第189曲 亀の歩み、されど堅実な一歩
立てるようになってからのリハビリは、想像していた以上に大変だった。
平行棒、杖、歩行器を用いて転倒防止に注意しながら、重心移動や筋力向上、正しい歩行様式を取り戻していくのは一朝一夕にできるようなものではなく、なかなか思うように動いてくれない体に苛立ちを覚えつつも地道に筋力を蓄えていく作業。
下手に頑張りすぎると逆効果になると分かってはいるけど、一日も早い復帰を願う気持ちはなかなか抑えられるものでなく、遅々として進まないリハビリプログラムにヤキモキしていた。
「さすが若いだけあって回復が早いですね」
歩行訓練後のマッサージをしてくれながら、理学療法士の飯島さんがそう言ってくれる。
「自分では回復が遅く感じてしまい、どうしても焦ってしまうんですけどね」
どうしても頭をもたげてしまう焦りの心。
愚痴をこぼしたところでどうにもならないとは分かっているけど、ずっと優しく指導をしてくれる飯島さんにはつい甘えてしまう。
「早くおうちに帰りたいですもんね。でもね、わたしもあなたのファンだから言うけれど、待っている側からすれば焦って戻ってきて取り返しのつかない後遺症が残るくらいなら、何年でも待つから万全な状態で戻ってきてほしいと願うものですよ」
優しい手つきでふくらはぎを揉み解しながら、それ以上に優しい笑顔を見せてくれる飯島さん。
リハビリが始まった当初からわたしのファンを公言していて、担当が決まった時には飛び上がって喜んだそうだ。
そんな熱心なファンをしてくれている彼女の言葉だから信じたいけれど、どうしても不安な気持ちは拭えない。
「飯島さんはそうかもしれませんけど……」
八つ当たりにも似た発言だけど、飯島さんは気分を害した気配すらなく、穏やかに話を続けた。
「不安になるのも分かりますけどね。ファンを信じるのもアーティストとしての務めじゃありませんか?」
ただの弱気の吐露にも関わらず、温かい表情で返ってきたその言葉に、わたしの中の何かが動いた。
今まで明確に意識したことはなかったけれど、わたしもアーティストの端くれなんだと。
アーティストとしての心得は継続性、独自性、コミュニケーション。
ファンとのコミュニケーションというのは一方通行では成立しない。そこにはお互いの信頼関係があってこそ成り立つもの。
わたしがファンを信じずに、どうして信頼してもらえるだろう。
「飯島さんありがとう。少し気分が軽くなったよ」
わたしのファンならば、きっと待ってくれている。なにしろ、一年以上も音信不通になっていたにも関わらず、ずっと支え続けてくれてたんだから。
わたしが眠りについた後でもチャンネル登録者は減るどころか逆に増加していた。動画の再生数も数千万単位は当たり前、億を超える数字を誇るものだってある。
音楽だけでも星の数ほどいる配信者の中でも、いや全てのアーティストを含めてもそこまでの結果を出しているのは数えるほどしかいない。
それだけ熱心に支持してくれる人達がいるというのに、焦って無理をして、余計にリハビリ期間が延びてしまってはファンに対する裏切りだ。
「たとえ亀の歩みでも、継続こそ力なり。堅実な一歩を踏みしめていくことこそが一番の近道なんですよ」
継続は力。それはアーティストの心得にも通じる。
ファンのおかげでトップクラスの層にまで上げてもらうことが出来たんだ。わたしももっとプロ意識を持たないといけない。
「体のケアだけじゃなくて心のケアまでしてくれるなんて、飯島さんは一流の理学療法士ですね」
忖度でもお世辞でもなく、本心からそう思った。
「あらあら、ゆきちゃんから身に余る評価をいただきました。ありがとうございます。表情から焦りや苛立ちが消えましたね。それでこそわたし達の愛するゆきちゃんですよ」
わたし達とついているからファンとして言っているのだということは分かるのだけど、「愛する」という言葉に反応してしまい、赤くなってしまった。
「ゆ~き~」
突如横から聞こえてきた声に、頭から氷水をかぶったような寒さを感じた。
しまった、今日はあか姉が見学しに来ているんだった。
「デレデレしてる」
凍てつく視線にさらされて、背中を嫌な汗が流れていく。
「し、してないってば! ファンに愛されてると思ったら少し照れくさくなっただけだって!」
「……慌てて否定するのが余計に怪しい」
ジト目はやめて!
あうぅ、ムキになって否定しても逆効果だろうし……。
「うふふ、ゆきちゃんは本当にお姉さん方に愛されてますね」
マッサージをしながら黙って聞いていた飯島さんから助け船が入った。おぉ、救世主!
「お姉さん方は知らないかもしれませんが、ファンの間だけでなく、この病院内でもゆきちゃんのシスコンぶりはもう有名ですよ。隙があればすぐ御姉妹の自慢話ばっかりするんですから」
「それは言っちゃダメぇ!」
救世主だと思っていたら密告者!
そんな裏話はしなくていいから! うぅ、惚気話を本人に聞かれるのは恥ずかしいよ……。
「ふ~ん、へ~。ほほ~う」
頬を染めながらも、ニヤニヤした表情のあか姉。
「ゆきはシスコン。むふふふ」
く、普段は無表情なくせしてこんな時は表情豊かだな、おい。
悪い顔で覗き込んでくるんじゃない。
うつぶせでマッサージをされているので顔は横向きにするしかなく、上側にいるあか姉にはどっちを向いても覗き込まれてしまう。
「ゆきはわたし達が大好き。みんなに自慢」
「うっさいブラコン!」
精いっぱいの反撃。
だけどそんな言葉ごときで怯むようなあか姉ではない。
「ブラコンじゃない」
え、そこ否定しちゃうの?
「何ショックな顔してる。わたし達はもうブラコンの域を超えている。溺愛すら生ぬるい。ゆきこそまさに掌中の珠。ゆき盲愛命」
いやそんな日本武尊みたいに言われても。
なんだモウアイノミコトって。ゆきいのちじゃダメだったのか。
「ブラコンを超えたブラコン。名付けてスーパーブラコンゴッド」
やめろ! 危険なネタをぶっこむな!
そしてワンとツーはどこいった! 一足飛びも甚だしいぞ! 確かにミコトって神様だけど!
「まだ一段階残してる」
だからやめなさいって。
「はいはい、わたしもシスコンの域は大きく超えてますよ。恥ずかしいからこれ以上はやめない?」
「うん、わたしも恥ずかしい」
だったらやるなよ。
恥ずかしいと言う割にはけっこうノリノリで設定作ってたじゃん。
「アハハ! 配信でも仲がいいのは伝わってきたけど、実際に目の前で見ると本当に仲良しですね」
ほらぁ。笑われてるじゃんか。
「ゆきが大切」
そう言ってわたしの手を取って自分の頬に当てるあか姉。締まりのない顔しちゃって。
「本当にお互いを大切に想ってるんですね。少し羨ましいです」
目を細めてそんなやりとりを眺める飯島さん。すごく優しい笑顔だ。
「ゆきは渡さない」
咄嗟にわたしの両手を取り、胸に抱え込んでしまうあか姉。む、胸に手が……。
「取ったりしませんってば。よかったね、ゆきちゃん。溺愛ですよ」
飯島さんは微笑んでいるけれど、さっきよりマッサージの力が強くなったのは気のせいだろうか。
「溺愛じゃない。ゆき盲愛命。ブラコンを超えた……」
「もうそのネタはいいから」
危ない橋は渡っちゃダメ。大人の世界はややこしいんだよ。
「はい、今日のリハビリはこれで終了です。少しまだ関節が固いので膝や足首の曲げ伸ばしくらいはやっておいてください」
マッサージが終わり、あてがっていたタオルを畳みながら自主リハビリの指示をしてくれる。
「あ、ありがとうございます。もう立って歩けるのにそれだけしかできないんですか?」
「まだ転倒する危険があるので許可はできません。間違ってもスクワットなんかはしないように」
見透かされてた。
「お姉さんも、無茶をしないように見張っておいてくださいね」
トドメとばかりにあか姉にも監視役を命ずる飯島さん。
さっきプロとしての自覚を再認識したばかりだから無茶はしないけどさ。
「いつも見てるから大丈夫」
それってなんか怖くない? 生霊でも飛ばしてるのかな。
車いすに乗り、病室へと戻るわたし達。後ろであか姉が上機嫌に鼻歌を歌っている。
病室にたどり着き、ベッドへ移動するとあか姉がじっと私の顔を覗き込んできた。なに?
「あのリハビリの人、ゆきに惚れてる」
唐突な言葉に面食らってしまう。飯島さんが?
「根拠は?」
「女の勘」
なんだそりゃ。
「そんなわけないよ。飯島さんもただのファンだって言ってるし」
「……はぁ」
ため息をつかれてしまった。なんか地味に傷つくぞ。
「ゆきは鈍いくせに無自覚で女をたらしこむ。いや、男もか。だから心配」
男なんてたらさないよ!
「そんなことは……」
「ある」
最後まで言わせて。
「もう、心配性だなぁ。わたしが好きな人は、これから何度生まれ変わっても変わらないよ」
少し拗ねた様子の顔を引き寄せ、キスをした。
相好を崩して抱き着いてくるあか姉。この上ないほどの幸せを感じる。
こんな可愛い人達、裏切ったりしないってば。




