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僕の部屋に入り浸る学園一の天使様  作者: 無課金道楽おじさん


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10/10

昼食

 

 特別で、美味しかったです。

 昼休みが始まって、すぐに動いた。


 ホームルームが終わる前から、少し落ち着かなかった。今日は弁当を渡す日だ。昨日の夜に作った、あの弁当を、白河さんに渡す日だ。そのことが頭にあって、ホームルームの先生の話が半分くらいしか頭に入らなかった。先生が何を言っていたのか、後から思い出そうとしてもほとんど出てこない。連絡事項があったような気がするけれど、何だったのかも覚えていない。明日誰かに確認しないといけないかもしれない。でも今は、それよりも頭を占めていることがあった。


 昨日の夜から、今日のことを何度か頭の中でシミュレーションしていた。


 昼休みに白河さんの教室に行って、弁当箱を渡して、一緒に食べる。それだけのことだ。でも何度も考えてしまった。白河さんがどんな顔で受け取るか。食べながら何を言うか。おいしいと言ってくれるか。問題ありません、と言うのか。何も言わないのか。全部を想像しようとして、全部を想像できなかった。白河さんの顔を思い浮かべようとするけれど、いつも無表情だから、どんな表情になるのかが読めない。だから何度も考えた。考えても答えが出なかったから、また考えた。そういうことを繰り返しながら、昨日の夜を過ごした。


 夜の間に一度、作り直そうかと思った。


 卵焼きが歪んでいることが、どうしても気になった。フタを閉めるたびに、あの歪んだ断面が浮かんだ。もう一度作れるだろうか、と思った。でも卵が一個しか残っていなかった。一個じゃ二人分の卵焼きは作れない。諦めた。あれで渡すしかない。そう決めてから、少しだけ落ち着いた。決めてしまえば、覚悟ができる。あれで渡す。それだけだ。


 寝る前に、もう一度弁当箱を確認した。


 フタを少し開けて、中を見た。卵焼きはやっぱり歪んでいた。唐揚げはやっぱりばらばらだった。プチトマトはやっぱり唐揚げの上に乗っていた。見ていたら少し笑えてきた。これを渡すのか、と思った。でも渡す。それしかない。フタを閉めて、鞄に入れた。一番上に入れて、潰れないようにした。


 チャイムが鳴った瞬間に、鞄から弁当箱を取り出した。昨日の夜から鞄に入れておいた。潰れないように、一番上に入れておいた。朝、鞄を持つたびに、弁当箱の重さを感じていた。その重さが、今日ずっと頭の隅にあった。授業中も、休み時間も、その重さをどこかで感じていた。鞄を床に置くときも、机に引っ掛けるときも、弁当箱がそこにある、という意識があった。一時間目の数学の授業中も、二時間目の英語の授業中も、弁当箱がそこにある、という感覚が、頭の片隅に常にあった。


 弁当箱を持って、廊下に出る。白河さんの教室に向かった。


 廊下を歩きながら、少し心臓が速くなっているのを感じた。おかしいと思う。弁当を渡すだけだ。ただそれだけのことだ。でも心臓が速い。昨日の夜から何度もシミュレーションしてきたのに、いざ動き出すと緊張する。そういうものなのかもしれない。頭の中でどれだけ準備しても、実際にやるときは別の話だということだ。


 廊下を歩きながら、白河さんが何と言うかを、また考えた。


 おいしかったですと言ってくれるのが一番いい。でも白河さんが「おいしかったです」と言うのは、あまり想像できない。白河さんはおいしくても「問題ありません」と言う。だから「問題ありません」が来るかもしれない。それでも嬉しい。問題ありません、は白河さんにとっての肯定の言葉だから。でも、もし「問題ありません」より低い評価が来たら。おいしくないと言われたら。それは、少し、いや、かなりショックかもしれない。そういうことを考えながら歩いていた。


 昼休みの廊下は人が多い。いつもより歩きにくい。人の間を縫うように歩きながら、弁当箱を抱えていた。潰されないように、少し胸の前で抱えていた。その姿が少し変に見えるかもしれない、と思ったけれど、気にしなかった。


 白河さんの教室の前まで来て、少し止まった。ドアの前で、一瞬だけ止まった。渡せばいいだけだ。ただそれだけのことだ。でも、一瞬だけ止まった。深呼吸するほどじゃない。でも一瞬だけ、止まった。止まってから、少し自分でおかしいと思った。弁当を渡すだけなのに、何をためらっているのか。でも、止まった。そういうものだった。


 ドアを開けて、中を覗く。白河さんは席にいた。いつも通りの無表情で、何かを読んでいた。周りでは昼休みが始まったざわめきがあって、友達と話している人たちや、弁当を食べ始めている人たちがいる。その中で白河さんだけが、静かに本を読んでいた。教室の中にいても、白河さんは一人の空気がある。誰かと話しているわけじゃないのに、孤立しているわけでもない。ただ、自分の場所にいる。それが白河さんだ。


「白河さん」


 顔を上げた。こちらを見た。


「……朝比奈くん」


 少し驚いたような間があった。白河さんが教室まで来るとは思っていなかったのかもしれない。いつもは購買の列で会ったり、廊下のベンチで会ったりする。教室まで来るのは珍しい。でも表情は変わらない。ただ、いつもより少しだけ、目が大きかった気がした。一瞬だけ、目が大きかった気がした。気のせいかもしれないけれど。でも、気のせいじゃない気もした。


「これ」


 弁当箱を差し出した。


 白河さんが立ち上がって、両手で受け取った。昨日と同じ持ち方だ。両手で、丁寧に。受け取ってから、少し見た。フタの上から、中を確認しようとするみたいに。でもフタをしているから見えない。ただ、持って、見ていた。その持ち方が、大事にしてくれているように見えた。昨日も同じように両手で持ってくれていた。今日も同じだ。片手で受け取ることもできるのに、両手で受け取る。その丁寧さが、白河さんらしかった。


「……ありがとうございます」


 その声が、少し柔らかかった。気のせいかもしれないけれど、いつもの「ありがとうございます」より少し柔らかかった気がした。声のトーンが、少しだけ温かかった。弁当箱を受け取るときの「ありがとうございます」は、いつもの「ありがとうございます」と少し違う気がした。


「一緒に食べようか。いつものベンチで」


 少し間があった。白河さんが弁当箱を持ったまま、少し考えるような顔をした。何を考えているのかはわからない。でも少し考えてから、


「……はい」


 と言った。いつもより少し、早い返事だった気がした。


 ◆

 廊下の端のベンチに並んで座った。いつもの場所だ。窓から校庭が見える。十月の終わりの昼の光が、廊下に差し込んでいる。今日も晴れていて、校庭に光が落ちている。遠くで誰かが走っている声がする。昼休みの、のんびりした空気だ。この場所で白河さんと並んで座って、購買で買ったパンを食べたのが、もう少し前のことのように感じる。あのとき白河さんが「最初から、だと思います」と言った。その言葉が、まだどこかに残っている。


 あのベンチでの会話が、今日に繋がっている気がした。最初から見ていた、という白河さんが、昨日も全部見ていた。全部見ていたから、今日の弁当が特別になる可能性がある。そういうことを、ベンチに座りながらぼんやり考えていた。


 白河さんが弁当箱を開けた。


 フタを外して、膝の上に置く。中を見た。少しの間、何も言わなかった。歪んだ卵焼きと、ばらばらな唐揚げと、唐揚げの上に乗ったプチトマトが、そこにある。昨日作ったものが、そのまま入っている。時間が経っても、形は変わらない。歪んだままだ。ばらばらなままだ。昨日の夜に確認したときと同じ形が、今日の昼に白河さんの目の前にある。


 白河さんが中を見ている。その顔を、横目でこっそり確認した。表情が読めない。何を思っているのかがわからない。驚いているのか、呆れているのか、それとも何とも思っていないのか。いつもの無表情は、こういうときに一番困る。感情が読めない顔が、今日は特に困る。少しでも感情が出ていないか、必死に確認しようとした。でも、わからない。


 自分の弁当箱も開ける。同じものが入っている。昨日詰めたものが、そのまま入っている。プチトマトはまだ唐揚げの上に乗っている。フタを開けてもそのままだった。転がるかと思ったけれど、唐揚げにはまっていたのか、そのままだった。その様子が少し可笑しかったけれど、笑っている場合じゃない。


 箸を手に取って、一口食べた。


 まず卵焼きを食べた。


 甘さが足りない。砂糖の量が少なかったのだと思う。入れたつもりだったけれど、目分量で入れたから、少なすぎたのかもしれない。白河さんが作るとき、砂糖を量っていたことを思い出した。ちゃんと量って入れていた。僕は目分量で入れた。その差が、今ここに出ている。それに、形が崩れているから断面がぼそっとしている。白河さんが作る卵焼きの、あのふんわりした感じがない。白河さんの卵焼きは、口に入れた瞬間にふんわりと解けるような食感がある。でも今日のは、ただ食べているだけだ。卵の味はする。でもそれだけだ。


 甘くない卵焼きというのは、こんなに物足りないのか、と思った。卵焼きは甘くないといけない。それは知っていたけれど、こんなに違うとは思っていなかった。砂糖一つで、こんなに変わる。白河さんが量って入れていた理由がわかった。目分量では足りない。量らないと、こうなる。


 次に唐揚げを食べた。


 少し硬い。揚げ焼きの時間が長すぎたのかもしれない。外側はカリッとしているけれど、内側がパサっとしている。下味はついているから食べられる。食べられるけれど、おいしいかと聞かれると、おいしいとは言えない。おいしくないとも言えないけれど、おいしいとは言えない。その中間のあたりにある味だ。昨日の夜に食べたとき、一個だけ食べておいしかった、と思った気がした。でも今日、冷めた状態で食べると全然違う。冷めると硬さが増す。それを知らなかった。弁当は冷めた状態で食べるものなのに、冷めた状態での味を確認していなかった。揚げたての唐揚げと、冷めた唐揚げは別の食べ物だ、ということを今日初めて実感した。


 ブロッコリーを食べた。


 これは問題なかった。茹で加減は悪くない。塩味もちょうどいい。でも他のおかずが微妙だから、ブロッコリーだけよくてもあまり意味がない気がした。全体のバランスとして、おいしくない。プチトマトを食べた。プチトマトはただのプチトマトだから、おいしい。でもプチトマトがおいしいのは当たり前で、自分の手柄ではない。スーパーで買ってきただけだ。


 全体的に、おいしくなかった。


 食べられる。でも、おいしいかと聞かれると、おいしくない。それが正直な評価だった。昨日作りながら、なんとなく薄々感じていた。でも完成したときには、頑張ったからおいしいはずだと思い込もうとしていた。昨日の夜に竹串で刺して確認して、一個食べておいしかったと思った。でもそれは揚げたてだったからだ。今日、冷めた状態で食べてみると、やっぱりおいしくない。弁当は冷めるものだ。冷めた状態でおいしくないと、弁当としては失敗だ。そういうことを、食べながら改めて認識した。


 おいしくない、ということを認めながら、白河さんの方を横目で見た。


 白河さんは黙って食べている。卵焼きを食べた。どんな顔をしているのか、ちゃんと見えなかった。横目で確認しようとしたけれど、白河さんは前を向いて食べているから、表情がよく見えない。それでも、何か感情が出ていないか、確認しようとした。


 卵焼きを食べ終わった後、少し咀嚼が続いていた。長い気がした。おいしくないから咀嚼が長くなっているのか、それとも普通の速さなのかはわからない。こちらが気にしすぎているだけかもしれない。


 唐揚げを食べた。こちらも何も言わない。硬い唐揚げを、黙って食べている。硬いのはわかっているはずだ。内側がパサっとしているのも、噛めばわかる。でも何も言わない。ただ食べている。それが、おいしいから黙って食べているのか、まずいけれど黙って食べているのか、全然わからない。白河さんが黙って食べているのは、いつものことだ。でも今日は、その黙って食べている様子が、いつもより気になった。


 ブロッコリーを食べた。プチトマトを食べた。


 おいしくないと思っているのか。それとも問題ないと思っているのか。黙って食べているということは、まあ食べられるということなのか。それとも、おいしくなくても黙って食べてくれているのか。どれなのかがわからない。わからないまま、白河さんの顔色を窺い続けた。ちゃんと見ようとすると、見られていることに気づかれる気がして、横目でしか見られない。横目では表情が半分しか見えない。それでも見続けた。白河さんの表情の、ほんの少しの変化でも読み取ろうとした。でも、読み取れなかった。


 白河さんが最後のプチトマトを食べた。


 弁当箱が空になった。全部食べた。残さなかった。それは少し安心した。残されたら、さすがに傷つく。全部食べてくれた。それだけは良かった。おいしくなくても、全部食べてくれた。白河さんは昔、自分が作った失敗作も全部食べていた。きんぴらごぼうも、ひじきの煮物も、小松菜の煮びたしも、全部食べていた。白河さんは残さない人だ。だから残さなかったことに意味があるのかどうかは、わからない。でも少し安心した。全部食べてくれた、という事実は確かにある。


 少しの間があった。


 白河さんが弁当箱のフタを閉めた。その動作が丁寧だった。食べ終わって、フタをきちんと閉めて、膝の上に置いた。それから少しの間、前を向いていた。校庭の方を見ていた。何を見ているのかはわからない。でも、何かを考えているような間だった。その間が、少し長かった。いつもの白河さんの間より、少し長い。何かを考えている。何を考えているのか。


 こちらを向いた。


 目が合った。


 白河さんが口を開きかけた。何かを言おうとしている。何を言うのか。おいしかったと言うのか。問題ありませんと言うのか。それとも、感想はありません、と言うのか。様々な可能性が頭の中を通り過ぎた。どれが来ても受け止める準備をした。おいしくなかったです、が来ても受け止める。そう思った。そう思ったけれど、本当に受け止められるかどうかはわからなかった。受け止められると思っていても、いざ来たらどうなるか。


「……美味しくはありません」


 頭が、一瞬真っ白になった。


 美味しくはありません。


 白河さんが、はっきりと言った。いつもの声のトーンで、平静に、でも確かに言った。美味しくはありません。飾らない言葉だった。遠回しでもない。直接的に、美味しくはありません、と言った。白河さんらしい言い方だった。思ったことをそのまま言う。それが白河さんだ。


 わかっていた。自分でもわかっていた。卵焼きは甘さが足りなかったし、唐揚げは硬かったし、全体的においしくなかった。食べながら、おいしくない、ということを認めていた。それはわかっていた。


 でも、わかっていてもショックだった。


 頑張って作った。昨日の夜、材料を買って、悪戦苦闘して、卵を三個使って、フライパンで油を跳ねさせながら、白河さんに見てもらいながら作った。何度もやり直して、白河さんのアドバイスを聞きながら、なんとか完成させた。その全部が、美味しくはありません、という一言に集約された。わかっていたのに、ショックだった。わかっていても、ショックなのだと知った。自分でもおいしくないと思っていたのに、人に言われるとこんなにショックなのか、と思った。


 頭の中で、昨日の夜のことを思い出した。


 悪戦苦闘しながら作った。卵焼きが崩れて、また卵を割って、また崩れて、三個目の卵でようやくなんとかなった。唐揚げで油が跳ねて、手の甲に当たって痛かった。詰めるときにプチトマトが入らなくて、仕方なく唐揚げの上に乗せた。その全部が走馬灯みたいに浮かんだ。その全部が、美味しくはありません、という言葉で終わった。


 何も言えなかった。


 言葉が出てこなかった。そうだよね、とも言えなかった。ごめんと言うのも違う気がした。でも何か言わないといけない気もした。でも何も出てこなかった。ただ、黙っていた。頭の中がまだ真っ白だった。美味しくはありません、という言葉が、頭の中でぐるぐるしていた。


 白河さんが、続けた。


「……ですが、全て見ていたので」


 全て見ていた。


 その言葉が頭の中に入ってきた。昨日、ローテーブルに座って、ずっとこちらを見ていた白河さんのことを思い出した。座っていてください、と言ったら、素直に座って、ずっと見ていた。卵焼きが崩れるのも、唐揚げの大きさがばらばらなのも、フライパンから油が跳ねて手の甲に当たったのも、プチトマトが入らなくて唐揚げの上に乗ったのも、全部見ていた。見ていて、アドバイスをしてくれていた。見ていて、言いたくなりました、と言っていた。


 全て見ていた。


 その言葉が、美味しくはありません、という言葉の後に来た。美味しくはない。でも、全て見ていた。この二つの言葉が、頭の中で並んでいた。美味しくはない、という事実は変わらない。でも全て見ていた、という事実もある。この二つが並んでいる。何かがつながろうとしている。次の言葉がくれば、つながる。その次の言葉を待った。


「……特別で、美味しかったです」


 言い終わった瞬間、白河さんが微笑んだ。


 クスッ、でもなく、にこっ、でもなく。静かな、でも確かな微笑みだった。口元が少し上がって、目が少し細くなった。第4話のときに一瞬だけ漏れた微笑みとは違った。あのときは意図していない、思わず出てしまった微笑みだった。おもちゃを見て、思わず出てしまった。でも今日のは、言葉と一緒に出てきた微笑みだった。言葉の意味を伝えるための微笑みだった。少しだけ長かった。一瞬じゃなかった。確かにそこにあった。言葉が終わって、微笑みがあって、それが少しの間続いた。


 その微笑みを見た瞬間、頭の中が静かになった。


 さっきまであったショックが、どこかに行った。美味しくはありません、という言葉が刺さっていた場所が、今はなくなっていた。代わりに、全て見ていたので、特別で美味しかったです、という言葉が、その場所を埋めていた。満たしていた。言葉と微笑みが、一緒に来た。その両方が、今の頭の中にある。


 浄化された、という感じがした。


 うまく言えないけれど、そういう感じがした。汚れていたものがきれいになった、という感じでも、傷ついたものが治った、という感じでも、どちらとも少し違う。ただ、静かになった。胸の奥が、静かになった。さっきまでざわざわしていたものが、白河さんの言葉と微笑みで、静かになった。美味しくはありません、という言葉でざわざわしていたものが、特別で美味しかったです、という言葉で静かになった。


 これが、浄化、というものなのかもしれない、と思った。


 美味しくはありません、という言葉と、特別で美味しかったです、という言葉が、同じ人から来た。同じ白河さんが、両方言った。美味しくない、という事実を認めた上で、特別だった、と言った。その矛盾が矛盾じゃない。美味しさと、特別さは、違う。白河さんにとって、美味しさと特別さは別の話だ。美味しくなくても、特別になれる。それを今日初めて、言葉にしてくれた。


 白河さんはもう微笑んでいなかった。いつもの表情に戻っていた。弁当箱を鞄にしまいながら、次の授業の準備をしているような落ち着いた様子だった。さっきの微笑みが、なかったみたいに。でも、なかったわけじゃない。確かにあった。見た。白河さんが微笑んだ。言葉と一緒に、微笑んだ。それは確かだ。確かにあった。なかったことにはならない。


 白河さんの微笑みを、今日だけで何種類か見た気がした。弁当箱を受け取ったときの表情。弁当箱の中を見ていたときの表情。そして言葉と一緒に出てきた微笑み。全部が少しずつ違う。今日の白河さんは、いつもより少し表情が動いていた気がした。気のせいかもしれないけれど。


 しばらく、何も言えなかった。


 何か言わないといけない気がして、でも何を言えばいいのかわからなかった。ありがとう、と言うべきなのかもしれない。でもそれが正確な言葉じゃない気がした。おいしかったと言われた、というわけでもないし、褒められた、というわけでもない。でも何か、言葉にできない何かを受け取った。それを、ありがとう、という言葉に収めていいのかどうか、わからなかった。ありがとう、では少し違う。もっと別の言葉があるはずだけれど、出てこない。出てこないまま、少しの間黙っていた。


「……白河さん」


「なんですか」


「次は、うまく作る」


 それだけ言った。


 ありがとう、でも、嬉しかった、でもなく、次はうまく作る、と言った。なぜそれが出てきたのかは、うまく説明できない。でも、それが今言える一番正確な言葉だった気がした。浄化されたから、次に向かいたかった。白河さんの言葉を受け取ったから、次を約束したかった。受け取った分を、次の弁当で返したかった。そういう気持ちだったかもしれない。


 次はうまく作る、と言うことで、今日の弁当がおいしくなかったことを認めて、でも次があることを示す。それが今の自分に言える言葉だった。


 少し間があった。


「……楽しみにしています」


 また、その言葉だった。昨日も言っていた。今日も言った。楽しみにしています。白河さんが、楽しみにしている。次も、また楽しみにしている。


 楽しみにしています、という言葉が、今日で何回目になったのかを考えた。昨日の夜、弁当箱を渡したとき。今日の昼に、感想を言った後。そして今。三回だ。三回、楽しみにしています、と言われた。同じ言葉が三回続いている。でも毎回、少しずつ意味が違う気がした。昨日の夜の楽しみにしています、は、明日の弁当を楽しみにしている、という意味だった。今日の「特別で美味しかったです」の後の楽しみにしています、は、次の弁当を楽しみにしている、という意味だ。そして今の楽しみにしています、は、今のこの会話の続きを楽しみにしている、という感じがした。


 同じ言葉なのに、毎回少しずつ違う。それが、白河さんという人なのかもしれない。同じ言葉を使いながら、少しずつ違うことを伝えている。白河さんの言葉は短い。でも短い言葉の中に、毎回違うものが入っている。


 チャイムが鳴った。午後の授業が始まる。


 二人で立ち上がって、それぞれの教室に向かった。廊下を少し一緒に歩いて、途中で別れる。白河さんが角を曲がっていく。振り返らない。いつも通りだ。でも今日の「いつも通り」は、昨日の「いつも通り」と少し違う気がした。同じ動作なのに、今日は何かが違う。その違いが何なのかは、うまく言えない。ただ、違う気がした。


 白河さんの背中が、廊下の角に消えた。


 その背中を少し見てから、自分の教室に向かって歩き出した。廊下を歩きながら、今日のことを頭の中でなぞっていた。弁当を渡して、一緒に食べて、美味しくはありませんと言われて、特別で美味しかったですと言われて、微笑まれた。全部が、今日起きたことだ。全部が、今日だけのことだ。


 自分の教室に入って、席に座った。


 先生が入ってきて、授業が始まる。教科書を開いて、ノートを出して、先生の話を聞く。でも意識の一部が、さっきの廊下のベンチにある。白河さんが言った言葉が、まだそこにある。


 ノートを書きながら、さっきの言葉を頭の中で繰り返していた。


 美味しくはありません。


 でも、全て見ていたので。


 特別で、美味しかったです。


 その言葉と一緒に、微笑みが浮かんだ。言葉だけじゃなくて、微笑みも一緒に浮かんだ。あの微笑みは、消えない。第4話のクスッ、という微笑みとは違う。今日の微笑みは、言葉と一緒に来た。言葉の意味を伝えるための微笑みだった。だから消えない。言葉を思い出すたびに、微笑みも一緒に出てくる。言葉と微笑みがセットになっている。どちらかだけじゃなくて、両方一緒に残っている。


 先生の声が遠い。ノートにペンを走らせながら、それでも言葉と微笑みが残っていた。消えない。消えないのは、その言葉の中に何かが入っているからだ。何が入っているのかを、考えようとして、やめた。考えなくても、残っているのは確かだった。それだけでいい。今は、それだけでいい。


 次は、うまく作る。


 そう思った。絶対に、うまく作る。卵焼きをちゃんと巻けるようにする。砂糖をちゃんと量って入れる。唐揚げを硬くしないようにする。揚げ時間を調整する。プチトマトが入る場所を先に確保する。白河さんが昨日言っていた、プチトマト用のスペースを先に確保する、というアドバイスを実行する。次は改善する。全部改善する。


 でも、次に作る弁当が、今日の弁当より特別になるかどうかはわからない。


 今日、初めて作った弁当を、初めて渡した。全部見ていたから、特別だった、と白河さんは言った。次に作る弁当は、うまくできるかもしれない。でも「初めて」じゃない。初めての弁当は、今日だけだ。初めて作った。初めて渡した。白河さんが初めて受け取った。それは今日だけにしかない。


 だから今日の「特別で美味しかった」は、今日だけのものだ。


 次も特別でいてほしい。でも今日と同じ特別は、もうない。今日という日は今日だけで、今日の弁当は今日だけで、あの微笑みは今日だけで出てきたものだ。それが、なんとなく、大事だと思った。


 大事な日だった。


 美味しくはありませんでした、と言われた日が、大事な日になった。不思議なことだと思う。でも、そうなった。美味しくない弁当を、特別だと言ってもらえた日が、大事な日になった。


 授業のノートを書きながら、その大事さを、しばらく頭の中で温めていた。


 先生の声を聞きながら、ペンを動かしながら、今日という日が、少しずつ頭の中に定着していく感じがした。定着していく、という表現が正確かどうかはわからないけれど、そういう感じがした。今日のことは、忘れない。そう思った。美味しくはありませんでした、と言われた日を、忘れない。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

第10話をもって、一度更新を止めさせていただきます。

書き始めたとき、白河さんというキャラクターが頭の中にいました。理由を作り続けて、でも本当の理由には気づいていない。そういう女の子が、どうやって自分の気持ちに辿り着くのか。それを書きたくて、この話を始めました。

遥はまだ気づいていません。白河さんもまだ気づいていません。二人とも、何かが積み重なっているのを感じながら、でもそれが何なのかを言葉にできないまま、毎日を過ごしています。

続きは必ず書きます。

いつになるかは、正直わかりません。でも、白河さんが自分の気持ちに気づく日を、遥がようやく「好きだ」と言える日を、ちゃんと書くつもりでいます。

しばらくの間、お待ちいただけたら嬉しいです。

それでは、また。

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