第171曲 希望という名のタブー
「ん、んん……」
わたし、眠っていたのか……。少し頭が痛い。
何があったのか思い出そうとしてみると痛みが強くなるけど、やがて記憶が鮮明に蘇ってくる。
そうか、わたしは子供の頃に戻っていたんだ。自分が自分ではなくなったような感覚で少し不快感がある。全記憶というのは本当に厄介だな。
でも、これでわたしが隠していた最後の事までバレてしまったようだ。お母さんにも言っていなかったわたしの記憶。
あの雪の日、記憶が混濁していたわたしは何も覚えていないと思った。お医者さんにも、お母さんにもそう言った。
だけど、数日で思い出してしまったんだ。恐怖の対象であるママの記憶。
でも思い出したことは誰にも告げず、もう一度記憶の底に押し込めて蓋をしてしまうことに決めた。
憎んでいるわけではない。
子供というのは不思議なものだ。
それが本能なのか、どれだけ理不尽な目に遭っても自分が悪いと言い聞かせ、保護者である母親を求めることをやめようとしない。
殴られようが蹴られようが、空腹を放置されようが母を慕う気持ちはなくなることがなかった。
愛情と恐怖が同居するママの記憶。新しいお母さんに温かく迎えてもらい、安寧を与えてもらったわたしには、思い出してはならない禁忌の記憶。
「ゆき、起きたのね」
お母さんがわたしの気配を察知して声をかけてきた。
姉妹たちも一斉にこちらへ振り向く。
「「「「ゆき(ちゃん)!」」」」
全員がソファーのところまで走り寄ってきた。一番にたどり着いたかの姉に抱きしめられる。
「ちょ、ちょっとかの姉? 急に何?」
「ゆきちゃん! もう何も怖いことなんてありませんからね! 安心して大丈夫です!」
やっぱりそのことだよねぇ。
「あう。先ほどはたいへんお見苦しいところをお見せしました……」
まさか自分が幼児帰りを起こしてしまうとは、猛烈に恥ずかしい。しかも泣きわめいていたし。
「さっきのこと、覚えてるのか。そうだろうな。ってことは元々忘れたってのは噓だったのか?」
ここまで来たら嘘を言っても仕方ない。さっきあれだけ介抱してもらっておいて、これ以上嘘を重ねることなんてもうできないし。
観念したわたしは少しためらいながらも、ゆっくりと頷いた。
「やっぱりか。どうせゆきの事だから家族に余計な気を遣わせないようにと思って嘘をついてたんだろうけどな。でも水臭いぞ」
「だって最初はやっぱり遠慮してたし……。思い出すのも……怖かったから……」
家族の一員にしてもらえてとっても嬉しかったけど、遠慮と恐怖という気持ちは拭えなかった。
「まぁそりゃそうよね。でも気が付いてあげられなかったお母さんも不甲斐ないわ。ごめんね、ゆき」
「お母さんが悪いわけじゃないよ! ただ嘘をついたわたしが悪いんだから……」
しょんぼりしてしまうわたしを優しく見つめるお母さん。あの時もこの笑顔に救われたんだよなぁ。
「それで、楓乃子はいつまでしがみついている」
抱き着いたままのかの姉を咎めるあか姉。ほんと、いつまで抱き着いてるんだろ。
「嘘つきなゆきちゃんにお仕置きするまでは離しません」
嘘つきなのは認めるけど、お仕置きってなんだろ。
「楓乃子、まさか!」
あか姉が慌てると同時に、かの姉が不敵に微笑んだ。え、なになに?
「さっきは依子さんにされたんだからもう解禁でしょう! んっ!」
その言葉と同時に唇を奪われた。
「「「あぁぁぁ!」」」
「あらあら」
他の姉妹の悲鳴とお母さんの呑気な声がリビングにこだまする。
「ぷは! ふふ、ゆきちゃんの唇、柔らかいですぅ。ごちそうさまでした」
ご満悦のかの姉。時間だけで言えばより姉の方が長かったけれども。
「さっさとどく!」
かの姉を引きはがし、わたしの膝に座り込むあか姉。あ、もう展開読めたわコレ。
案の定口を塞がれるわたし。もう好きにして。
流れに身を任せたわたしはそのまま黙って目を閉じた。
……ちょ、長くない? 膝に乗られてるから足がしびれてきたし。というか足に伝わる重みと体温が生々しい。
「ちょっとあか姉! ゆきちゃんの顔が赤くなっちゃってる! 死んじゃうってば!」
酸欠で赤くなったと勘違いしたひよりにどかされるあか姉。
さすがに違うとは言えないのでそのまま勘違いしておいてもらおう。
「ホントに酸欠かぁ?」
より姉がニヤニヤしている。コイツ、勘付いてやがるな。
「次はわたしの番だよ。ゆきちゃん、恥ずかしいから目を瞑って」
頬を朱に染めて、小首をかしげるひより。なんだこの可愛い生き物は!
さっきまでの怒涛の展開に比べて、あまりにも清純で可愛らしいお願いにわたしも頬を赤くして、言われた通り目を閉じた。
おずおずと近づいてくる気配と共に、唇に感じる温かくて柔らかい感触。
瑞々しく感じてしまうのはひよりが若いからなのか、それともひよりだからなんだろうか。労りの心が感じられる優しいキス。
いかん、心がとろけてしまいそうだ。
ゆっくりと離れていくひより。
「あんたら、親の前ですごいわね。見てるこっちが照れちゃうわよ」
そういやお母さんいたんだった。四人がかりでキスされているこの状況を受け入れてるのはなぜなんだろう。
「お母さんはあなた達の恋を応援してるわよ」
理解のありすぎる親ってのもどうなんだろうね。息子と娘の四対一の恋愛を認めるとか、常軌を逸してるとしか思えないぞ。
「それで、ゆきは黙ってキスされてたけど、もうあたしらの想いを受け止める覚悟はできたのか?」
半ば無理やりキスされてるんだけどなぁ。
でもやっぱり何らかの答えは出さないといけないよね。なんだけど……。
そのことを考えるとまた涙が溢れてきた。悲しいんじゃない。
かつての記憶と考えることの恐怖が感情をかき乱し、滂沱と涙が流れてしまう。それはまるで今日の天気のように。
「お、おい、ゆき! 大丈夫か!」
慌てたより姉が声をかけてくる。また取り乱したりするんじゃないかと心配なんだろう。
わたしはそれを否定するために顔を横に振り、ゆっくりと話し始めた。
「大丈夫だよ。そうじゃなくて正直、怖いんだ。わたしは今まで『雪の精霊』として人々に幸せを届けるという使命を持って、そのためだけに生きてきた。自分の幸せなんて考えたことがなかったんだよ。それをいきなり変えて、自分がどうなってしまうのか分からない。怖いんだよ」
「それは両立できることじゃないの? 何も自分の事だけを考えろってわけじゃないんだから」
ひよりの言うことも分かる。でもね、そうじゃないんだよ。
「わたしはね、ママに愛してもらいたかった。どれだけ酷いことをされても憎むことなんてできなかった。
でもあの雪の日に、全ての願いは叶わないと悟ってしまったんだ。
生きる意味も希望もなくしてしまったんだよ。完全に空虚になってしまった。あのまま眠って終わりたいとすら思っていた。そんな時に雪の精霊のお告げを受けて、それが自分の生きる目的に成り代わったんだよ」
愛されることを諦めてしまったから、精霊の使命をすんなり受け入れることが出来た。
それ以降、わたしにとって愛されたいと望むことは、以前の記憶を甦らせるタブーとなってしまったんだ。
「愛されたいと望むこと。かつてのわたしが望み、叶えられなかったことで捨ててしまった願望。もう一度希望を持つということは、あの時の自分に立ち戻ってしまう。そのことがとてつもなく怖い」
寒い。恐怖と記憶がないまぜとなった感情に体温を奪われていくように感じる。
それは錯覚だ、幻影だと分かっているのに、酷寒の風から自分を守るかのように膝を抱えてうずくまってしまう。
自分を抱きかかえ、涙を流す姿はまるであの頃のようだ。
「ゆき……」
あか姉が右隣に座り、優しく頭を撫でてくれる。それでも涙は止まらず、やがて嗚咽の音だけがリビングに満ちていく。
「本当はこんなに泣き虫。気づいてあげられなくてごめん。でも大丈夫。心の底からゆきを愛してる。わたしは裏切ったりなんてしない。この命ある限り、ゆきを愛し続ける。誓う」
訥々と語るあか姉の言葉だからこそ、そこには真実が込められていると感じることが出来る。
わたしはこの言葉を信じていいんだろうか。
「本当に? わたしは愛されてもいいの? 生きていていいの? 信じてもいいのかなぁ……」
涙でボロボロになった顔で、すがりつくようにみんなを見渡してしまう。
本当は助けて欲しかった。いつだって心は悲鳴を上げていた。奥底に閉じ込めていた幼いわたしは、いつも泣いていたんだ。
「当たり前だろ。絶対に後悔なんてさせない。寂しい思いもさせやしない。誰よりも愛してるんだ、ゆき」
左隣に腰掛けたより姉がそっと涙を拭ってくれる。だけどその優しさが、さらに涙の量を増加させてしまう。
「今までずっと我慢してたんですね。いっぱい泣いていいですよ。涙は心の膿を流してくれます」
わたしの前に腰を下ろし、右ひざに手を置くかの姉。
左ひざにはひよりの手が置かれ、四人がそれぞれ慈しむような目を向けてくれる。
「みんなゆきちゃんのことを想ってる。その気持ちは今までもこれからも絶対に変わらないよ。わたしだってそう。わたしは妹だけど、それでもゆきちゃんを支えたいと思ってるんだよ」
それぞれが自分の言葉でわたしへの想いを告げてくれる。それは作られたものでも、強要されたものでもない。自然と出てくる心の発露。
だからこそ奥底にまでその熱が届き、凍り付いてしまったわたしの心を溶かし始めている。
「うん、うん。みんな、本当にありがとう。こんなわたしを好きでいてくれて……」
「あなたを愛してるのは何も四人だけじゃないわよ。お母さんも母親として、深く深くあなたを愛しているわ。
何も特別な事なんかじゃない。
我が家に迎え入れたあの日から、あなたはもう立派な家族の一員であり、わたしの可愛い息子なのよ。あなたの苦しみにずっと気づいてあげられなくてごめんなさい」
後ろからお母さんがそう言ってわたしの頭を撫でてくれた。愛情のこもった、とても優しい手。あの雪の日、わたしを救ってくれた暖かい手に触れられて、まださっきの余韻を引きずるわたしの本能は母の温もりを求めてしまう。
「お母さん……。わたし、愛されたいよ。生きていたいよ。ずっと、ずっと一緒にいたいよぉ……」
それは子供が母親を求める自然な感情。
「そんなの当たり前じゃないの。お母さんからもお願い。
諦めないで。もっと強く、強く生きたいと思って。
奇跡を強く願ってちょうだい。
わたしと四人の娘たち、そしてあなた。お父さんも含めて七人もの思いが重なれば、きっと神様も願いを叶えてくれるわ。
何もしなければ神様も奇跡を起こしてなんてくれないのよ。
流れ星に願いを唱えることが出来れば叶うって言うでしょう。あれは本当の事なのよ。
星空の好きなあなたなら、流れ星がどれだけ早く消えてしまうか分かるでしょう。そんな一瞬の間に唱えられるほど強い願いを持っていれば、人間はそれを叶えるだけの力があるのよ」
今までわたしは自分の願望に蓋をして、神様の決めたとおりに生きていくのが当然のことなんだと思ってた。
だからこそ使命に忠実でいられたし、それを生きる目的にも出来ていた。
「もっとワガママになってもいいんだよ。神様が決めたレールの上を走らないといけないわけじゃねー。
運命を切り開いていくのは人間なんだ。起きたことを運命だと決めつけるのは、それが過ぎ去ったからこそ言える事後の思い込みに過ぎねーよ」
これまでのわたしを根底から覆すようなより姉の言葉。
だけど、愛情のこもったその言の葉は、言霊となってわたしの凝り固まった思考を砕いてゆく。
「それで迷いそうになっても、わたし達がそばにいますから。ずっとそばにいて支え続けますからね」
わたしの恐れを解きほぐすかのように、かの姉の優しい言葉が染みてくる。
永久凍土に柔らかな陽射しが届き、生命の息吹をまとった土の匂いを感じたような気がした。
「わたし……。本当は生きたいんだと思う。うん、生きたい……。生きる!」
ずっと厳しい冬だった幼い心に、春の訪れを予感させる風が吹き始めた。




