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僕の部屋に入り浸る学園一の天使様  作者: 無課金道楽おじさん


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9/10

弁当

 白河さんが来る前に、少し準備をしていた。


 放課後、帰り道でスーパーに寄った。白河さんとは昇降口で別れて、一人でスーパーに向かった。白河さんが来ることはわかっていた。今日は自分が作る、と昨日から決めていたから、材料を揃えておかないといけなかった。


 スーパーの中を歩きながら、何を作るかを考えた。弁当だ。明日の昼用の、二人分の弁当。それだけは決まっていた。でも何を入れるかが決まっていなかった。精肉コーナーの前に立って、鶏肉を見た。唐揚げにしようと思った。唐揚げなら弁当の定番だし、白河さんが好きかどうかはわからないけれど、嫌いということはないだろうと思った。鶏もも肉を一パック取った。ブロッコリーを取った。プチトマトを取った。卵はアパートにあるはずだ。これで弁当が作れるかどうか、正直よくわからない。でも、やってみることにした。


 レジを通りながら、なぜ今日弁当を作ろうと思ったのかを、改めて考えた。


 うまく説明できない。


 白河さんがいつも作ってくれる。だから今度は自分が作ろうと思った。それだけといえばそれだけだ。でも、それだけじゃない気もする。何かをしてあげたかった、という気持ちが、どこかにある。何かをしてあげたかった、というのが具体的に何なのかは、うまく言葉にできないけれど、その気持ちは確かにあった。昨日、「明日、楽しみにしています」と白河さんが言った。あの言葉を聞いてから、何かをしたい、という気持ちが大きくなった気がした。


 袋を持って、アパートに向かった。


 部屋に入って、食材を冷蔵庫に入れる前に、まず弁当箱を探した。棚の奥の方にしまっていた。何年も使っていない弁当箱で、少し埃が積もっていた。二つある。一つは自分のもので、もう一つは実家から持ってきたやつだ。どちらもシンプルな形の弁当箱だ。洗って、乾かしておいた。


 それから食材を並べた。鶏もも肉、ブロッコリー、プチトマト、卵。冷蔵庫から確認すると、卵は四個残っていた。それだけあれば足りるだろうと思った。


 段取りを頭の中で組む。


 まず卵焼き。次に唐揚げ。それからブロッコリー。最後に詰める。その順番で進めるつもりだった。白河さんが料理をするときの動き方を思い出しながら、頭の中で段取りをシミュレーションした。白河さんならどの順番でやるだろう、と考えた。でも白河さんの順番通りにやろうとしても、うまくいくとは限らない。自分なりの順番でやるしかなかった。


 そういうことを考えながら、白河さんを待った。


 コンコン、という二回のノック。同じ力加減の、同じ間隔の、いつもの音だ。その音を何度も聞いてきた。もう体が覚えている音だ。でも今日は、その音を聞いた瞬間、少し緊張した。


 理由はわかっている。今日は自分が作る側だからだ。いつもは白河さんが来て、台所に立つ。僕はローテーブルの前でぼんやりしている。料理の音を聞きながら、匂いを感じながら、ただそこにいる。それが最近の当たり前だった。でも今日はそれが逆になる。自分が台所に立って、白河さんがローテーブルに座る。その逆転が、ドアを開ける前から少し緊張させていた。


 ドアを開けると、白河さんが立っていた。いつもと同じ私服で、いつもと同じ表情で。白いシャツと紺のスカート。見慣れた格好だ。でも今日は、その見慣れた顔を見た瞬間、また少し緊張した。


「どうぞ」


「……お邪魔します」


 中に入ってきて、靴を揃えて脱いで、鞄を置く。その動作もいつも通りだ。でも今日は、台所に向かわなかった。台所を見て、こちらを見た。台所には、食材が少し出ている。鶏肉と、卵と、ブロッコリーが並んでいる。弁当箱も二つ、洗われて並んでいる。その光景を見て、白河さんが少し考えているような顔をした。


「……今日は何か作るんですか」


 白河さんが、部屋に入りながら言った。台所を見て、こちらを見た。いつもと違う、という感覚が、その問いに出ていた。


「うん。今日は僕が作る。弁当」


「弁当、ですか」


「明日の昼用に、二人分。白河さんの分も作る」


 白河さんが少し間を置いた。その間が、いつもより少し長かった。何かを考えているのか、それとも驚いているのか、表情からは読み取れない。どちらにしろ、白河さんが黙っている間が、少しだけ長く感じた。


「……手伝います」


「いい。座ってて」


 また少し間があった。手伝います、と言ったのに、いいと言われた。白河さんがどんな顔をしているのか、少し気になったけれど、台所の方を向いていたので見えなかった。でも白河さんは何も言わずに、ローテーブルの前に座った。


 座る側になった白河さんが、少し不思議な感じがした。いつもはあちら側が台所で、こちら側がローテーブルだ。それが今日は逆になっている。白河さんがローテーブルに座って、こちらを見ている。その視線を背中に感じながら、台所に立った。


 白河さんがいつもここに立っていた。


 そう思いながら、台所に立つ。同じ場所に立っている。でも今日は僕が立っている。白河さんじゃなくて、僕が立っている。そのことが、少し不思議だった。白河さんの視点からこの部屋がどう見えるのか、少しだけわかった気がした。台所から見るローテーブルは、こういう感じなのか、と思った。


 ◆

 まず卵焼きから始める。


 白河さんが卵焼きを作るのを、何度も見てきた。フライパンを傾けながら、手首を使って、くるくると巻いていく。きれいな長方形の形になる。その動作が、何度見ても鮮やかだった。さっと手が動いて、気づいたらきれいな形になっている。それが白河さんの卵焼きだ。自分もあんなふうにできるだろうと思っていた。


 でも、見ているのとやるのは違う、ということが、やってみてすぐわかった。


 卵を二個割って、小さなボウルに入れる。菜箸で溶く。黄身と白身が混ざって、黄色い液体になる。少し砂糖を入れて、だし醤油を少し入れる。白河さんが作るのを見ていて、だいたいこんな感じだと思っていた。分量はわからないから、目分量で入れた。多いのか少ないのかもわからない。とりあえず入れた。


 フライパンに油を引いて、中火にかける。しばらく温めてから、卵液を流し込む。そこまでは問題なかった。卵液がフライパンに広がって、端から少しずつ固まっていく。その様子を見ながら、巻くタイミングを計った。


 問題は巻く段階だった。


 端から巻こうとするのに、うまく形がまとまらない。菜箸で端を持ち上げようとすると、卵が破れる。破れた部分から中身が出てくる。崩れる。端が開く。焦って押さえようとすると、今度は形がぐちゃぐちゃになる。何度か試みて、それでも巻けなかった。フライパンの中で、卵焼きの形をしていないものが出来上がった。巻いたことは巻いたけれど、長方形とは程遠い形だ。不規則な形の、黄色い塊だ。


「……うまく巻けない」


 思わず口に出た。独り言だった。でも、ローテーブルから声が返ってきた。


「巻きすだれを使うと巻きやすいです」


 白河さんが言った。


「そんなのないよ」


「では、菜箸二本を使って端から押さえながら巻くといいです。フライパンを少し傾けて、重力を使うと形が整いやすいです。それから、卵液を流し込む前に、フライパンをしっかり温めておくと、巻きやすくなります。温度が低いと卵がくっつきやすいです」


「……やってみる」


 もう一度卵を割る。今度は三個目だ。四個しかないのに、もう三個目だ。残りは一個になった。失敗するたびに卵が減っていく。フライパンをしっかり温めてから、卵液を流し込む。菜箸二本で端を押さえながら、フライパンを少し傾けながら、ゆっくり巻く。今度は少しましになった。完全には巻けていないけれど、なんとか形らしい形になった。でもやっぱり歪んでいる。端が少し開いている。白河さんが作る卵焼きのように、きれいな長方形にはならない。


 まあいいか、と思って、それで進めることにした。


 完璧じゃなくていい。食べられれば、いい。そう思うことにした。でも、少し悔しかった。こんなに難しいとは思っていなかった。白河さんが作るのを見ていると、簡単そうに見えた。手際よく、無駄なく、さっと巻いてしまう。あれを自分でやろうとして、全然できなかった。見ているのとやるのでは、これほどまでに違うのか、と思った。


 次は唐揚げだ。


 鶏もも肉を取り出して、まな板に置く。一口大に切る。包丁を入れながら、大きさを揃えようとした。でもなかなか難しかった。包丁の角度を一定に保ちながら切るのが難しい。鶏肉が少し滑る。皮の部分が切りにくい。押さえながら切ると、形が変わる。結局、大きさのばらばらな鶏肉が並んだ。大きいものと小さいものが混在している。これはこれでいいか、と思うことにした。


 ポリ袋に鶏肉を入れて、醤油と酒と生姜で下味をつける。生姜はチューブのやつだ。にゅっと出して、袋の中に入れる。醤油を目分量で入れて、酒も目分量で入れる。多いのか少ないのかわからない。白河さんが作るとき、醤油を量っていた場面を思い出した。白河さんは初めて作るものは全部量っていた。でも今日は何ml入れればいいのかわからない。とりあえず適当に入れた。袋をもみもみして、味をなじませる。それから片栗粉をまぶす。袋の外から揉んで、全体に片栗粉がつくようにする。でも片栗粉が偏った。片方にだけ固まって、全体に均等につかない。もう一度揉み直した。何度揉み直しても、少し偏った。


 フライパンに油を多めに引いて、揚げ焼きにする。鶏肉をフライパンに入れる。ジュ、という音がした。いい匂いがしてきた。油が少し跳ねた。熱い。手の甲に少し当たった。思わず手を引っ込めた。


「……熱い」


 思わず言った。


「油が跳ねていますね。蓋を少しずらして置くと、跳ねを防げます。完全に閉めると蒸気がこもって、揚げ焼きの食感が変わるので、少しだけずらすのがいいです」


 また白河さんが言った。ローテーブルから、台所のこちらを見ながら、淡々と言った。蓋を探して、フライパンに少しずらして乗せた。跳ねが少し減った。


 でも、火加減が難しかった。


 最初は強火で入れたら、外側だけ焦げて中が生だった。一個取り出して、半分に割って確認すると、中がまだピンク色だった。生だ。慌てて火を弱める。弱めすぎると今度はベタっとする。油の温度が下がって、カリッとしなくなる。強すぎると焦げる。そのちょうどいいところを探しながら、何度か調整した。中火にして、蓋をして、少し蒸らしてみた。


「……難しいな、これ」


 独り言みたいに言った。


「揚げ焼きは火加減が難しいです。最初は中火で入れて、様子を見ながら調整するといいです。竹串で刺して、透明な汁が出てきたら火が通っています。ピンクの汁が出てきたら、まだ生です」


 白河さんがまた言った。ローテーブルから、台所のこちらを見て、淡々と言った。


「毎回アドバイスしてくれるじゃん」


「……座っていてください、と言われたので、座っています」


「助言はしていいの?」


 少し間があった。白河さんが何かを考えているような間だった。一秒か二秒か。その間が少し長く感じた。


「……見ていたら、言いたくなりました」


 その答えが少し意外だった。言いたくなった。白河さんが「言いたくなった」という言い方をするのは、あまりない気がした。感情が少し出ている言い方だ。いつもの白河さんは、理由を言う。でも今日は、言いたくなった、という。それが少し新鮮だった。


 見ていたら、言いたくなった。


 こちらがうまくできていないのを見ていたら、言いたくなった。それは心配しているということなのか、それとも別の何かなのか。どちらにしろ、見ていてくれているということだ。ローテーブルに座って、こちらを見ていてくれている。その事実が、少し温かかった。


 でも白河さんはそれ以上何も言わなかった。また前を向いて、静かに座っていた。


 竹串で刺して確認すると、透明な汁が出た。火が通った。取り出してキッチンペーパーで油を切る。大きさがばらばらの唐揚げが、キッチンペーパーの上に並んだ。形は不揃いだけど、色はきつね色になっている。いい匂いがしている。


 一個、そっと食べてみた。


 おいしかった。


 ちゃんと中まで火が通っていて、外側はカリッとしている。下味もちゃんとついている。形はばらばらだけど、味は悪くない。少し安心した。味がおいしければ、形は問題ない。そう思うことにした。白河さんが「想定通りではありません」と言いながらも全部食べていたことを思い出した。形が悪くても、味がよければ食べられる。


 ブロッコリーは塩茹でにした。


 小さな鍋に湯を沸かして、塩をひとつまみ入れて、ブロッコリーを入れる。何分茹でればいいのかわからなかった。


「ブロッコリー、何分茹でればいい?」


「二分から三分です。色が鮮やかなうちに引き上げてください。茹ですぎると色が悪くなります。少し硬いくらいで引き上げるのがちょうどいいです。弁当に入れる場合は、水気をしっかり切ってください。水気が残ると、他のおかずに移ります」


「……わかった」


 タイマーをセットして、二分半で引き上げた。色が鮮やかな緑のままだった。キッチンペーパーで水気を切る。これはうまくできた気がした。今日の作業の中で、一番うまくできたのがブロッコリーかもしれない。茹でるだけだから当然かもしれないけれど、それでも、うまくできた、という感覚は嬉しかった。一つひとつを、なんとかやっている。


 ◆

 後は詰める段階だ。


 弁当箱を二つ、台所に並べる。ご飯を先に詰める。昨日白河さんに教わったことだ。ご飯を先に詰めてから、おかずを入れると安定する。その通りにやってみると、昨日よりは少しうまくいった。ご飯をしゃもじで弁当箱に入れて、表面を軽く整える。白河さんがご飯を詰めるときは、きれいに整えていた気がする。僕がやると、少し凸凹になった。でも許容範囲だと思った。


 次におかずを詰める。唐揚げとブロッコリーとプチトマトの配置が難しい。どこにどれを置けばいいのかわからない。白河さんが作るお弁当を見たことはないけれど、たぶんきれいに詰めるのだろうと思う。色のバランスとか、大きさのバランスとか、そういうことを考えて詰めるのだろう。でも今の僕には、そこまで考える余裕がなかった。


 唐揚げを三個入れる。大きいものを先に入れようとしたら、スペースが足りなくなった。小さいものを先に入れて、大きいものを後にすればよかったのかもしれない。試行錯誤しながら配置した。ブロッコリーを二房入れる。唐揚げの隙間に押し込んだ。卵焼きを切って入れる。形が歪んでいるから、切った断面もきれいじゃない。でも入れた。


 プチトマトを入れる場所がなくなった。


 全部のスペースが埋まっている。プチトマトだけが入っていない。どこに入れようか考えた。隙間を探した。唐揚げとブロッコリーの間に無理やり押し込もうとしたけれど、入らなかった。仕方がないので、唐揚げの上に乗せた。バランス的にはよくないかもしれないけれど、他に場所がなかった。


 二つ分詰め終わって、フタをした。


 フタが少し閉まりにくかった。唐揚げが大きすぎたのかもしれない。少し押さないとフタが閉まらなかったけれど、なんとか閉まった。


 出来上がりを見ると、白河さんが作るものとは全然違う。卵焼きの形は歪んでいるし、唐揚げは大きさがばらばらだし、詰め方も雑だ。でも、自分で作ったものだ。材料を買って、切って、下味をつけて、焼いて、茹でて、詰めた。その全部を自分でやった。白河さんに「座っていてください」と言って、全部自分でやった。


 それは、なんとなく誇らしかった。


 完璧じゃない。でも、やった。それが、今日の弁当だ。


「……できた」


 ローテーブルの方を向いて言った。


 白河さんが立ち上がって、台所に来た。弁当箱を覗き込む。二つ並べた弁当箱を、じっと見た。何も言わない。良いとも悪いとも言わない。ただ、見ている。その沈黙が少し長く感じた。白河さんが黙って弁当箱を見ている。その横顔が、何かを考えているような顔だ。何を考えているのか、表情からは読み取れない。台所の蛍光灯の下で、白河さんが弁当箱を見ている。その横顔が、いつもの学校での横顔とは少し違って見えた。柔らかい、という感じがした。


「……どう?」


「……」


 白河さんがまだ何も言わない。弁当箱を見たまま、何かを考えているような顔だ。


「正直に言っていいよ」


 少し間があってから、白河さんが口を開いた。


「……卵焼きの形が、少し不揃いです」


「知ってる」


「唐揚げの大きさが、ばらばらです」


「知ってる」


「詰め方が、少し雑です」


「知ってる」


「プチトマトが、唐揚げの上に乗っています」


「……それは知らなかった」


「置く場所がなかったんですか」


「そう。どこにも入らなくて」


「……次は、プチトマト用のスペースを先に確保してから詰めると良いです。全体の配置を先に決めてから詰めると、スペースが足りなくなることが防げます」


「次に活かす」


 少し間があった。白河さんが弁当箱を見て、また考えているような顔をした。今度は少し長い間だった。


「……でも」


 白河さんが少し間を置いた。


「……朝比奈くんが作ったんですね」


 それだけ言った。


 評価でも、批評でもない。ただ、朝比奈くんが作ったんですね、と言った。その言葉の意味を、少しの間考えた。良いとも悪いとも言っていない。ただ、誰が作ったかを確認した。でも、その確認の仕方が、何かを言っている気がした。朝比奈くんが作った。その事実を、大事なことのように言った。そういう言い方だった。形が歪んでいても、大きさがばらばらでも、詰め方が雑でも、朝比奈くんが作った、という事実がある。その事実に、何か意味があるような言い方だった。


「そうだよ。明日、渡す」


「……はい」


 白河さんが、一つを受け取った。両手で持った。大事そうに、丁寧に持った。弁当箱を受け取るときの持ち方が、両手だった。フタをしたまま、少しの間、また見ていた。弁当箱のフタの上から、中を確認しようとするのか。でもフタをしているから中は見えない。ただ、持って、見ていた。


 その持ち方が、丁寧だった。大事にしてくれているように見えた。


「……明日、楽しみにしています」


 小さい声で言った。


 その言葉が、頭の中に残った。楽しみにしています。白河さんが楽しみにしている。歪んだ卵焼きと、ばらばらな唐揚げと、雑な詰め方の弁当を、楽しみにしている。唐揚げの上にプチトマトが乗っている弁当を、楽しみにしている。


 楽しみにしています、という言葉を、白河さんが言う。その言葉のトーンが、いつもとは少し違った気がした。いつもより少し、柔らかかった気がした。気のせいかもしれないけれど、そう聞こえた。


 なんとなく、胸の奥が温かくなった気がした。


 その温かさが何なのかを、考えようとして、やめた。考えなくても、温かいのは確かだった。それだけでいい気がした。今夜は、それだけでいい。


 ◆

 白河さんが帰った後、部屋に一人になった。


 台所には、使った道具が残っている。フライパン、まな板、菜箸、小さな鍋、ボウル。油が飛んだ跡がガスコンロの周りに残っている。キッチンペーパーが丸まって捨ててある。片栗粉が少し台所に散らばっている。白河さんがいつも使った後の台所は、きれいだ。使った形跡がない。でも今日は違う。使った形跡だらけだ。これは自分で片付けないといけない。


 でも少しの間、ローテーブルの前に座っていた。


 今日、弁当を作った。


 卵焼きはうまく巻けなかった。唐揚げは大きさがばらばらだった。詰め方は雑だった。プチトマトは唐揚げの上に乗った。それが今日作った弁当だ。白河さんが作るものとは全然違う。でも、作った。全部、自分でやった。白河さんに「座っていてください」と言って、全部自分でやった。


 なぜ作ろうと思ったのか、白河さんが帰った後でも、うまく言葉にできない。


 白河さんがいつも作ってくれる。だから今度は自分が作ろうと思った。それだけといえばそれだけだ。でも、本当にそれだけなのか、と問われると、自信がない。何かをしてあげたかった、という気持ちは確かにある。でも、その「何か」が何なのかを、これ以上考えるのをやめた。考えてもうまく言葉にならない気がしたし、言葉にしてしまうと何かが変わる気がした。今夜はまだ、その答えを受け取る準備がない。


 明日、楽しみにしています。


 その言葉が、まだ頭の中にある。消えない。楽しみにしています、という言葉を、白河さんが言った。あの声のトーンが、いつもの白河さんとは少し違った気がした。いつもより少し、柔らかかった気がした。気のせいかもしれないけれど。でも、気のせいじゃない気もする。


 明日、白河さんがこの弁当を食べる。


 歪んだ卵焼きを食べる。ばらばらな唐揚げを食べる。雑に詰めたブロッコリーを食べる。唐揚げの上のプチトマトを食べる。そのときの白河さんの顔が、どんな顔なのかを少し想像した。


 想像できなかった。


 どんな顔をするのかが、わからない。問題ありません、と言うのか。おいしくはありませんが、と言うのか。それとも何も言わないのか。あるいは、今まで聞いたことのない言葉を言うのか。


 どれでも、明日が少し楽しみだった。


 台所に立って、道具を洗い始める。


 フライパンを洗いながら、白河さんがいつもここで洗っている、ということを思った。同じフライパンを、白河さんはいつも洗っていた。僕が使った後の、油まみれのフライパンを、毎回きれいに洗っていた。今日は僕が洗っている。白河さんが使ったわけじゃない。僕が使ったフライパンを、僕が洗っている。それだけのことなのに、少し違う感じがした。


 まな板を洗う。包丁を洗う。小さな鍋を洗う。菜箸を洗う。ボウルを洗う。一つひとつ洗っていく。台所が少しずつきれいになっていく。白河さんがいつもやっていることを、今日は自分でやっている。それが、少しだけ白河さんのことを近く感じさせた。同じ場所に立って、同じものを洗っている。白河さんがいつもここでこうしていた。そう思いながら洗った。


 洗い終わって、台所を拭く。ガスコンロの周りの油の跡を拭く。台所が、だいぶきれいになった。完璧ではないけれど、自分なりにやった。


 ローテーブルの前に戻って、座る。


 棚の上に、弁当箱が二つ並んでいる。白河さんの分と、自分の分、二つ並んでいる。どちらも同じ弁当箱で、どちらも同じものが入っている。明日、学校でその一つを白河さんに渡す。白河さんが受け取る。白河さんが昼休みに食べる。


 その場面を少し想像した。


 白河さんが弁当箱を開ける。中を見る。何と言うか。どんな顔をするか。


 やっぱり想像できなかった。


 でも、その想像できない感じが、今日の楽しみだった。明日どうなるかがわからない。それが楽しみだった。今まで白河さんが作るものを食べてきた。今日初めて、自分が作ったものを白河さんに食べてもらう。


 明日が、少し楽しみだった。

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