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僕の部屋に入り浸る学園一の天使様  作者: 無課金道楽おじさん


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6/10

見直し

 翌日の昼休み、購買に向かった。


 今日の昼食はパンにしようと思っていた。特に理由はない。朝、コンビニに寄る時間がなかっただけだ。七時半に部屋を出て、白河さんと並んで学校まで歩いて、そのまま授業が始まった。コンビニに寄る余裕がなかった。だから購買に行くことにした。それだけのことだ。


 購買は学校の一階にある。正確には、昇降口を入ってすぐ右のあたりだ。教室からは少し遠い。昼休みになると混む。特に昼休みが始まって少し経った頃が一番混む。早めに行けばいいのだけど、なんとなくすぐに動けなくて、気づいたらそういう時間になっている。それも毎回のことだ。今日も、ホームルームが終わってから、なんとなくぼんやりしていたら、混んでいる時間帯になっていた。


 一人暮らしを始めてから、自分の動けなさに気づくことが増えた気がする。誰かに急かされないから、自分で動くしかない。でも動けない。アラームが鳴っても起きられない。購買が混む前に行けばいいとわかっていても行けない。そういうことの積み重ねが、今の僕の日常を作っている。改善しようと思うけれど、改善しない。たぶん来週も同じことをしている。


 購買の前に着くと、すでに列ができていた。十人くらいが並んでいる。最後尾に並んで、前の人の背中を眺めながら待つ。前の人はクラスが違う。名前も知らない。黒いカバンを背負っていて、髪が少し跳ねている。今日の昼休みに何をしていたのか、これから何を食べるのか、全部わからない。ただ、背中を眺めている。特に急いでいるわけじゃない。昼休みはまだ長い。ゆっくり待てばいい。


 列はゆっくり進む。一人が購買でパンを受け取って、次の人が選んでいる。そのサイクルが繰り返される。一人が終わるたびに、列が一つ分前に進む。それだけのことが続く。手持ち無沙汰で、スマホを触ろうかと思ったけれど、列の中でそれもなんとなく気が引けて、ただ立っていた。廊下を行き来する人を眺める。昼休みの廊下は、授業中と全然違う空気がある。みんな少しだけ緩んでいる。歩き方が、授業中の移動のときより、少しゆっくりだ。その空気の中で、購買の列だけが少しだけ目的を持っている。目的があるから、列になっている。それだけのことだけど、そういうことを考えていた。


 しばらくして、列の後ろに気配がした。


 誰かが最後尾に並んだ、という感じがした。気配がする、というのは少し大げさかもしれないけれど、ざわざわした廊下の中で、自分の後ろに誰かが来た、ということは何となくわかる。空気が少し変わった、という感じがする。それが気配というものなのかもしれない。人が来ると、空気が動く。その動きが、後ろに誰かが来た、という感覚につながる。そういうものだと思う。


 振り返ると、白河さんだった。


 制服姿で、鞄を肩にかけて、まっすぐ前を向いている。こちらに気づいているのか、気づいていないのか、表情からはわからない。いつもの無表情だ。整った顔立ちで、凛としていて、隙がない。学校での白河さんだ。部屋での白河さんとは、少し違う。同じ人なのに、学校にいると少し遠く感じる。ただ、列に並んだ、という感じだった。僕の後ろに、自然に。


 学校での白河さんと、部屋での白河さんが、同じ空間にいる。


 それ自体は、登校のときに毎朝起きていることだ。でも登校は二人でアパートから学校まで歩くだけで、外の話だ。学校の中で一緒にいる、ということは今まであまりなかった。廊下で目が合って一秒で終わる、というのはあった。でも、こうして同じ列に並ぶのは、初めてかもしれない。学校の中の白河さんと、こんなに近い距離にいるのは、初めてかもしれない。


 学校での白河さんは、完璧だ。誰に対しても等しく丁寧で、笑顔も完璧で、近づきがたい。その白河さんが、今、僕の後ろに立っている。部屋に来る白河さんと同じ人なのに、学校にいると少し遠く感じる。その距離感の違いを、毎回意識する。今日も意識した。でも、後ろに立っている白河さんは、昨日と同じ人だ。昨日、きんぴらごぼうを全部調べた人だ。


「白河さんも購買?」


「はい」


 それだけだった。それ以上でも以下でもない。ただ、購買に来た。それだけのことだ。白河さんも昼食を買いに来た。当たり前のことだ。昼休みに購買に来るのは、昼食を買うためだ。それだけのことなのに、少し緊張した気がした。学校での白河さんと話す、ということが、まだ少し慣れていない。部屋では自然に話せる。でも学校では、なんとなくまだ距離がある。その距離を縮めようとするのが正しいのか、それとも学校ではそういうものだと受け入れるのが正しいのか、よくわからないままでいる。


 二人で並んで待つ。


 周囲はざわざわしている。昼休みの廊下は人が多い。友達と話している声、笑い声、誰かが誰かを呼ぶ声、色々な音が混ざっている。その音が、廊下全体を満たしている。でも不思議と、白河さんと並んでいる場所だけ、少し静かな気がした。周囲の音が遠い。白河さんの静けさが、こちらにも伝わってくるのかもしれない。あるいは、白河さんがいると、こちらがその静けさに引っ張られるのかもしれない。白河さんと一緒にいると、不思議とそういうことが起きる。部屋でも、登校中でも、今日の購買の列でも。気のせいかもしれないけれど、気のせいじゃない気がする。


 列が少しずつ進む。前の人が購買のガラスケースを覗いて、何を買うか考えている。その間、することがない。前を向いていても後ろを向いていても、どちらも白河さんのことが少し気になる。昨日の料理のことを思い出した。きんぴらごぼうと、ひじきの煮物と、小松菜の煮びたし。全部おいしかった。白河さんは失敗だと言っていたけれど、全部食べていた。空になった三つの小鉢が、ローテーブルの上に並んでいた。その光景が頭に浮かんだ。白河さんは「また挑戦します」と言って帰っていった。その言葉も頭に残っている。


 なんとなく前を向いたまま、口を開いた。


「昨日の料理、全部おいしかったよ」


 言ってから、また言った、と思った。昨日も言った。今日も言っている。同じことを二回言っている。でも本当のことだから、仕方がない。白河さんは失敗だと言っていたけれど、おいしかったのは事実だ。その事実を伝えたかった。一度言っただけじゃ、白河さんには届いていない気がして、また言いたくなった。届いているかどうかは、わからないけれど。


 後ろから、少し間があった。


 その間が、白河さんらしかった。すぐに返ってこない。考えている。あるいは、何かを決めている。白河さんの間は、いつもそういう感じがする。言葉を選んでいる間なのか、言うかどうかを決めている間なのか、どちらなのかはわからないけれど、いつも少し間がある。


「……きんぴらごぼう、調べました」


 白河さんが前を向いたまま言った。声のトーンはいつも通りだ。学校の廊下でも、部屋でも、白河さんの声のトーンは変わらない。平静で、揺れがない。でも、学校の廊下で聞くと、少し新鮮な気がした。部屋で聞く白河さんの声と、学校で聞く白河さんの声が、同じはずなのに少し違って聞こえる。場所が変わると、声まで変わって聞こえる気がした。同じ声なのに、受け取り方が変わる。不思議だと思った。


「え、まだ気にしてたの」


「失敗だったので」


「おいしかったって言ったじゃん」


「……基準が甘いと思います」


 また言われた。基準が甘い。昨日も言われた。昨日の夕飯のとき、食べ終わった後にも言われた。今日また言われた。三回目だ。でも、おいしかったのは本当のことだから、基準が甘いと言われても困る。白河さんの基準と、僕の基準が違うのは事実で、どちらが正しいということでもない気がするけれど、白河さんは基準が甘いと言い続ける。それが白河さんという人だ。言い続けることで、伝えようとしている何かがある気がする。


「何を調べたの」


「アク抜きの正確な時間と、火加減の目安と、ごぼうの切り方の種類です。斜め切りより笹がきの方が火の通りが均一になるそうで、次は笹がきにしようと思っています。それから、ひじきの戻し時間と、適切な煮詰め具合も調べました。小松菜の煮びたしは出汁の濃さが問題だったので、出汁の取り方から見直す予定です」


「……全部調べたの」


 三品全部の問題点を洗い出して、それぞれの解決策を調べた。昨日の今日で。しかも具体的だ。笹がきにする、出汁の取り方から見直す。抽象的な反省じゃなくて、具体的な改善策になっている。


「当然です」


 当然です、と言い切った。迷いなく。当然のことをしただけ、という言い方だった。でも昨日の今日で、三品全部の問題点を洗い出して、それぞれの解決策を調べた。それを「当然」と言える人が、どれだけいるのだろう、と思った。僕なら、失敗したという事実は覚えていても、次のために調べるところまではやらない気がする。


「次は失敗しないと言いました」


 きっぱりと言った。昨日と同じトーンだ。次は失敗しません、と言っていた。それを実行するために、調べた。白河さんは言ったことを守る。それは最初からわかっていたことだけど、改めて確認した気がした。言ったことを守る、という当たり前のことが、こんなに徹底されている人を、あまり見たことがない。言葉と行動が、ちゃんとつながっている人だ。


「ひじきとか、小松菜も全部?」


「全部です。次に作るときに同じ失敗をするのは、失敗ではなく怠慢です」


 怠慢。少し強い言葉だと思った。でも白河さんらしい言葉でもある。同じ失敗を繰り返すのは怠慢だ、という考え方が、白河さんの根底にある気がした。失敗することは仕方がない。でも同じ失敗を繰り返すことは、努力が足りないということだ。そういう考え方をする人なのだと思う。そしてその考え方で、実際に動いている。考えるだけじゃなくて、調べて、次に活かす。言葉と行動が一致している。それが白河さんという人だ。


「……白河さんって、すごいね」


 思わず口に出た。


 言ってから、少し恥ずかしくなった。すごいね、という言葉が、少し単純すぎる気がした。でも他に言葉が出てこなかった。すごい、としか言いようがない。失敗した料理を全部調べて、次は笹がきにしようとまで決めている。それをごく当然のことのようにやっている。すごい、という言葉しか出てこないのは、語彙が足りないのかもしれないし、白河さんという人がそれだけ言葉にしにくいのかもしれない。どちらにしろ、すごい、以外の言葉が出てこなかった。


 後ろから、少しの間があった。いつもより少し長い間だった。白河さんが何かを考えているのが、間の長さからわかった。何を考えているのかはわからないけれど、すぐには返ってこない何かを考えている。


「……何がですか」


「全部に対して、そんなにちゃんとしてる。料理のことも、昨日失敗したからって、今日もう全部調べてる。そういうのって、普通そこまでやらないと思う。失敗したら、次は気をつけようって思うくらいで、そこまで具体的に調べる人はあまりいないと思う」


 言いながら、少し言い過ぎたかもしれないと思った。でも嘘はついていない。本当にそう思っているから言った。白河さんのことを、すごいと思っている。それを伝えたかった。


 また間があった。今度は少し長い間だった。列が一人分進む。前の人が購買でパンを受け取っている。その間も、後ろでは白河さんが何かを考えている。


「……そういうわけではありません」


 白河さんが、少し低い声で言った。いつもより少しだけ低い。何かを否定するときの声、という感じがした。でも、どこが違うのかを言わない。そういうわけではない、と言うだけで、じゃあどういうわけなのかは言わない。その続きを待っていたけれど、続きは来なかった。


「でも——」


 続きを言おうとして、


「次、朝比奈くんの番です」


 振り返ると、白河さんが前を向いたまま言っていた。購買の窓口が空いている。気づかなかった。話に集中していた。慌てて前を向いて、ガラスケースを覗いて、何があるか確認する。コッペパンが残っていた。ツナマヨのやつだ。他にも何種類かあったけれど、考える時間がなかったのでそれを指差して、お金を払った。財布から小銭を出しながら、そういうわけではない、の続きが気になっていた。


 白河さんも購買でパンを買った。何を買ったかまでは見ていなかった。受け取る動作だけが視界の端に入った。


 そういうわけではありません、の続きを、白河さんは言わなかった。購買の番が来たから、話が途切れた。意図してタイミングを作ったのか、それとも本当にたまたまなのか、わからなかった。でも、続きは来なかった。続きを聞こうとも思ったけれど、タイミングを失ったまま、廊下を歩き始めた。


 ◆

 購買から離れて、廊下を歩いていると、白河さんがまだ隣にいた。


 てっきり教室に戻るのかと思っていた。白河さんの教室は別の場所にある。購買を出たら、そちらに向かうものだと思っていた。でも、同じ方向に歩いている。離れない。隣にいる。廊下を歩く人の流れに混ざりながら、それでも隣にいる。


「教室、こっちじゃないよね」


「……窓側の方が空気がいいので、あちらで食べようと思っていました」


「あ、そう」


 廊下の突き当たりの窓側に、空いているベンチがある。長い廊下の端にあって、そこまで来る人が少ないから、静かだ。窓から外が見えて、光が入る。昼の時間帯は特に明るい。教室から少し離れているから、昼休みのざわめきが届きにくい。僕もたまにそこで食べることがある。教室の中が騒がしく感じるときに、一人で来る場所だ。誰かに話しかけられることもない。ただ座って、食べて、外を見る。そういう場所だ。


 白河さんもそこで食べようとしていた。一人で来るつもりだったのだろう。それが今日は、僕も同じ方向に歩いている。だから一緒になった。それだけのことだ。意図したわけじゃない。たまたまだ。でも、たまたまが続いている気がする。最近、白河さんとのことには、たまたまが多い。たまたまが多すぎると、たまたまじゃない気がしてくる。でも、たまたまなのかもしれない。


 二人でベンチに座った。


 窓の外から光が入ってくる。十月の昼の光だ。強いけれど温かくない。でも明るい。廊下のこの端は、人が少なくて静かだ。遠くから昼休みのざわめきが聞こえるけれど、ここまでは届かない。ここだけ少し切り取られたみたいな静けさがある。授業中の静けさとも違う。昼休みの中に、切り取られた静けさがある。そういう場所だ。


 白河さんが買ったのは、クリームパンだった。


 鞄からパンを取り出す。袋を確認してから、丁寧に開ける。白河さんは袋の開け方まで丁寧だ。袋を引き裂くんじゃなくて、切り口からきれいに開ける。その動作を、なんとなく見てしまった。袋を開けると、甘い匂いがした。クリームパンの匂いだ。バニラに似た匂いと、パンの匂いが混ざっている。その匂いが、静かな廊下の端に漂った。


 それを見て、少し意外に思った。白河さんがクリームパンを食べるのか、と。もっと地味なパンを選びそうだと思っていた。塩パンとか、食パンとか、そういう質素なものを選びそうな気がしていた。でも、クリームパンだった。甘いものが好きなのか、それとも別の理由があるのか。白河さんについてわからないことは、まだたくさんある。


「クリームパンが好きなの?」


「……好き嫌いで選んだわけではありません」


「じゃあ何で選んだの」


「……残っていたので」


 消去法だ。残っていたから選んだ。それが白河さんの答えだった。好きだから選んだのではなく、残っていたから選んだ。そういう答え方をする。感情で選んだ、という言い方をしない。残っていた、という事実で選んだ。でもクリームパンを手に取って、袋を開けて、それを食べている。消去法で選んだとしても、食べているのは事実だ。おいしそうに食べているかどうかは、表情からはわからないけれど、少なくとも食べている。淡々と、でも確実に、食べている。残っていたから選んだ、と言いながら、ちゃんと食べている。それが白河さんらしい気がした。


「おいしい?」


 少し間があった。クリームパンを一口食べてから、白河さんが答えた。


「……問題ありません」


 問題ありません、が白河さんの「おいしい」に相当するのかもしれない、と最近思うようになってきた。大丈夫、でも、おいしい、でも、良い、でもなく、問題ありません。それが白河さんの肯定の言葉なのかもしれない。問題ない、つまりおいしい。問題がある、つまりおいしくない、あるいは失敗。そういう評価の仕方をする人なのかもしれない。問題ないことが、白河さんにとっての良い状態なのかもしれない。


 自分のパンを食べながら、その仮説を頭の中で転がした。問題ありません=おいしい。これが正しければ、白河さんは毎日の晩ご飯を「問題ありません」と思いながら食べているのかもしれない。でも毎回全部食べている。問題なくおいしく食べている。それでいい気がした。白河さんが問題ない、と思えるなら、それで十分だ。問題ありません、と聞くたびに、少し嬉しくなるのはなぜだろう、と思った。


 廊下の窓から、校庭が見える。十月の昼間は明るくて、校庭に光が落ちている。光が地面に反射して、少しまぶしい。遠くでサッカーをしている男子たちの声が聞こえる。誰かがシュートを打って、誰かが叫んで、また笑い声がした。昼休みの、のんびりした空気だ。授業中とは全然違う空気が、廊下まで漂ってきている。あの男子たちは、昼休みの間、ずっとサッカーをしているのだろうか。毎日走っているのだろうか。それはそれで大変そうだと思った。でも楽しそうでもある。


 白河さんがクリームパンを食べながら、窓の外を見ていた。


 何を見ているのか、よくわからない。校庭を見ているのか、それとも別の何かを見ているのか。白河さんが何かを見るとき、その視線の先が何なのか、たいていわからない。じっと見ているのに、何を見ているのかが読み取れない。視線の先に何があるのかじゃなくて、白河さんの頭の中に何があるのかが、わからない。きんぴらごぼうのことを考えているのか、笹がきとはどんな切り方だったかを復習しているのか、それとも全然別のことを考えているのか。


 こうして白河さんの横顔を見ることができるのも、学校の中ではなかなかない。教室では、白河さんは前を向いている。廊下では、並んで歩いているから横顔を見る角度にならない。でも今日は、ベンチに並んで座っているから、少し角度があって、横顔が見える。暗記している顔とは違って、今日の横顔は、光の加減でまた少し違って見えた。窓から入る光が、白河さんの横顔の右側に当たっている。その光が、白河さんの顔を少し違って見せている。


 白河さんの横顔を見ながら、何を考えているのだろうと思った。クリームパンを食べながら、窓の外を見ながら、何を考えているのか。昨日のきんぴらごぼうのことかもしれないし、全然関係ないことかもしれない。あるいは何も考えていないのかもしれない。ただ窓の外を見ているだけかもしれない。どちらにしろ、わからない。白河さんの考えていることは、たいていわからない。わからないのに、気になる。それが最近の僕の状態だ。


 ふと、白河さんがこちらを向いた。


 目が合った。


 一秒。二秒。


 白河さんが、少し目を細めた。何かを見ているような目だった。こちらを見ているのに、こちらだけを見ているわけじゃないような、そういう目だ。何かを確かめているような。観察しているような。透かして見ているような。そういう目だった。


 その視線が、少し居心地悪かった。悪い意味じゃない。ただ、真剣に見られている、という感覚があって、それが少しむずがゆかった。白河さんにそういう目で見られたことが、今まであっただろうか。あったとしても、気づかなかったかもしれない。今日は気づいた。気づいたから、居心地が悪かった。悪い意味じゃなくて、なんというか、むずがゆい感じだ。


「……朝比奈くん」


「うん」


「目、そういう目をするんですね」


「……え」


 意味がわからなかった。目、そういう目、というのが何を指しているのかわからなかった。自分の目がどういう目なのか、言われるまで考えたことがなかった。そもそも自分の目を自分で評価したことがない。目は見るためのものであって、見られるためのものじゃない、という感覚があった。でも白河さんは、僕の目を見て、そういう目をする、と言った。


「何かを見るとき、一点を見つめる目をします」


 白河さんがそう言って、また窓の外に視線を戻した。それだけだった。説明も、補足も、続きもない。ただそれだけ言って、クリームパンの続きを食べ始めた。何事もなかったみたいに、淡々と。まるで天気のことを言うみたいな、そういう言い方だった。


 一点を見つめる目。


 自分ではわからない。鏡で自分の目を見ることはあるけれど、何かを見ているときの自分の目がどうなっているかは、見たことがない。当たり前だ。何かを見ているとき、同時に自分の目は見られない。鏡で自分の目を見るとき、僕は鏡を見ている。だから鏡を見ているときの目になってしまう。何かに集中しているときの目は、鏡では確認できない。自分の目なのに、自分では見えない。


 一点を見つめる目。


 それがどういう目なのか、想像してみようとしたけれど、うまくできなかった。自分の目が一点を見つめているとき、どんな目をしているのか。鋭い目なのか、穏やかな目なのか、真剣な目なのか。白河さんから見るとどう見えるのか。それを想像しようとして、できなかった。自分の目なのに、自分のものじゃない気がした。白河さんが見た僕の目と、僕が知っている自分の目が、同じものとは思えなかった。


 でも白河さんは、見ていた。僕の目を。


 今日ここで初めて気づいた、ということじゃないと思った。学校での白河さんは、こちらをほとんど見ない。でも見ていた。見ていたから言えるのだろう。そういう目をする、と。見ていなければ、言えない。言えるということは、見ていた。それは確かだ。


「……いつから気づいてたの」


 少し考えてから、聞いた。聞いていいかどうか少し迷ったけれど、聞かずにいられなかった。聞かないと、この話がここで終わってしまう気がした。白河さんはもう窓の外を見ている。話を続けるつもりがないのかもしれない。でも聞いた。聞かないと、後でずっと気になる気がした。


 少し間を置いてから、白河さんが答えた。


 クリームパンを持ったまま、少し考えているような間があった。その間も、窓の外を見ていた。考えながら、外を見ていた。


「……最初から、だと思います」


 最初から。


 その言葉を、頭の中でゆっくり繰り返した。最初から。最初から気づいていた。最初とはどこからのことなのか。学校で初めて会ったときか。プリントを届けに来た日か。それより前からか。同じクラスになった最初の日か。廊下ですれ違ったことがあったとすれば、そのときからか。


 最初から、という言葉の範囲が広すぎて、どこからなのかがわからない。でも白河さんは「最初から」と言った。ということは、かなり早い段階から、僕の目を見ていた、ということになる。学校での白河さんは、こちらをほとんど見ない。でも見ていた。最初から見ていた。その事実が、少し頭の中で整理しきれなかった。


 どこからが「最初」なのかを聞こうとして、やめた。


 聞かなくていい気がした。最初から、という答えだけで、十分な気がした。それ以上聞いてしまうと、何かが変わる気がした。変わってほしくない、という気持ちがあったのか、それとも変わることが怖かったのか、うまく言えないけれど、聞かなかった。聞かないことで、今のこの感じが続く気がした。続けたかった。なぜかはわからないけれど、今のこの感じが、続いてほしかった。


 白河さんはもうこちらを見ていない。クリームパンを食べながら、窓の外を見ている。さっきと同じ景色だ。校庭に光が落ちていて、男子たちがサッカーをしている。でも何かが、さっきと少し違う気がした。景色は同じなのに、その景色を見ている感じが、少し違う。さっきより少し、静かだ。静かというより、重い。空気が少し重くなった気がする。重い、というのも少し違うか。満ちている、という感じかもしれない。何かが、さっきより少し満ちている。何が満ちているのかは、わからないけれど。


 自分のパンを食べながら、さっきの言葉を頭の中で転がしていた。


 一点を見つめる目をします。


 最初から、だと思います。


 白河さんは、最初から、僕の目を見ていた。


 それが何を意味するのかはわからない。でも、意味があることだとは思った。白河さんが誰かの目を見る、ということが、どういうことなのかはわからない。でも、最初から見ていた、という事実だけがある。その事実を、どう受け取ればいいのかも、うまくわからなかった。ただ、その事実が頭の中にある。消えない。さっきから消えない。


 チャイムが鳴った。昼休みが終わる。


「行きましょう」


 白河さんが立ち上がって、クリームパンの袋を丁寧に畳んで、鞄にしまった。袋を畳む動作まで丁寧だ。白河さんのすることは、いつも丁寧だ。そういう人だ。それから教室の方向へ歩き始めた。いつも通りの動作だ。さっきのことが、なかったみたいに。でも、なかったわけじゃない。あったことは、あった。


 僕も立ち上がって、後を追った。


 白河さんと僕の教室は違う方向だから、廊下の途中で分かれる。白河さんが角を曲がっていく。振り返らない。いつも通りだ。その背中を少し見てから、自分の教室の方向へ歩き始めた。


 廊下を歩きながら、さっきの言葉を頭の中で繰り返していた。


 一点を見つめる目をします。


 最初から、だと思います。


 白河さんは、最初から、僕の目を見ていた。


 そのことが、なぜかずっと頭の中に残った。午後の授業が始まっても、残っていた。先生の声を聞きながら、ノートにペンを走らせながら、それでも残っていた。


 一点を見つめる目。


 白河さんから見た僕の目が、どんな目なのかは、今もわからない。


 でも、見られていた。最初から。

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