第183曲 雪解けは新緑と共に
あれから一年以上が過ぎた。ゆきは眠ったまま二十歳を迎えてしまう。
「ほら、マッサージ終わったぞ」
姉妹全員で欠かさずやっている日課を終えて、ブラシを手に取る。
「ずいぶん伸びたなぁ」
まっすぐに伸びた絹糸のような黒髪にブラシを通す。これもまたみんながやっていることだ。
マッサージは医師から言われて始めたことだが、髪を梳くのは誰が言うともなく自然と始まったこと。
元々腰まであった長い髪だけど、今では尻を超えるんじゃないかという位置にまで来ている。立ってみることが出来ないから正確な長さは分からないけど。
「いくら毎日梳いているとはいえ、相変わらずキレイな髪だよな。羨ましいぞ」
対するあたしの髪にはいつもの艶がない。
今日は会社も休みで、昨日はあたし名義で借りたワンルームマンションに泊まったから。普段使いするわけじゃないから置いてあるものは最低限なため、シャンプーとコンディショナーもコンビニに置いてある安物だ。
ワンルームマンションの家賃は長女であるあたしが全額払うからいいと言ったのに、楓乃子は半分持つと言うし、茜とひよりまでアルバイト代からいくらか出すと申し出てきやがった。どんな形であれゆきのために何かをしたい、その気持ちは分かるから好きなようにさせた。
「ほんと、お前の愛され方はすげーよな。まぁあたしも負ける気なんてないけどな」
笑いながら語り掛ける。そこに返事はないけれど、今ここに生きていてくれることにとても安心感を覚える。
一向に目を覚ます気配のない眠り姫。
その表情はとても穏やかで、微笑んでいるようにも見える。
「何笑ってやがる」
もっと悲しむものだと思っていた。会うたびに涙が止まらないんじゃないかと。医者の見立てでは、目を覚ます確率は五分五分。一か八かの賭けのようなものだ。
だけど不思議なことに、静かな病室で雪に話しかけている間、心にあるのは安心感。
その安らかな寝顔を見ているだけで、愛しさが溢れ、ついつい唇を重ねてしまう。
「ん。少し乾燥してるのかな」
バッグからリップクリームを取り出して、ゆきの唇をそっとなぞる。
こうやってゆきのお世話をしてる間に感じる幸せ。それはきっと、いつか必ず目を覚ますと信じているからだろう。
ゆきは必ず戻ってくると言い切った。倒れるその寸前の時まで。
あたしらの中でその言葉を疑っている奴は誰もいない。ゆきがそう言ったんだから必ず戻ってくる。ゆきのチャンネルのリスナーも、かつての同級生たちもだ。
クラスメートたちは最初、頻繁に見舞いに訪れてくれていた。だけどそれぞれに生活があって、大学や会社勤めをしているせいで徐々にその回数は減ってしまう。
それでもたまに見舞いに来てはゆきの顔を見て、皆一様に声をかけて帰っていく。「待っているから」と。
「みんながお前を信じてるんだぞ」
ベッド際に頬杖をつき、ゆきの頬をぷにぷにと突っつく。すべらかな肌に柔らかな弾力。放っておいたらこのまま年を取らないんじゃないかと思うほど。
眠りについたあの日から、髪が伸びた以外の変化はない。
「おまえだけ時間が止まってるみてーだな」
さっき梳いたばかりの髪を撫でつける。とても滑らかな触感。どこをとっても綺麗なやつだ。ほんとに時が止まってるんじゃないだろうか。
「だけどな。周りの時間はどんどん過ぎて行ってるんだ。いつまでも待たせるんじゃねーぞ」
そう言ってもう一度唇を合わせた。
あたしみたいな王子様キャラにキスされてるんだから、いい加減に目を覚ましやがれ。毒リンゴは詰まってねーぞ。
「きっと妹たちも毎回キスしてんだろな。おまえこの一年で何回キスされてんだ」
毎日だから三桁を超えているのは確実。あたしみたいに何度もキスしてるだろうから、四桁いってるかもな。
そう考えたらなんだかおかしくなってきた。起きてたらきっと顔を真っ赤にしてるんだろうな。
あたしは微笑みながら視線を外に向けた。一方の壁が全面ガラス張りのおかげで、眼下に広がる公園の新緑が目に眩しい。
「今日も天気がいいな。ほら、見てみろよ。世間はあんなにも生命力であふれてる」
ゆきの世界はモノクロだけど、木々に生い茂った葉で生命の息吹を感じることはできるだろう。
暖かい日差しに照らされて、静かで穏やかな時間が過ぎていく。
いつの間にか空は茜色に染まっていた。
「眠っちゃってたか」
顔を上げ、よだれをたらしていないかを確認してゆきを見る。
「?」
小さな違和感。角度的にゆきの顔を見ることはできないが、その顔は横を向いているような気がする。
筋肉が動いたのかな?
今までも何度か、腕などが動いて目が覚めたのかと勘違いしたことがあった。筋肉のけいれんで動くという説明を受けた時にはがっかりしたものだ。
たまたま首の筋肉が動いたのかと思い、姿勢を正してやろうと立ち上がりかけた瞬間。
わたしは目の前の光景をにわかに受け入れることが出来ず、しばし硬直してしまうことに。
ゆきの、顔が。
何度となく夢見たその瞬間が、今まさに現実となる。
ゆっくりと動き、こちらを向いたその愛しい顔。ふんわりと微笑む天使のようなその表情。
「緑がきれいだね。もう春を過ぎたのかな」
ずっと聞きたいと思っていた声が耳朶をくすぐり、あたしの心までを激しく震わせる。
「バ、バカやろ。第一声が……それ……かよ。まずは挨拶だって……何度も……」
嗚咽をこらえ、ずっと聞きたかった言葉を促した。
「そうだね。おはよう、より姉」
目が覚めた時にいつも言ってくれていた、「おはよう」という挨拶。
日常にありふれたその言葉を聞くことで、ゆきが戻ってきたという実感がストンと胸に落ちた。
「ゆきぃぃ!」
あふれる涙を拭いもせずに、ゆきの胸へと飛び込んだ。
「ゆき……ゆき……ゆきぃ……!」
ただ恋焦がれたその名を呼ぶことしかできず、後の言葉が続かない。想いが溢れすぎて感情の整理が出来ない。
「より姉ってそんなに泣き虫だっけ。わたしのがうつっちゃった?」
無邪気な笑顔で呑気なことを言う。あの頃から何も変わっていない、本物のゆきだ。
「バカ。バカバカ! 一年以上も待たせやがって! 信じてたけど……不安だったんだからな!」
その胸に顔を押し付けたまま、愛しい想いから抗議の声を上げてしまった。
まとった病衣に吸い込まれた涙が大きく染みを作っていく。
「もうそんなに経ってたんだ。ごめんね。お待たせ。約束通り、ちゃんと戻ってきたよ」
「うん。うん……うん!」
ようやく顔を上げ、愛しいその頭をかき抱きながらも嬉し涙は止まらない。
早く姉妹たちに連絡を入れないといけないことと、ゆきが言ったことの違和感に気が付いたのはひとしきり泣いた後だった。
まずは家族とのグループチャットに【ゆきが目覚めた】とだけ打ち込む。
時間はまだ夕方だから、みんなすぐにでも飛んでくるだろう。
そしてもうひとつ。
「ゆき、おまえひょっとして色が見えてるのか?」
第一声、確かにゆきは「緑がきれいだね」と言った。
視界の全てがモノクロだったはずのゆき。その口から出てきた色の表現に期待が高まる。
「空の青、芝生と木々の緑、色とりどりの看板。世界はこんなにも美しい色であふれていたんだね」
返事の代わりに口から出てきたのは色を表す言葉。ゆき自身も意識していたのか、無意識なのか今までその口から聞くことはなかっただけに、見えているんだという確信を持つことが出来た。
「やっぱり見えてるんだな! ということは記憶も!?」
今度はゆきもゆっくりと頷いた。
「記憶の整理が完了したみたいだよ。昔の記憶がおぼろげになっている。小さい頃の思い出もまるで霞がかかったよう。これが忘れるっていうことなんだね」
こんなに嬉しいことばかりが重なってもいいんだろうか。
これは正真正銘、脳の障害を乗り越えたと思っていいのか?
「ただ強烈な出来事やみんなとの思い出は細部まで思い出せるから、完全に普通の人と同じになったっていうわけじゃなさそう」
「それで十分じゃないか。忘れることが出来るっていうことは、もう容量オーバーになる心配はねーってことだろ? だから色も見えるようになったんだろうし」
何もかもが解決するなんてのは求め過ぎだろう。それでもここまで障害が取り除かれたということは十分に喜んでいいだろう。
これは神様とやらに感謝する必要があるのかもしれない。
「あ! そうだ、担当の医者にも連絡しないと」
そう言ってナースコールを押すのと、妹たちが飛び込んでくるのは同時だった。
後ろから「走らないでください!」という声が追いかけて来てたから、余程急いで来たんだろう。
「「「ゆき(ちゃん)!」」」
既に全員涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。泣きながら走ってきたのかよ。
あたしを含めた四人がかりでゆきに詰め寄り、本当に目が覚めたのかを確認するかのようにその身に触れる。
顔ももみくちゃにされて変な声を上げちゃってるぞ。
「ふにゅ~。起きてる! 起きてるから! もうやめて~」
「ヤダ! ゆきちゃんのことをもっと確かめさせて!」
そう言って最初にゆきの唇を奪ったのはひよりだった。さすが末っ子。そういうところは抜け目ないよな。
「わたしも」
無表情ながらも涙を流すという若干怖い表情で、次にキスしたのは茜。
「二人とも抜け駆けはズルいです! わたしも!」
出遅れた楓乃子は少しぷりぷりした様子で勢いよく唇を重ねていた。
ゆき自身はというとその勢いにすっかり圧倒されてしまったのか、目を白黒させるだけで抵抗すらできない様子。
「オホン。感動の再会はそれくらいにして、まずは容体を見させてもらってもよろしいですか?」
気が付くと後ろに担当の先生と看護師が立って、なんとも気まずいような苦笑いをしていた。




