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僕の部屋に入り浸る学園一の天使様  作者: 無課金道楽おじさん


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7/10

 その日の放課後、雨が降り始めたのは突然だった。


 ホームルームが終わって、荷物をまとめて廊下に出たとき、窓の外がいつの間にか暗くなっていた。朝は晴れていた。昼も晴れていた。昼休みに白河さんと廊下のベンチに座って、校庭を見ていたときも、光が落ちていた。校庭にいた男子たちがサッカーをしていて、その影が地面にちゃんとできていた。それなのに、いつの間に曇ったのか。気づいていなかった。授業中は外を見る余裕がなかった。いや、あったかもしれないけれど、見ていなかった。五限の数学が少し難しくて、そちらに意識が向いていた。六限の英語は教科書を追うので精一杯だった。


 天気予報を確認していなかった。するつもりもなかった。朝に白河さんと並んで歩きながら、空を見て、今日は晴れだな、と思っていた。それだけだった。白河さんのカーディガンのボタンが二つしか留まっていないのを見て、少し寒そうだと思っていた。そういうことを考えていて、天気予報のことは考えていなかった。その判断が今日の間違いだった。


 昇降口に向かうと、すでに何人かが立ち止まっていた。出口の前で、傘を持っていない人たちが雨を見ている。結構な降り方だ。強くはないけれど、止みそうにもない。しとしと、という感じの雨だ。じわじわ濡れていく感じの雨だ。傘なしで歩けないことはないけれど、歩けば確実に濡れる。アパートまで三十分以上歩くとなると、到着する頃にはかなり濡れている。そういう雨だった。


 昇降口の屋根の下に出て、雨を見る。地面が黒くなっている。乾いていた地面が、雨に濡れて色が変わっている。傘を持っていない人たちが、スマホで天気予報を確認したり、誰かに電話をかけたり、雨が弱まるのを待ったりしている。それぞれの対処法がある。


 僕は傘を持っていた。


 今朝、なんとなく鞄に入れておいたのだ。特に理由はなかった。玄関を出る前に、シューズボックスの上に置いてあった折りたたみ傘が目に入って、なんとなく鞄に入れた。それだけのことだ。天気予報を確認したわけでもないし、降りそうだと思ったわけでもない。ただ、手に取って、入れた。そういう朝だった。鞄が少し重くなったけれど、それだけだと思っていた。


 だから今日は助かった。たまたまだけど、助かった。


 折りたたみ傘を鞄から取り出しながら、昇降口を出ようとして、視界の端に白河さんを見つけた。


 出口の脇の壁に、白河さんが立っていた。


 鞄を持って、雨を見ている。傘を持っていない。その様子は明らかだった。持っていれば、もう出ている。でも出ていない。壁に沿って立って、雨を眺めている。表情は変わらない。いつもの無表情で、雨を見ている。どうするかを考えているのか、それともただ雨を見ているのか、表情からは読み取れない。でも、動いていないということは、どうするか決まっていないのだろう。


 少し迷った。


 迷う必要があるかどうかも、よくわからなかった。声をかければいい。ただそれだけのことだ。でも少し迷った。昨日の購買の場面を思い出した。最初から、だと思います、という言葉を思い出した。午後の授業中も頭に残っていたあの言葉が、今もまだ残っている。昨日から今日にかけて、白河さんのことが頭の中にある時間が増えた気がする。増えた、という自覚がある。その自覚が、白河さんに声をかけることを、いつもより少しだけ意識的にさせていた。


 でも、白河さんが雨の中を一人で帰るのを、このまま見ているわけにもいかない。


 白河さんは小柄だ。華奢だ。傘なしで雨の中を三十分以上歩かせるのは、さすがに気になる。それに、今日はこれから僕のアパートまで来るはずだ。学校から逆方向のアパートまで、雨の中を来させることになる。それが少し申し訳なかった。申し訳ないというより、心配だった。濡れてほしくなかった。


「白河さん」


 声をかけると、白河さんがこちらを見た。少しだけ目が動いた。表情は変わらないけれど、こちらを見た。


「傘、ないの?」


「……忘れました」


 忘れた。白河さんが何かを忘れた。それも少し意外だった。白河さんは完璧な人だ。何でも準備している。でも今日は傘を忘れた。昨日の購買でクリームパンを選んだのも、残っていたから、という消去法だった。白河さんにも、忘れることがある。消去法で選ぶことがある。そういう小さな発見が、最近少しずつ増えてきている。完璧に見える白河さんが、少しずつ、人間らしく見えてくる。


「一緒に入れば」


 白河さんが少し黙った。一秒か二秒か、短い間だった。でもいつもの間より、少し違う感じがした。考えているというより、何かを確かめているような間だった。視線がこちらに来て、折りたたみ傘を見て、また雨を見た。


「……一本しかないですよ」


「だから一緒に入れば、って言ってる」


 また少し間があった。白河さんが雨を見て、傘を見て、こちらを見た。その視線が一瞬だけこちらに来て、また雨の方に向いた。何かを考えているのか、それとも迷っているのか。白河さんが迷っている場面は、あまり見たことがない。でも今日は少し迷っているように見えた。


「……お願いします」


 珍しく、素直に言った。いつもなら、もっともらしい理由をつけるか、断るか、あるいは「では半分ずつ」みたいな妥協案を出すか、そのどれかだ。でも今日は素直に「お願いします」と言った。傘がないのだから、理由のつけようがなかったのかもしれない。雨は降っている。傘はない。それだけのことだ。素直にお願いします、と言える場面だった。


 折りたたみ傘を広げる。広げると、思ったより小さかった。折りたたみだから仕方がない。二人で入るには、少し小さいかもしれない。でも入らないことはない。少し窮屈になるけれど、入れる。それでいい。


 昇降口を出る。白河さんが隣に入ってきた。


 一本の傘に二人で入る、という状況が、少し新鮮だった。誰かと相合傘をするのは、いつ以来だろう。記憶がない。小学生の頃はあったかもしれないけれど、一人暮らしを始めてからは当然なかったし、中学や高校でもなかった気がする。一人で傘を持って歩くのが普通だった。一本の傘の下に二人でいる、という空間を、こんなに近い距離で経験するのは、久しぶりかもしれない。


 白河さんが近い。


 一本の傘に二人で入ると、どうしても近くなる。肩の距離が、いつもの並んで歩くときより近い。登校中も並んで歩くけれど、そのときは傘がない分、少し間がある。でも今日は傘の大きさに合わせて入っているから、自然と近くなる。白河さんは小柄だから、傘の中にちゃんと収まっている。でも、近い。肩が触れそうで触れない距離だ。その距離が少し意識された。意識しないようにしたけれど、意識してしまった。昨日の「最初から」という言葉がまだ頭にあるせいで、余計に意識してしまった気がした。


 歩き始める。雨の音がする。折りたたみ傘に当たる音は、普通の傘より少し高い音がする。軽い素材だから、音も軽い。ぱたぱた、という感じの音だ。地面に落ちる雨音が混ざって、その二つの音が歩くリズムに合っている気がした。二人分の足音も加わって、三種類の音が混ざっている。


「ありがとうございます」


 白河さんが前を向いたまま言った。歩き始めてすぐに言った。ためていた言葉を出したような、そういうタイミングだった。


「うん」


 それだけ返した。どういたしまして、と言おうとしたけれど、なんとなくその言葉が合わない気がして、うん、とだけ言った。どういたしまして、というのは少し他人行儀な気がした。うん、の方が自然だった。そういうやりとりができるようになったのは、いつ頃からだろう、と思った。最初の頃は、こういう言葉が出てこなかった気がする。


 二人で歩く。雨の中を、一本の傘で。


 白河さんは何も言わない。僕も何も言わない。雨の音だけがしている。折りたたみ傘に当たる規則正しい音が、歩くリズムと合っている。昨日の購買の場面を思い出した。購買の列でも、廊下のベンチでも、こういう沈黙があった。白河さんと一緒にいると、沈黙が自然だ。言葉がなくても、何かがある。その何かを、まだうまく言葉にできない。でも、あることはわかる。


 登校のときも、こうして並んで歩く。でも登校は朝だ。今は放課後で、雨が降っている。同じ二人で歩いているのに、空気が違う気がした。朝の空気と、放課後の雨の空気は、全然違う。その違いが、今日の白河さんをいつもとは少し違って感じさせた。気のせいかもしれないけれど。


 住宅街に入ったあたりで、傘が少し揺れた。


 風が吹いたのかもしれない。突然の突風で、傘が白河さんの方へ傾いた。そうすると、今度は自分の右肩が外に出る。雨が当たる。でも白河さんが濡れるよりいい。そのまま傘を白河さんの方に傾けておいた。右肩に雨が当たる感覚がある。冷たい。でも別に構わない。


「傘、こちらに傾けすぎています」


 白河さんが前を向いたまま言った。気づいていたのか、と思った。こちらが傘を傾けていることに、ちゃんと気づいていた。


「白河さんが濡れそうだったから」


「……朝比奈くんが濡れます」


「いいよ、これくらい」


「良くありません」


 少し強い言い方だった。良くありません、という言葉が、思ったよりはっきりしていた。断定的だった。いつもの白河さんの言い方より、少しだけ強い。それがなぜか、少し嬉しかった。良くありません、と言ってくれる。それは、僕が濡れることを気にしてくれている、ということだ。そういう意味に受け取っていいのかどうかはわからないけれど、そう受け取った。


 白河さんが言うから、傘をもう少し中央に戻した。どちらも均等に入れる角度に。そうすると、また白河さんとの距離が近くなった。傘の中に二人でいる感覚が、また戻ってきた。


「濡れていませんか」


 しばらく歩いてから、白河さんが聞いた。少し間を置いてから聞いてきた。傘を中央に戻してから、少し経ってから聞いてきた。タイミングが少し遅い気がしたけれど、遅れて聞いてきた。


「大丈夫。白河さんは?」


「……こちらも問題ありません」


 問題ありません、が今日三回目だ。昨日の購買でも二回聞いた。白河さんの「問題ありません」が、最近少し増えた気がする。それとも、僕が気にするようになっただけなのかもしれない。昨日、問題ありません=おいしい、という仮説を立てた。今日の問題ありません、は大丈夫、という意味だ。用法が違う。でも問題ない状態を、問題ありません、と言う。それが白河さんのやり方だ。問題ない。つまり、良い状態。そういうことだ。


 雨はまだ続いている。しとしとと、降り続けている。傘に当たる音が変わらない。一定のリズムで当たり続けている。その音を聞きながら、二人で歩く。


 白河さんの歩くペースが、いつもと同じだ。雨の中でも、ペースが変わらない。急ぎたいのか急ぎたくないのか、表情からは読み取れないけれど、歩くペースはいつも通りだ。僕もそのペースに合わせて歩く。傘の下で、同じペースで歩く。その感覚が、少し心地よかった。


 アパートが見えてきた。


 玄関の屋根の下に入って、傘を閉じる。雨音が、傘の布から地面の雨音だけに変わった。さっきより静かになった気がする。いや、静かになったわけじゃない。ただ、傘から聞こえていた音がなくなっただけだ。でも、静かになった気がした。


 白河さんが隣から離れた。


 さっきまで近かった距離が、元に戻る。肩が触れそうで触れない距離から、普通の距離に戻る。それが少しだけ、急な感じがした。急に離れた、という感じ。近かったから、離れたことがわかる。普通の距離に戻っただけなのに、離れた、という感覚がある。それが少し不思議だった。


「ありがとうございました」


 白河さんが、玄関に入りながら言った。少し丁寧な言い方だった。昇降口で言ったありがとうございます、とは少し違う。こちらの方が、少し重みがある気がした。


「いいよ。たまたま持ってたから」


「……たまたまでも、助かりました」


 たまたまでも、助かった。


 その言葉が、少し温かかった。たまたまでも、という言葉には、何かが入っている気がした。たまたまじゃなかったとしても、という含みがあるのか。それとも、たまたまだったけど助かった、というそのままの意味なのか。どちらかはわからないけれど、たまたまでも、という言葉の前に、何かがある気がした。その何かが何なのかは、わからなかった。でも、あった。


 白河さんが階段を上がっていく。制服が濡れていない。傘の中にちゃんと収まっていたから、服も鞄も問題なかった。その背中を少し見てから、自分の部屋に向かった。鍵を開けながら、今日の帰り道を頭の中でなぞっていた。


 ◆

 部屋に入って、傘を玄関に立てかける。濡れた先端から、水が少し垂れた。折りたたみ傘だから、広げて乾かした方がいい。でも今日はそのまま立てかけておいた。後で広げればいい、と思った。


 靴を脱いで、部屋に入る。いつもと同じ部屋だ。白河さんがいない。いつもこの時間は一人だ。白河さんが来るまでの少しの間、一人でいる。その時間が、最近少し短くなった気がする。白河さんが来るまでの時間を、意識するようになったのかもしれない。


 ローテーブルの前に座って、今日のことを頭の中でなぞる。


 昼休みの購買の列。廊下のベンチ。クリームパン。最初から、だと思います。そして放課後の雨。昇降口の壁に立っていた白河さん。傘の下の白河さん。傘を中央に戻せと言った白河さん。たまたまでも、助かりました。


 全部、今日一日のことだ。


 今日は色々あった。こんなに色々あった日は、あまりない気がする。一人暮らしを始めてから、一日にこんなに色々あることは少なかった。たいていの日は、学校に行って、帰ってきて、白河さんが来て、晩ご飯を食べて、白河さんが帰る。それが繰り返される。でも今日は、昼休みにベンチで隣に座って、「最初から」という言葉を聞いて、放課後に雨の中を一本の傘で帰ってきた。


 全部、たまたまだった。


 今朝、なんとなく傘を鞄に入れた。たまたま白河さんが傘を忘れた日だった。たまたま昇降口で白河さんを見つけた。たまたま声をかけた。全部、たまたまだった。でも、たまたまが重なった結果、一本の傘に二人で入って帰ってきた。


 たまたまでも、あったことはある。


 白河さんは「たまたまでも、助かりました」と言った。たまたまでも、助かった。たまたまでも、意味があった。そういうことなのかもしれない。意図していなくても、結果として誰かの役に立てた。それが、たまたまでも、という言葉の意味なのかもしれない。たまたまでも、という言葉は、たまたまだったことを認めながら、でもそれで良かった、ということを言っている。そういう言葉だと思う。


 雨の音を聞きながら、そういうことを考えていた。


 窓の外を見ると、雨は続いていた。空が暗い。夕方のような暗さだ。まだ夕方にはなっていないはずだけど、曇っているせいで暗い。雨の日の放課後は、いつもより少し早く夜が来る気がする。その暗さの中で、雨が降り続けている。


 しばらくして、いつものノックの音がした。


 コンコン、という、二回の音。同じ力加減の、同じ間隔の、いつもの音だ。


「どうぞ」


 ドアが開いて、白河さんが入ってきた。着替えてきたらしく、私服になっている。白いシャツと、紺色のスカート。昨日と同じ組み合わせに見えるけれど、よく見ると少し違うかもしれない。シャツの襟の形が少し違う。でも似ている。雨で濡れた制服から着替えてきた。そのために一度自分の部屋に戻ったのだろう。それが当たり前のようにできている。隣に住んでいるから、当たり前にできる。隣に住んでいることが、こういうときに便利だと改めて思った。


 白河さんが台所に向かいながら、一度こちらを向いた。


「今日の晩ご飯、何にしますか」


「なんでもいい」


「なんでもは困ります」


 いつも通りのやりとりだ。


 雨の中を一緒に帰ったことなんて、なかったみたいに。昼休みに「最初から」と言っていたことなんて、なかったみたいに。白河さんはいつも通りだ。何もなかったみたいに、台所に向かう。冷蔵庫を開けて、中を確認して、今日何を作るかを決める。その動作がいつも通りだ。


 でも、なかったわけじゃない。


 今日は色々あった。購買の列でのやりとりも、廊下のベンチも、雨の中の傘も。全部あった。白河さんが「なかったみたいに」振る舞うのが白河さんのやり方なのかもしれない。でも、あったことは、あった。あったことは、消えない。


 台所からエプロンをつける音がする。冷蔵庫を開ける音がする。包丁がまな板に当たる音がする。白河さんが何かを作り始めている。今日も何かが作られる。何が作られるかはわからないけれど、おいしいものが作られる。それはわかっている。いつもそうだから。


 窓の外では、まだ雨が降っている。


 玄関に立てかけた傘が見える。その傘が今日、白河さんの代わりに雨を受けた。たまたま持ってきていた傘が。何の意図もなく鞄に入れていた傘が、今日の役に立った。


 たまたまでも、助かりました。


 その言葉が、まだ頭の中に残っていた。雨の音を聞きながら、台所の音を聞きながら、その言葉がまだそこにあった。消えない。消えないのは、その言葉の中に、何かが入っているからかもしれない。何が入っているのかは、わからない。でも、何かが入っている気がした。


 台所から、いい匂いがしてきた。何を作っているのかはわからないけれど、いい匂いだった。今日も、白河さんが作っている。雨の日も、いつもと同じように来て、いつもと同じように作っている。


 それが、なんとなく、嬉しかった。

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