているか」
「できています」
「学園とやらは、どうだ」
やはり、知っていた。直接言わずとも「学園」という言葉を使う。
「……退屈ではありません」
「そうか」
父上が少し間を置いた。
「申し訳なかったと思っています」
ルベルドは言った。
「無断で―――」
「謝らなくていい」
「……え」
「お前が動く理由があったのだろう。私はそれを問いただすつもりはない」
ルベルドは少し黙った。
「ただ」父上が続けた。
「後悔をする選択はするな」
それだけだった。怒りも詰問も禁止も、何もなかった。
「……分かりました」
「食事はしていくか」
「せっかくですから」
「そうしろ」
父上が立ち上がった。食事の間へ向かう。ルベルドはその後ろを歩いた。
(……父上は、いつもこういう方だった)
多くを語らない。しかしちゃんと見ている。悪い事をすればしかと罰を与える。何も言わないことが、ある種の許可になっている。
食事の間で、父上は人間界の話を聞いてきた。細かい話でなか「ルベルドにとって人間とはどういう存在か」という大きな問いで。
「人間は、想像より多様でした」
ルベルドは答えた。
「強い者も弱い者も、賢い者も愚かな者も、一つの場所に混在している。魔界より雑然としている」
「雑然とした場所の方が、お前には合っていたか」
「……退屈ではありませんでした」
「そうか」
父上は少し目を細めた。
「気になる者はいるか」
ルベルドは少し考えた。
「います。何人か」
「名前は言わなくていい」
「……はい」
「ただ」
父上が静かに言った。
「人間と深く関わるなら、いずれ正体の問題が生じる。それは分かっているな」
「分かっています」
「今は聞かない。しかしいつか、自分で答えを出さなければならない時が来る。そのとき、お前がどう判断するか。魔王として、私はただそれを見る」
ルベルドはその言葉を受け取った。
(……正体の問題。いつか向き合わなければならない日が来る)
コゴメに。レインに。学園の人間たちに―――自分が魔族で、魔王の息子だということを。
(まだ答えは出ない。しかし、考え続けなければならない問題だ)
「……分かりました」
父上はそれ以上言わなかった。二人で静かに食べた。
言葉は少なかったが、居心地は悪くない。これが父上との時間だ。
翌朝、城を出た。
「行く前に一つ、言いたい」
門の前で父上が言った。
「なんでしょうか」
「魔族と人間の共存は平和にはできない」
短い言葉だった。
短く、重い言葉。
「それは、どういう」
「……さぁ、行け」
「はい」
真意を探ることはできなかった。
転移魔法でハートヴェルに戻った。夜の空気が魔界より少し暖かかった。
(……帰ってきた)
ハートヴェルに戻ったとき、「帰ってきた」という感覚があった。魔界は故郷だ。しかし今の自分が「帰る場所」として感じる場所は、もう一つできていた。
◆◇◆◇
―――夏休みの最後の日。
コゴメからの最後の手紙が届いていた。
『夏休みもそろそろ終わりですね。
私はこの夏沢山の思い出が出来ました。ルベルドさんはどうでしたか?
ルベルドさんのことだからきっと色々な場所で面白い事を経験したんだと思っています。
学園が始まったら、また図書棟で会いましょう。待っています。 ―――コゴメより』
「待っています」また、その言葉だった。
ルベルドはその文を、少し長く手に持っていた。
レインが言っていた。「好きじゃない相手にそんなことしてくれる女の子はいない」と。「相手にもちゃんと向き合ってもらえていると感じると嬉しい」と。
俺の返事はいつも短かった。しかしコゴメはいつも笑って返してくれる。
俺も知らないところまで理解して。短くても受け取ってくれていた。
(……お前は、本当に)
言葉を続けようとして、止まった。
ルベルドは返事を書いた。今夏の最後の、一番長い返事を。




