第35話 シアン・サルビア誘拐事件
光を拒んで目を閉じた頬に、ぽたり、またぽたりと雫が落ちる。しゃくり上げて喉が引き攣る声にも応えることができず、その景色がこの眼に映ることは二度とない。
「……賢者様……私は、最後まで……っ恩返しを、できなかっ、た……」
そんなに泣くことはないのに。悲しいことなどひとつもない。ただ、そうなる運命だったというだけのこと。
「あんなにっ……教えてもら、ったのに……なんの、役にも……立てなかった……! ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝ることなど何もない。そう伝えたくとも、この声が二度と日の目を見ることはない。この喉が動く日は二度と来ない。
「あなたに、もらったものはっ……ひとつも忘れません……。死んでも、忘れません……。絶対に……!」
そんな約束は忘れてしまうといい。もう二度と出会うことはないのだから。もう二度と、言葉を交わすことはないのだから。この手はもう、届かないのだから。
* * *
瞼の裏が白むので目を開くと、カーテンに隙間が空いていた。ほんの少しだけ切り傷があり、ウィローが悪戯で爪を引っ掛けたようだ。おかげで清々しい目覚めだ。
起き上がったシアンに気が付いて、ウィローがじたばたしながらベッドに登って来る。いつもは椅子を使って登って来るのだが、いま椅子は別のところに置いてある。シアンが動かしてしまったのだ。ウィローが登りきるよりシアンがベッドから降りたほうが早い。シアンに抱き上げられたウィローはご満悦だ。
(そういえば……あの子の名前はなんじゃったかのう……)
自分が一番弟子だと主張していた、伝説の騎士を目指していたあの子。師事していた頃は名前で呼んでいたはずだが、すっかり忘れてしまった。実に薄情である。
そのとき、ウィローが突如として鋭い声を上げた。シアンの腕の中から飛び出し、床であっちに行ったりこっちに来たりと落ち着きなく歩き回っている。
「ウィロー、どうしたの?」
シアンが頭を撫でると、ウィローはどこか不安そうに喉を鳴らした。何かを訴えかけるような表情をしている。
「具合が悪いの?」
ウィローはシアンに頭を擦り寄せる。頭が痛いのかと撫でてやると、また落ち着きなくうろうろし始めた。
静かなノックが聞こえ、どうぞ、とシアンは応える。マゼンタが朗らかに入って来た。
「おはようございます、シアン様。……どうかなさいましたか?」
不安げなウィローを宥めようとするシアンに、マゼンタは心配そうな表情になって問いかける。
「ウィローの体調が悪いみたい」
「あら……。おいで、ウィロー。お医者様に診てもらいましょう」
マゼンタが抱き上げようとすると、その途端、ウィローは抵抗するように暴れ出した。マゼンタの手から離れシアンの足に鼻を擦り寄せる。ウィローと言葉が交わせたらよかったのだが、ウィローはか細い鳴き声を上げるばかりだ。
「ウィロー、お医者様に診てもらおう」
シアンが抱き上げようとしてもウィローは逃げる。落ち着かない様子で、地団駄を踏むように跳ねた。
「街の獣医を呼んで参ります」マゼンタが言う。「シアン様のお食事も運んで来ます」
「わかった」
マゼンタを見送ると、シアンはソファに腰を下ろした。そうすればウィローが膝に登って来ると思ったのだが、ウィローはうろうろするだけで寄って来ない。
「ウィロー、おいで」
シアンが呼んでもウィローは不安げな声で鳴いている。残念ながら、賢者でも魔獣の心を読み取ることはできない。
膝に抱えてやろうとシアンが立ち上がったとき、ウィローがまた鋭く鳴いた。窓のほうに向け、威嚇するように吠えている。
「ウィロー、どうし……っ!」
突如として言葉が喉の奥に詰まった。
(口封じ……!)
咄嗟にその魔法を解こうとした瞬間、身体の中で魔力の流れが止まる。魔法を封じられてしまったようだ。
瞬時にチェストに手を伸ばす。もしものときのための魔除けを置いているのだが、その手が届く前に窓が荒々しく開け放たれた。黒いローブの人影を視認するのと同時に、無骨な手に体を掴まれ、肩に担ぎ上げられる。ウィローが激しく威嚇して体当たりをするが、ローブの人影は揺るがない。
「シアン様!」
飛び込んで来たマゼンタが手を伸ばすが、その指先に触れることなく、シアンは一瞬にして闇へと引き摺り込まれていた。
* * *
地面に降ろされる感覚で目を開くと、どこかの室内のようだった。朝だと言うのに、厚いカーテンが下ろされているようで薄っすらとしか辺りが見えない。それでも、五人の子どもがシアンを待ち受けていることがはっきりとわかった。
「待ってたよ、シアン・サルビア」
その声に、肌がピリと痺れる。シアンが忘れるはずもない。
チリアン・オーキッドと、おそらく魔法学校の同級生の四人だ。顔がよく見えないため、誰であるのか判別することはできない。そもそも覚えていないかもしれない。
(警戒の薄くなりがちな朝を狙った不意打ち……。綿密な計画を立てておるようじゃの)
声を封じられて応えることのできないシアンに、五人はおかしそうにくつくつと喉の奥で笑っている。その光景に、シアンの心が怯えを見せた。それでも、賢者に恐れるものは何もない。
「きみのおかげで、僕はオーキッド家から見限られそうになっているんだ。だからお礼をしようかと思ったんだ」
(見事な逆恨みじゃのう……)
父がシアンの件をオーキッド家にどう突きつけたかは知らないが、サルビア家には血脈に刻まれた確かな証拠がある。シアンが彼らに気にかけられていた(・・・・・・・・・)ことをオーキッド家は暗に認め、丸く収めようとしているのだろう。彼らの様子を見るに、言い逃れはできなかったようだ。それでこのような計画を立てたのだろうが、これが明確にシアンへの害意となることには気付いていないらしい。きっとシアンなら口にできないといまだ信じているようだ。
「ちょっと調子に乗ってるみたいだからさ、少しわからせてやらないと思ってね」
果たして彼らがこれ以上にシアンに危害を加えることの結果を正しく理解できているかは判然としない。その先を見据えているかどうか。短絡的な行動でないといいのだが。
しかし、おとなしくやられるほど賢者も親切ではない。
シアンが左手を顔の左から右に滑らせると、パキッ、パキン、と小気味の良い音が響き渡る。そして不敵に笑って見せた。
「こうして卑劣な手段を選ばなければならないほど、シアン・サルビアが怖かったのかな」
チリアン・オーキッドと四人が動揺するのがはっきりと見て取れた。単純な「口封じ」と「魔法封じ」を解くことほど簡単なことはない。封印を解くスキルを持っているというところまでは想像が及ばなかったようだ。
「そうだよね。サルビア侯爵領に、サルビア家に敵う魔法使いはいないものね」
その事実を覆すだけの根拠はなく、彼らは返せる言葉を持ち合わせていない。声と魔法を封じただけで勝ったような気になっていたようだ。計画は綿密とは言えないものだったらしい。
「魔法だけがすべてだと思うなよ」
チリアン・オーキッドが指を鳴らす。五つの人影に取り囲まれた瞬間、シアンは転移魔法で後方へ飛んだ。その人影の手には凶器が潜んでいる。魔法でなければ物理しかない。それがどういった結末をもたらすか、彼らには想像力が欠如しているようだった。
(洒落にならんのう……)
よもやこんな小さな体に無体を働こうと言うのだろうか。苦し紛れなのだろうが、明らかに冗談では済まない状況だ。
「これ以上、僕に危害を加えるなら、見限られるだけでは済まないよ」
「はは、大丈夫だよ。回復魔法ならいくらでも使えるんだから」
ここへ来ても勝算があるようだが、賢者にはシアンの実力を舐め切っているように感じられた。
「僕がそれを家族に言えないとでも?」
「言えるわけないよな。家族に心配をかけたくないもんな?」
チリアン・オーキッドは履き違えている。シアンの能力だけではない。シアンが以前のシアンと同じではないということを。最初の一言でそれに気付くべきだったのだ。
「ああ、そうだね。……お互いにね」
にこっと微笑んで見せたシアンに、チリアン・オーキッドは顔を引き攣らせる。気を取り直すために背の高い少年が口を開いた。
「名門サルビア家の人間が他人を傷付けるわけにいかないだろ?」
(……どこの家の子かのう……)
何せ部屋が暗くて顔が見えない。とは言え、顔が見えても覚えていないだろう。魔法学校で過ごした日々の記憶がないのだから。
「うーん……どうしたものかな」
わざと愛らしく頬に指を当て、シアンは首を傾げる。もはやシアンの心に怯えはなく、怯んでいるのは対面する彼らだった。
「こんなに聞き分けのない子たちだったなんて……」
これ以上の話し合いは無駄、つまり残すは実力行使、ということを暗に伝えたつもりだったのだが、彼らはもう冷静な判断を下せないようだった。
「調子に乗るな! 家族に言えないようにしてやるよ!」
よもや刃物ではあるまいな、と賢者は思っていたが、五つの人影が手にしているのは棒状の物。打撃で勝負、ということである。シアンがそれに対抗できないと思っているのだ。
(さてさて……子どもの体でどう乗り切るか……)
じりじりと詰め寄って来るのは転移魔法で躱せるが、物理的な攻撃をどう往なすか、である。五人もいれば転移魔法もいずれ封じられてしまう。傷付けずにどう退けるかが問題だ。
ひとり目が振り上げた攻撃を転移魔法で躱したとき、何かに気付かせるように心臓が跳ねた。
『ねえ。あの子の名前、本当に忘れてしまったの?』
誰かが語りかけて来る。それでも止まない攻撃を受け流し、その言葉の意味を探った。
『憶えているはずよ』
また別の声が言った。それは、あの日の誰か。
『さ、呼んでみて』
その瞬間、時が切り取られたように動きを止める。脳内に、確かな鼓動を感じた。
「……スカーレット……。スカーレット・マソー……」
その名を口にすると同時に、猛烈な風が室内に吹き荒れた。シアンの目の前で、ばさっとマントが揺れる。
「緋色の騎士スカーレット・マソー。英魂の導きにより馳せ参じた。我が主に仇為す者は誰か」
凛とした声は高らかに、勝利の時を告げていた。




