理由
登校は、いつも通りだった。
朝七時半に部屋を出て、階段を降りて、アパートの前で少し待つ。少し待つと、白河さんが出てくる。制服姿で、鞄を肩にかけて、いつもと同じ表情で。おはようございます、と言って、二人で並んで歩き出す。その流れは、もう何日も繰り返されていて、特別なことじゃなくなっていた。
いつからこうなったのか、正確には覚えていない。気づいたら当たり前になっていた。当たり前になると、始まりが見えなくなる。最初の頃は、廊下で会うたびに少し緊張していた気がする。今は緊張しない。ただ、隣に白河さんがいる。それが朝の始まりになっている。
今日も同じだった。
「おはようございます」
「おはよう」
それだけ言って、歩き出す。
空は晴れていた。昨日の雨が嘘みたいに、雲が少ない。道路はもう乾いていて、水たまりもほとんど残っていなかった。昨日の帰り道、同じ道を傘をさして歩いたことを思い出した。折りたたみ傘に当たる雨の音と、隣にいた白河さんの距離を思い出した。傘の下で、白河さんが近かった。肩が触れそうで触れない距離だった。その距離を、体がまだ覚えている気がした。
今日は傘がない分、少し距離がある。
並んで歩いているけれど、肩が触れそうになることはない。昨日は傘の大きさに合わせて、どうしても近くなっていた。それがあの日の普通だった。でも今日は違う。いつもの距離だ。触れない距離だ。その距離が、昨日と比べると少し遠く感じた。いつもは遠いと思わない距離なのに、今日は少し遠い。それが少し不思議だった。
昨日が近すぎただけかもしれない。
そう思いながら歩く。白河さんはいつも通り前を向いている。歩くペースも同じだ。昨日と何も変わらないように見える。でも自分の中だけが、少し変わっている気がした。昨日の帰り道を、何度か思い出している。傘を傾けたこととか、良くありません、と言われたこととか、たまたまでも助かりました、と言われたこととか。どれも小さなことだけど、頭の中に残っている。消えない。消えないのは、たまたまじゃないのかもしれない、と思った。
でも理由はわからない。
理由がわからないまま、歩いている。
白河さんは何も言わない。僕も何も言わない。朝の住宅街は静かで、遠くで車の音がするくらいだ。その中で、二人分の足音だけが規則的に続いている。その音が、妙に意識された。二種類の音が交互に続いている。白河さんの足音は軽くて、僕の足音はそれより少し重い。その二種類が、同じリズムで続いている。昨日も同じリズムで歩いていた。傘の下で、雨音と混ざりながら。
学校が見えてくる。
昇降口に入って、靴を履き替えて、廊下に出る。ここで別れることが多い。でも今日は、同じ方向に少しだけ歩いた。たまたま教室の方向が重なっただけだ。それだけのことなのに、少しだけ長く一緒にいる感じがした。そういう感じが最近少し増えた気がする。一緒にいる時間を、少しだけ惜しいと思う感覚。それが増えてきている。
教室の前で止まる。
「じゃあ」
「はい」
それだけ言って、白河さんは自分の教室に入っていった。ドアが閉まる音を聞いてから、自分の教室に入る。席に座って、鞄を机の横にかける。周りでは友達同士が話している。いつもの朝の教室だ。何も変わっていない。でも、さっきまで一緒に歩いていた感覚が、まだ少し残っている気がした。
それが、なんとなく落ち着かなかった。
◆
チャイムが鳴って、一時間目が始まった。
教科書を開いて、ノートを出して、先生の話を聞く。黒板に書かれた内容を写す。いつも通りの授業だ。特に難しいわけでもなく、特に簡単なわけでもない。普通の授業だった。今日が何の授業かも、後から確認しないといけないくらい、内容が頭に入っていない。
どこか集中しきれていない感じがあった。
黒板を見ているのに、少しだけ別のことを考えている。ノートを書いているのに、昨日の帰り道を思い出している。授業の内容は頭に入っているはずなのに、意識の一部が別のところにある感じがした。授業中にこういうことが起きるのは、あまりなかった気がする。少なくとも、白河さんが来る前はなかった。
白河さんのことを、考えている。
考えようとしているわけじゃない。勝手に浮かんでくる。昨日のこととか、朝のこととか、そういう細かい場面が、断片的に頭に出てくる。傘の下の距離とか、たまたまでも助かりました、という言葉とか。それから、今朝の帰り道が少し遠く感じたこととか。全部、小さな場面だ。でも浮かんでくる。
なぜそれが頭に残っているのか、うまく説明できない。
白河さんと一緒にいる時間が増えた。部屋に来て、ご飯を作って、一緒に食べて、それを何度か繰り返している。それだけのことなのに、その「だけ」が少しずつ積み重なっている気がする。一つひとつは小さいのに、重なると重くなる。その重さが、今こうして授業中にも残っている。重い、というのも少し違うかもしれない。重い、というより、そこにある、という感じだ。確かにそこにある何かが、授業中も消えない。
黒板の文字を写しながら、そういうことをぼんやり考えていた。先生の声が少し遠い。ノートのペンが動いているのに、内容が頭に入ってこない。こういう日は、後でノートを見返してもよくわからない。それはわかっているのに、集中できない。
昼休みも、特に変わったことはなかった。
パンを買って、廊下の端のベンチに行くと、白河さんがいた。昨日と同じ場所だった。たまたまなのかもしれない。でも、昨日と同じ場所にいることに、少しだけ既視感があった。既視感というより、また来た、という感じに近い。ここが二人の場所になりつつある、という感じ。そう思うのは早いかもしれないけれど、そういう感じがした。
隣に座って、パンを食べる。特に会話はなかった。お互いに前を向いて、静かに食べるだけだった。廊下のざわめきが遠くから聞こえる。窓の外は晴れていて、校庭に光が落ちている。昨日と同じ景色なのに、今日は少し違って見えた。
違って見える理由はわからない。でも、違って見えた。
昨日ここで「最初から、だと思います」と言われた。その言葉が、まだどこかに残っている気がした。昨日と同じ場所に座って、昨日と同じように並んでいる。でも昨日と今日は違う。昨日という日があったから、今日が少し違って見える。そういうことなのかもしれない。積み重なっていく。一日ずつ、少しずつ、積み重なっていく。
パンを食べ終わって、白河さんの横顔を少し見た。白河さんは窓の外を見ている。校庭を見ているのか、別の何かを見ているのかはわからない。光が白河さんの横顔に当たっている。今日は昼の光だから、昨日の夕方の光とは違う色をしている。でも、どちらの光も白河さんの横顔に当たっていた。そういうことをなんとなく考えていた。
◆
放課後になった。
ホームルームが終わって、教室を出る。廊下を歩いて、昇降口に向かう。今日は雨は降っていない。昨日とは違う、普通の放課後だった。空が晴れていて、夕方の光が廊下の窓から差し込んでいる。オレンジに近い光が、廊下の床に伸びていた。
靴を履き替えて、外に出る。白河さんが、少し後ろにいた。どのタイミングで合流したのかはわからない。気づいたらいた。いつもそうだ。そのまま一緒に歩き出す。登校と同じ道を、今度は逆方向に歩く。夕方の光が少し傾いていて、朝とは違う色をしていた。朝の白い光と、夕方のオレンジの光。同じ道なのに、光の色で全然違って見える。
住宅街に入ったあたりで、白河さんが口を開いた。
「……今日はお邪魔しても大丈夫ですか」
少し間を置いてからの言葉だった。
いつもなら「晩ご飯を作りに行きます」とか、そういう理由がつく。でも今日はそれがなかった。ただ「お邪魔してもいいか」とだけ言った。理由がない。来ていいかどうかだけを聞いた。それがいつもと違った。白河さんが理由なしに来たいと言っている。そういうことだと思った。
一瞬、答えに迷った。
迷ったというより、いつもと違う聞かれ方に、どう返せばいいのか少し考えた。来ていいよ、と言えばいい。それだけだ。シンプルだ。でも口から出てきたのは、違う言葉だった。
「……この間の作り置き、まだあるけど」
言ってから、少しだけ後悔した。
別に断るつもりはなかった。ただ事実を言っただけだ。作り置きはまだ残っている。今日来なくても困らない。それを伝えただけのつもりだった。でも、その言葉は、来なくてもいい、と言っているようにも聞こえる気がした。言ってから気づいた。言葉というのは、意図と違う形で届くことがある。今日の言葉がそうだった。
少しの間があった。
その間が、いつもより長く感じた。二人の足音だけが続いていた。
「……そうですか」
白河さんが、小さく言った。
その声が、いつもより少しだけ低く聞こえた気がした。気のせいかもしれない。でも、さっきまでと少し違う感じがした。声のトーンが、わずかに沈んだ。何かが、わずかに変わった。
視線を向けると、白河さんは少し俯いていた。
ほんの少しだけ、いつもと違う。顔の角度が、いつもより少し下を向いている。前を向いていない。白河さんはいつも前を向いて歩く。それがほんの少しだけ、下に向いている。髪が少し顔にかかっている。その顔が、いつもより小さく見えた。
その違いに気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなった。
理由はわからない。でも痛かった。白河さんの俯いた顔を見たら、胸が痛くなった。それだけのことだ。でも、それだけのことが、このままじゃいけない、という気持ちになった。このまま歩き続けて、アパートに着いて、それぞれの部屋に入って、今日が終わる。それが嫌だった。
何か言わないといけない気がした。
でも何て言えばいいのか、うまく出てこない。来ていいよ、と言えばいいのはわかっている。でもそれだけじゃない気がした。来ていいよ、という言葉より、もう少し正確な言葉を言わないといけない気がした。正確な言葉が何なのかは、わからない。でも、探した。歩きながら、探した。
白河さんの横顔を見る。俯いている。髪が少し揺れている。夕方の光が当たっている。その横顔を見ながら、言葉を探していた。
二歩、三歩と歩いた。
「……でも」
それだけ出てきて、続きが止まった。
でも、の続きが出てこない。でも、何なのか。でも、来てほしい。でも、一緒にいたい。でも、嫌なんだ。何が正確なのかを探した。探しながら、また歩いた。
「……部屋には、来てほしいです」
小さい声だった。
自分でもちゃんと聞こえたかどうかわからないくらいの声だった。でも言った。理由はない。作り置きがあっても、来てほしい。ただそれだけだ。来てほしいから来てほしい、という、それだけの言葉だった。理由のない言葉だった。白河さんがずっと理由を作って来ていたのに、今日は僕が理由なしに言った。その言葉が、口から出た。
言ってから、前を向いたまま、返事を待った。
心臓が少し速くなっている気がした。返事がくるまでの間が、長く感じた。断られたら、何でもないふりをしようと思った。何でもないふりができるかどうかはわからないけれど、しようと思った。
少し間があった。
「……はい。わかりました」
白河さんの声が、少し明るくなった気がした。さっきまでとは少し違う、柔らかい感じの声だった。俯いていた顔が、また少し上がった気がした。確認しなかったけれど、そんな気がした。声のトーンが、さっきとは違う。沈んでいたものが、少し戻ってきた。
聞こえていたのか、聞こえていなかったのかはわからない。でも、伝わった気がした。
そのまま、二人でアパートまで歩いた。
歩きながら、今しがた自分が言った言葉を頭の中で繰り返した。部屋には、来てほしいです。理由がない言葉だった。作り置きがある、という現実に対して、それでも来てほしい、と言った。白河さんがずっと理由を作って来ていたのに、今日は僕が理由なしに言った。その逆転が、少し不思議な感じがした。でも、不思議でよかった気がした。理由がないのに言えた。それが、何かの始まりな気がした。
◆
アパートに着いて、それぞれの部屋で別れた。
「後で伺います」
「うん」
それだけ言って、ドアを開けて中に入る。
部屋に入って、靴を脱いで、制服から着替える。いつもと同じ動作だ。でも、どこか落ち着かない。着替えながら、さっきの言葉を思い出している。部屋には、来てほしいです。小さい声で言った言葉が、まだ頭の中にある。消えない。言った瞬間よりも、言ってから時間が経った今の方が、その言葉が鮮明になっている気がした。
着替えてから、ローテーブルの前に座った。
何をするわけでもなく、座っている。スマホを手に取って、特に見るものもなくて、また置いた。冷蔵庫を開けて、作り置きがあることを確認した。昨日白河さんが作ってくれた煮物が、タッパーに入っている。大根とにんじんと豚肉の煮物だ。それを見てから、冷蔵庫を閉めた。作り置きがある。でも来てほしいと言った。その矛盾が、頭の中でぐるぐるしている。矛盾しているのはわかっている。でも言った。言えた。
時計を見る。
まだ数分しか経っていない。
何を待っているのか、自分でもよくわからなかった。いや、わかっている。白河さんが来るのを待っている。それはわかっている。でも、こんなに落ち着かないのはなぜだろう、とは思った。いつもも白河さんが来るのを待っている。でも、こんなに落ち着かなかったことは、あまりなかった気がする。
ソワソワしている。
自分でそれに気づいてから、少し驚いた。ソワソワしている。白河さんが来るのを待ちながら、ソワソワしている。今までも白河さんが来るのを待っていたけれど、ソワソワしたことはなかった気がする。来るとわかっているから、待てばいいだけだった。でも今日は違う。落ち着かない。何かが、いつもと違う。
なぜだろう、と思った。
今日は何か特別なことがあるわけじゃない。白河さんが来て、作り置きを温めて、一緒に食べるだけだ。それはいつもとほとんど同じだ。でも落ち着かない。
さっき「部屋には、来てほしいです」と言ったからかもしれない。あの言葉を言ってから、何かが少し変わった気がする。白河さんが来ることが、今日だけは少し違う意味を持っている気がする。理由がないのに来てほしいと言って、来てくれる。その事実が、今日の白河さんが来ることを、いつもとは少し違うものにしている。
そのことが、落ち着かなくさせているのかもしれない。
時計をもう一度見る。また数分経っていた。
立ち上がって、部屋を少し歩く。特に目的はない。ただ歩いた。窓の外を見る。夕方の光が、まだ少し残っている。もう少しすると暗くなる。夕方から夜に変わる境目の時間だ。その時間帯の空が、少しグラデーションになっている。オレンジと青が混ざった色だ。そういう空を見ていると、今日という日がもうすぐ終わるのだとわかる。でも、まだ終わっていない。
また座る。
座って、また立って、また座る。落ち着かない。自分でもおかしいと思うけれど、落ち着かない。こんなにソワソワするのは、いつ以来だろう。思い出せないくらい、久しぶりな気がする。
少し経ってから、ノックの音がした。
コンコン、と二回。
いつもの音だ。同じ力加減の、同じ間隔の、いつもの音だ。その音を何度も聞いてきた。もう体が覚えている音だ。白河さんの音だ、と体が知っている。でも今日は、その音を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ強く鳴った気がした。ドキ、という感じの音ではなくて、もう少し静かな感じの音だったけれど、確かに鳴った。
立ち上がって、玄関に向かう。
ドアノブに手をかける。
なぜか少しだけ緊張している。理由はわからない。でも緊張している。ドアノブを握りながら、一瞬だけ止まった。深呼吸するほどじゃない。でも、一瞬だけ止まった。それを感じながら、ドアを開けた。
そこに白河さんが立っていた。
私服姿だった。白いシャツと紺のスカート。見慣れているはずの格好なのに、さっきまでとは少し違って見えた。廊下の光の加減のせいかもしれない。それとも、今日という日のせいかもしれない。さっきまで制服を着ていた白河さんが、今は私服を着ている。同じ人なのに、少し違って見える。いつもそうだ。でも今日は、その違いがいつもより少し大きく感じた。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
中に入ってきて、いつも通りに靴を揃える。丁寧に、きちんと揃える。それを見ながら、なぜか心拍数が少し上がっているのを感じた。
理由は、やっぱりよくわからなかった。
でも、何かが今日は違う。
白河さんが作り置きを温める理由もなく、掃除をする理由もなく、ただここにいる。来てほしいと言ったから来た。それだけの理由で、白河さんがここにいる。
それが、今日初めてのことだった。
来てほしいと言ったから来た。それだけの理由で、白河さんがここにいる。そのことを、もう一度頭の中で繰り返した。
それが、なんとなく、嬉しかった。




