第29話 ネイビーのダンスレッスン
誕生日パーティの余韻が残る月曜日。それでも仕事はいつも通りにこなす。名残惜しさに遊んでいられるほど、サルビア家の平日は暇ではない。少しでも先延ばしにしてしまえば、執務室のデスクは書類の山で埋もれてしまうだろう。
アズールに確認しなければならない事項を見つけ、スマルトとともに執務室を出ると、廊下の向こうから明るい声が聞こえた。
「はいっ、そこで華麗にターン! いいわよ〜!」
姿が見えなくともはっきりとわかる。カージナルの声だ。
誘われるように辿り着いたのはダンスを練習するための広間。ドアの隙間から覗いてみれば、ドレスで踊るネイビーと手拍子をするカージナルの姿があった。ダンスレッスンの最中らしい。
「あら、シアンちゃん」
曲が終わったところで、カージナルがシアンを振り向く。スマルトも後ろにいるのだが、気にしていないようだ。
「誕生日おめでとう〜。昨日だけど」
「ありがとうございます。ダンスのレッスンですか?」
「ええ」
ネイビーを見遣ると、肩で息を整えている。足音から察するに足元はヒールで、社交パーティを見越してのレッスンのようだ。ネイビーが一曲で疲れるとは思えない。社交界のダンスは一回で終わらない。朝からずっとレッスンをしていたのだろう。
「ネイビー姉様も、カージナルさんがレッスンしているんですね。初めて気が付きました」
「そりゃそうよ」と、ネイビー。「スマルト兄様の執務室だけ防音室になっているんだから」
伺うように見上げるシアンに、スマルトは肩をすくめる。
「こんなうるさい声が聞こえて来たら、仕事に集中できないだろ」
「なによ!」カージナルが眉をつり上げる。「このベリーグッドバリトンボイスが気に入らないって言うの?」
「寝言は寝て言え」
本当にベリーグッドバリトンボイスかは差し置いて、授業でもピアノのレッスンでも、カージナルはご機嫌で教授している。シアンは、それがダンスレッスンでどう変わるのかが気になった。
「あの、少し見ていてもいいですか?」
「あらっ、いいわよ〜。シアンちゃんが見ているほうが張り合いが出るってものだわ」
「シアンが見てるなんて緊張するわ」
困ったように笑うネイビーに、あらあら、とカージナルは挑発的に目を細めて不敵に笑う。シアンには見せない表情だ。
「その緊張感の中でも見事に踊りきる度胸がいつか必要になるわ。良い機会じゃない」
「うーん……それはそうだけど……」
「だぁ〜いじょうぶよ〜。たとえあなたが転んだとしたって、シアンちゃんは笑ったりしないわ〜」
それはもちろんだ、とシアンは頷く。真剣に取り組む者の失敗は笑うべきではない。真剣に取り組む者の失敗を笑う者は、きっと物事に真剣に取り組んだことがないのだと賢者は思っていた。
仕事に戻るスマルトに書類を預け、シアンは壁際の椅子に腰を下ろす。ネイビーは緊張しているようだが、社交パーティにおいて緊張する場面はいくらでもあるはずだ。それを優雅に乗り切ってこその淑女である。シアンが見ているだけの緊張感で失敗しては、社交パーティで何度も転んでしまうことになるだろう。
「いくわよ〜シアンちゃんに良いところ見せてあげるのよ〜!」
カージナルがピアノの前に座る。さんはい、の掛け声で演奏を始めると、姿勢を正したネイビーは緩やかに踊り始めた。
(ピアノを弾きながらレッスンするとは……さすがじゃのう)
カージナルは鍵盤を見ておらず、しっかりネイビーを見て指示を出している。ネイビーはいつもの明るい笑顔ではなく、淑女らしい優雅な微笑みを湛えていた。先日にブルーが言っていたように、その表情は別人のようだった。
「いいわよ〜その調子!」
気分が上がるように声をかけるカージナルは、しかしシアンとブルーのピアノレッスンのときより厳しい表情をしている。
「背筋を伸ばして〜!」
「最高の微笑みで!」
「軽やかに〜!」
「ワンツーさんはい!」
「指先も意識するのよ〜!」
家族のための演奏で充分なシアンとブルーとは違い、サルビア家の長女であるネイビーには社交パーティで多くの注目を集めるはずだ。ふらつくような失敗すら許されない。レッスンは厳しくならざるを得ない。きっと兄たちも同じことだろう。
「最後は優美に〜! はいっ!」
カージナルの声に合わせてラストを飾ったネイビーは、流れるように辞儀をした。シアンの拍手に照れ臭そうにするネイビーの表情はいつもの笑顔だった。淑女モードの終了だ。
「良い調子よ〜。あとは足のつま先まで意識することね。スカートで隠れているからって油断しちゃダメよ〜」
「はーい」
ネイビーはグラスの水を一気に飲み干す。一曲を踊りきるだけでも、シアンが思っているように重労働のようだ。
「カージナルさんはダンスレッスンになると厳しいんですね」
「もっちろ〜ん。ネイビーがダンスで失敗したら、サルビア家が恥をかくんだから〜」
「プレッシャーかけないで。まあ、お陰様で失敗したことは一度もないけど」
家名を背負っている以上、厳しいレッスンをするに越したことはない。社交界の淑女に求められるのは完璧な所作。それより前にレッスンもこなせないようでは話にならないだろう。
「ブルーもダンスレッスンを受けているんですか?」
「受けてないわ」と、ネイビー。「ブルーは必要ないから。ダンスが必要なのは、あくまで社交パーティだけよ」
ブルーはまだ若いこともあるが、厳しいレッスンに音を上げそうな気がする。シアンの想像ではあるが、社交界と無縁でいられるのは、ブルーにとっては僥倖なのかもしれない。
「ドレスとヒールで踊るのは大変そうですね」
「もちろん」ネイビーは肩をすくめる。「私は駆り出されることがないから、回数は少なくて済むけどね」
「どういうことですか?」
「名家の奥様は」と、カージナル。「他の紳士にダンスに誘われることがあるのよ〜。美しい女性と踊りたくなるのは、どの紳士にも同じことなのよね〜」
「私みたいに婚約者がいない女性をダンスに誘うと、好意と捉えられることがあるの。だから回数が少なくて済むのよ」
「なるほど……」
美しさに魅入られてダンスに誘い、それを好意と捉えられてしまうと、それが縁を繋ぐ一方で、それにより何かしらの言いがかりをつけられることもあるのだろう。そう考えると、独身女性をダンスに誘うのは慎重になる必要がありそうだ。
「母様みたいにあんなに何度も踊れないわ。さすがサルビア家の奥様って感じ」
名家の奥様をダンスに誘うことで、その家とのコネクションを作るきっかけになることもあるかもしれない。それを想定してダンスに誘うのであれば、よほどの自信がなければこなせないだろう。特に、セレストのダンスは完璧と思われる。それに気後れしないだけの実力が必要になるということだ。それでも何度も誘われるのは、サルビア家とのコネクションを重要視しているのだ。
「失礼だったら申し訳ないのですが、ネイビー姉様には婚姻のお話はあるのですか?」
「申し込みはあるわ。けど婿養子はより慎重になる必要があるの」
シアンが首を傾げると、やれやれ、と言うようにネイビーは肩をすくめた。その表情には面倒そうな色が湛えられている。
「第一条件が、家督がないことだから。家督のない人で、尚且つサルビアの名に相応しいことが必須なの」
「狭き門なんですね」
「大きな名家はどこもそんなもんよ〜」と、カージナル。「半端な血筋を取り込むわけにいかないもの。魔法の血筋は濃く強く残さなければならないわ」
父母と五人兄弟の能力値に表れているように、サルビア家は優秀な血筋である。その血筋をより濃く受け継いでいくためには、同じように優秀な血筋の者である必要があるのだ。兄姉への申し込みは多くあるようだが、いまだ候補は決まっていないらしい。厳選に厳選を重ねなければならないのだ。
「さあ、再開しましょ〜」
「もうちょっと休ませてよ」
「社交パーティに休んでる暇はないわよ〜。疲れを一切も見せないことが肝要なんだから」
カージナルのダンスレッスンは午前中、いっぱい続いた。ネイビーは疲れつつも、完璧な微笑みで最後まで踊りきる。シアンが思っている以上に体力があるのだろう。
「次はもっと高いヒールを用意して来るわね〜」
楽しげに笑いながらカージナルは、見送りは不要よ、と踊るようにダンスホールを去る。鬼だわ、とネイビーはこぼした。それでも、ネイビーの顔には一滴も汗は滲んでいない。
「汗をかいていないのはさすがですね」
「ドレスの中は汗だくよ。見えるところに汗をかかないのが社交界の淑女というものよ」
「社交界は大変ですね。家の名を背負って表舞台に出なければならないんですよね」
「そうね。それが名家に生まれた者の宿命だわ」
生まれながらに家名を背負う苦労は賢者も知っている。そんな家に生まれ落ちたことを不運だとすら思ったこともある。ダンスを褒められたなんてことは一度だってありはしない。
「でも、私にとってサルビアの名は誇りよ。父様とふたりの母様を心から尊敬しているもの。だから、サルビアの名に相応しい淑女になりたいの」
そう言って微笑むネイビーは晴れやかだった。サルビア侯爵とふたりの侯爵夫人はもちろん尊敬に値する、とシアンは思っている。その輝きを追い求めることは娘として当然の気持ちだろう。あとはそれに見合うだけの実力をつけるだけである。
「先にダイニングに行ってて。私は着替えてから行くわ」
「はい。お疲れ様でした」
すっかりダンスレッスンに見入ってしまった。スマルトがひとりで仕事をすることに苦心するとは思えないが、ほんの少しだけ申し訳ない気がした。スマルトは特に気にしていないだろう。
シアンがダイニングのドアを開けると、一目散にアズールが彼を抱き上げた。まるで待ち伏せでもしていたようだった。
「スマルトは一緒じゃないのか?」
「ネイビー姉様のダンスレッスンを見学していたんです」
「ああ。今日も厳しかったみたいだね。カージナルはああ見えて、ダンスレッスンだけは容赦ないんだよな」
アズールも社交界で淑女とダンスをすることはあるだろうが、同じようにカージナルのレッスンを受けているのだとしたら、きっと完璧に踊りこなすことだろう。きっと様になるはずだ。
「ネイビー姉様は社交界ではどんな雰囲気ですか?」
「一人前とまでは言わないが、それなりに淑女としてやっているよ。お淑やかににこにこしているから、家での顔を知っているこちらとしては面白いよ」
それは今日だけでもシアンにもわかった。淑やかな微笑みを湛えて踊るネイビーは優雅だった。社交界では完璧な淑女だろう。
「それを知らずに求婚した男性が家でネイビーに振り回される様子が容易に想像できるよ」
「ネイビー姉様は裏表の激しい人だものね」
アズールの足元でブルーが言った。その横をスマルトが通る。
「お前もそうなるだろうな」
「どういう意味よ!」
ブルーが怒ってもスマルトは意に介さない。それはネイビーと話しているときの様子に似ていた。
ネイビーとブルーは母親が違うが、よく似ているように賢者は思う。ブルーが活発な少女になったのはネイビーの影響もあるのだろう。ゼニスとセレストは子どもたちが伸び伸び育つことを心掛けているようで、咎めたり注意したりすることはあまりない。そうでなければ、ネイビーとブルーもおとなしい少女になったかもしれない。シアンは賑やかな彼女たちとお喋りすることが気に入っていた。できることなら、そのまま成長してほしいと思っている。抑制されるのはよくないことだ。
* * *
和やかな夕食会の歓談中、ゼニスが思い出したように言った。
「ネイビー。ジェードから見合いの申し込みが来ているぞ」
「えっ、ジェードから……?」
それまで穏やかだったネイビーの表情が一転、渋いものになる。シアンには心当たりのない名前だが、ネイビーにとってはあまり良いお誘いではないらしい。こんな顔は見たことがない。
「お、お会いするだけなら……」
「嫌なら無理をすることはないが、互いのことをよく知っているし、悪い相手ではないと思うぞ」
「確かによく知った関係ですけど……。この家には相応しいかもしれないけど……悔しいことに……」
ネイビーはジェードという男性のことをあまりよく思っていないようだが、家のためなら婿養子に取ることを選ぶのだろう。ゼニスが誘いを断らないところを見ると、悪い関係ではないようだ。
ゼニスとネイビーが話を続ける中、シアンはスマルトの腕を軽く叩いた。それから小声で問いかける。
「どなたですか?」
「ベルディグリ家の俺たちの伯父の次男だ。ネイビーとは幼馴染みで、よく喧嘩をしているが不仲というわけではない。ジェードは気難しい男だから、この家に婿養子に来るのが最も安定の道だろうな。他の家では受け入れられるかどうか」
賢者は、不仲というわけでないのなら互いに条件は良いのだろう、と考える。しかし、その話が進んでいないということは、それだけ喧嘩が多いということなのだろう。ネイビーならその婚姻を受け入れるだろうが、家のための結婚とは息苦しいものだ。
(シアンもいずれそうなるんじゃろうが、結婚には良い思い出はないのう……)
シアンはサルビア家とベルディグリ家の血筋を均等に引き継いでいる。その血筋を受け継がせないのは勿体無いとゼニスは言っていたため、シアンには積極的に結婚をさせようとは思っていないのだろう。シアンとしても血筋を残さないのは勿体無いと思う。条件さえ合えば結婚する道もあるだろうが、何よりシアンは偏見を集めやすい。慎重になる必要性は、兄姉より大きくなるはずだ。そんな結婚に賢者は自信がない。シアンが嫌がるなら積極的にその道を選ぼうとは思わないが。それもまだ、数年先のことである。




