第180曲 拝啓、未来のわたし
何事もなく時間が過ぎていく。
家事をして、配信で大切なリスナーさん達と交流し、愛する人たちと同じ時間を共有する毎日。
そこにあるのは穏やかな時間と、この上ない安らぎを感じる幸せの日々。
何気ない日常にも幸福を感じられるのは一生懸命生きている証拠。幸せは漫然と過ごしていては気付かない場所に落ちている。
ひとつひとつをそっと拾い上げ、慈しむように育てることで大きな花を咲かせることが出来るんだろう。
卒業式から日は過ぎて、誕生日が来て十九歳になった。来年は二十歳か。成人式でみんなに会いたいな。
卒業式を終えた後、定期検診も兼ねて大学病院へと足を運んだ。
「あれから調子はどうだい?」
期間だけで言えばお母さんやより姉、ひよりと同じくらいの付き合いがある先生。
見慣れたくもない存在だけど、今は聞いておくことがある。
「特に変わりはありませんよ。先日少しだけ時間が飛んでしまうような感覚を味わいましたけど、それもその日だけでした」
変化があったとすればそのくらいだ。きっと疲れや心労が溜まっていたからついボーっとしてしまっただけだろうと思い込んでいるけれど。
「時間が飛ぶ感覚……か」
顎に手を当てて何やら考え込んでしまう先生。気になることでもあるんだろうか。
「恐らく記憶の容量がかなり圧迫されていることで、脳が情報の整理をしているのかもしれない。あくまで推察だけどね」
歯に衣着せぬのは昔からだ。見え透いた慰めを言われるよりは余程いいけれど。
でも頭の片隅にあった恐れを指摘され、心に小さな波が渦巻く。やっぱりなのか。
でもそれを逆手に取れば。
「そのことでわたしから提案なんですけど、わたしの記憶がある場所からもう一度全てを思い出し、記憶のデフラグをすることで時間を伸ばすことはできないんでしょうか」
またしても考え込む先生。その可能性を考えているんだろうか。だけどその表情はどこか険しい。
「それは正直あまりお勧めできないかもしれない。もうすでにかなり圧迫されていることは先ほどの症状を聞いただけでも推測できる。その状態で過去を思い出していくというのは君の場合、相当な負荷がかかるのは分かるだろう。記憶だけでなく五感で感じたもの、感情まで全てを覚えている君なら」
先生の言うことも分かる。
残されたスペースで記憶を書き換えていくという作業は脳の負担になるだろうし、ましてや過去の記憶となると精神的にも辛いものがある。
楽しいことばかりが記憶されているわけではないし、ママとの思い出となると……。
「それでもです。それでも、わたしは何もせずにその日が来るのを待っていたくはないんです! みんなとも約束しました。わたしは必ず生きて見せると。なんでもいいんです。何かいい方法はありませんか」
じっとわたしの目を見つめてくる。わたしの決意を感じ取ってくれているんだろうか。
やがて小さなため息と共に穏やかに話し始めた。
「出来ること、と言えば君の提案した方法しかないだろうね。だけど一気に思い出すのはダメだ。脳に負担が大きすぎる。少しずつ時間をかけて、徐々に思い出していくのがいい。追体験するのと何ら変わりがないんだからね。少しでもしんどくなったり、異変を感じたらすぐ中止するように」
なかなか見ることのできなかった先生の笑顔を見ることで、小さな希望の光が灯るのを感じた。
為すすべなくただ日々を過ごすより、何かの行動を起こせるほうがより活力を得ることが出来る。
わたしは先生に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。自分の障害とこれだけ向き合うことが出来るようになったのも、先生が匙を投げずに付き合ってくれたおかげです」
わたしが初めて見せた感謝に対し、笑顔を見せてくれたけど、その表情はどこか寂し気だ。
「今まで私にそんな明るい表情を見せてくれたのは初めてだね。医者としては私自身の手でそんな表情をさせたかったよ」
「先生にも十分に助けてもらいましたよ。次は十一月にもう一度元気な姿を見せに来ます」
そう言ってもう一度頭を下げ、診察室を後にするわたしの足取りは軽かった。
それから月日は過ぎ、わたしは今、手紙を書いている。
両親と姉妹へ、愛情を込めて。そしてもうひとつ、未来の自分へと。
――拝啓、未来のわたし。
今わたしは何をしていますか? 自分の足で立っているでしょうか。自分の言葉で話しているでしょうか。
笑っていますか? 愛する人を大切にしていますか? 大切な人を笑顔に出来ていますか?
もしできているなら、今の自分を褒めてあげてください。
大きな壁を乗り越えて、命の灯を再び輝かせていることを誇ってください。
わたしの時間はもうすぐ止まってしまいそうです。手は尽くしました。
でもどうにもならなかった。どうか許してください。
だけどわたしは決して諦めたりはしません。大切な人たちと約束をしたから。たくさんの人に望まれているから。
たとえ一度は倒れても、何がなんでももう一度この足で立ち、また歩き始めます。
今、この手紙を読むことが出来ているのなら、自分自身も精一杯愛してあげてください。
必ずこの手紙をまた読む日が来るのを願って、この手紙をしたためます。
敬具――
十一月の診察の日は宣言通りに元気な姿を見せることができた。
記憶の整理を――ママとの思い出を掘り返すのはつらかったけど――少しずつ進めていったおかげかもしれない。
だけどそれから三カ月が過ぎ、わたしには明らかな異変が現れてきていた。
二カ月を過ぎたころから時間が飛んでしまう感覚が再発するようになり、その頻度は徐々に増えていっている。
姉妹に声をかけられて我に返ることもあった。
いよいよその日が近づいているのかもしれない。正直怖い。
だけどその恐怖を抑え込むように、足に力を入れてしっかりと立つように、わたしは立ち向かう。
いつでもかかってこいよと心の中で悪態をつきつつも、姉妹の事を思い浮かべて溢れそうになる涙をこらえる。
大丈夫、わたしは大丈夫。
誕生日は両親も揃って盛大に祝ってもらった。
みんな笑顔でお祝いの言葉を言ってくれるけど、そこには今日まで来れた安堵と、来年の誕生日も迎えられるだろうかという緊張感がある。
いつまでもそんな表情をさせていたくはない。
十一月に先生から言われた言葉が頭をよぎる。
「本当に脳内の記憶を整理するなら、いったん他の活動を全て停止して、機能を全て集中すればどうにかなるかもしれない」
それはつまり、呼吸や鼓動など、生命活動に必要なもの以外の全てを止めてしまうということ。つまりは昏睡状態だ。
いずれ限界を迎えた時にそうなる可能性はある。昏睡か、それとも脳死か。もしくは精神崩壊か。はたまた完全なる死を迎えるのか。
それは神のみぞ知ると言いたいところだけど、そんなことは許さない。わたしは生きる。何がなんでも。
必ずもう一度立ち上がってみせる。
だからこそ今、わたしは未来の自分へあてた手紙を書いている。希望を込めたタイムカプセルとして。
どんな状態になるのかは分からないけれど、その日が来たら分かる。そんな気がする。
今日は休日。天気は曇り。少し遅めの時間にいつも通り目覚めのキスでみんなを起こし、朝食の支度の仕上げにかかる。
最初こそみんな驚いていた目覚めのキスだけど、近頃ではもう一回とせがむようになってきた。何度もせがまれ、以前より時間がかかってしまうことも。
さっき起こしたばかりだと思っていたのに。
気が付くと全員が食卓につき、心配そうな視線をわたしに向けていた。またか。
「ごめんごめん」
苦笑いをして最後のおかずを運び、わたしも椅子へと座る。
うん、今日のご飯もカンペキ。みんなも美味しいと笑顔。
いつもと変わらぬ、日常の一コマ。愛しい顔が並んでいることに、言い知れぬ幸福感を感じる。
食事が終わり、それぞれがシンクへ運んでくれた食器を洗い始めた。今日のお手伝いはあか姉。隣で機嫌よく食器を拭いている。だんだん雨が激しくなってきた。
今日も一日、いつもと変わらない休日を過ごすはずだった。
だけどその時はなんの前触れも、予告もなく訪れてしまう。
「ゆき、大丈夫?」
最初はあか姉に声をかけられて我に返ることができた。
だけどそこからがいつもと違った。
ぶつ、ぶつ、と、断続的に記憶が途絶える感覚。
時間がコマ送りのように進んでいき、気が付くたびに少しずつ時間が進んでいる。
あぁ。とうとうこの時が来てしまった。
「ごめん、とうとう来ちゃったかも」
その言葉でその場にいる全員が意味を理解した。一斉に駆け寄ってくる姉妹たち。そこに言葉はないけれど、その胸に去来しているであろう悲痛な思いも、不安な心も読み取ることが出来る。
気力を振り絞り、暗くなりつつある視界をなんとか持ちこたえ、手を洗ってソファに体を横たえる。
「そんな顔しないで。大丈夫。わたしは必ず戻ってくるから」
薄れゆく意識の中で、愛する人たちに約束を。
「みんな愛してる。だから今は少しだけ、休ませてくれるかな……」
「あぁ、ゆっくり休め」
そう言って微笑むより姉の頬を涙が伝う。
「いつまでも待ってるから。後のことはわたし達に任せて」
ひよりも泣きながら頼もしいことを言ってくれる。わたしのリスナーさんにもひよりならちゃんと説明してくれるだろう。
「戻ってこい。待ってるから」
あの日の卒業式のように、大粒の涙をぽろぽろとこぼしているのはあか姉。ありがとう。
「戻ってきたらお祝いですから。楽しみにしていてくださいね」
いつもの優しい笑顔を涙で曇らせながらも、未来を信じているかの姉。
一人として欠けることなくこの日を迎えられたのはある意味幸運なのかもしれない。お父さんとお母さんには悪いけど。
「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」
今のわたしの気持ちを詠んでみた。きっと戻ってくるから。
「崇徳院。さすがゆきらしい」
「どういう意味だ?」
あか姉は理解してくれたみたいだけど、より姉には難しかったか。
「今は離ればなれになっても、その先でまたひとつになりたい」
「そっか。うん、そうだな」
より姉もこの歌に込めた意味を分かってくれたみたい。強い再会の願いが込められた、切実な恋の歌なんだよ。
「それじゃ、眠るね。また……あとで……」
そしてわたしの瞼は閉じられた。
「まったく、ちょっと昼寝をするような感覚で言いやがって……」
「ゆきちゃんらしくていいじゃない」
「ゆきも、わたしたちも、ずっと何も変わらない」
「今はゆっくり休ませてあげましょう。まずは病院に連絡をしないといけませんね」
覚悟が決まっていたのか、涙を流しながらも取り乱すことなく、現実を受け入れる姉妹たち。
天だけはその心を代弁するかのように、大粒の雨を降らせていた。
テーマソング
蒼狼ルナ「Please forgive me」
https://youtu.be/UEXLTuYRmmM?si=p7sWpfWQozkaKoxw
この回にピッタリの楽曲です。
章タイトルに使っている文言がそのまま出て来るのには驚きました。




