第170曲 開いてしまった封印
みんながわたしのそばにいる。それぞれがわたしの服を掴み、その気持ちを伝えてくれている。
いつもなら安心するその状況も、今のわたしには痛みが伴う。
大好きな人たちとこの先もずっと生きることができたらどれだけ幸せだろう。
だけどわたしにはそれを望んでしまう勇気がない。怖い。
ずっと閉ざしていた記憶の蓋をこじ開けられる音がした。怒涛の勢いで流れ込んでくる奔流。
あの雪の日は混濁状態で忘れたと思っていた、そのまま葬り去ってしまいたかった幼き日々の傷跡。
ずっと目を逸らし続けていた過去の亡霊が、鮮やかに蘇っていく。
* * *
胸倉をつかんだまま顔を上げると、ゆきが両手で顔を覆ってしまっていた。手の端から大粒の涙が流れているのが見える。
「ゆき?」
どうしたんだろう。体が小刻みに震えているのが伝わってくる。怯えているのか?
「イヤだよ……怖い。痛いよ。もうやめてぇ……」
どうしたんだ? 明らかに様子がおかしい。イヤイヤをするように顔を左右に振っている。
「どうしたゆき!」
「ゆきちゃん!」
「ゆき」
「しっかりしてゆきちゃん!」
みんなで声をかけたが、元に戻る様子がない。どころかさらに震えが激しくなっていく。
「イヤだ! 痛い! ごめんなさい! ごめんなさい!」
そのうち手足をばたつかせて暴れ出した。まるで幼子のように。
みんなで体を押さえ、なんとか落ち着かせようとするも一向に収まる気配がない。いったいどうしたって言うんだ?
「ごめんなさい! もう許してママあぁぁぁ!」
怯え切ったゆきのママという叫びに、その場にいる全員が凍り付いた。
母さんのことをゆきはママとは呼ばない。だとしたら……。
思い出したのか!? それとも他のことと同じように記憶に蓋をしていた? それもかなり固く閉ざしていたに違いない。
それがどうして蘇ってしまったんだ? ゆきにとって未来を考えるというのはどういうことなんだ?
考えるのは後だ。今はとりあえずゆきを落ち着かせないと。
「ゆき! 大丈夫だ! ここにはお前を傷つける人間はいない!」
「イヤ、イヤぁぁぁ……。いい子になりますから、もう泣かないから! ごめんなさいママぁ!」
ダメだ。今のゆきは完全に幼かったあの頃に戻っている。
そう、わたし達の家族になる前の、あのアパートに住んでいた日々に。
泣きじゃくり、何も見えないように両手で顔を覆ったまま身をよじり続けるゆき。安心させるためにはどうすればいい?
こんな姿のゆきを見て最初は驚いたが、背景を知っているわたし達はすぐに意味を理解してしまった。
なにより大切な人がこんなにも怯え、助けを求めている。助けたい、守りたい!
「ゆき! 大丈夫だ! 大丈夫、大丈夫……」
ゆきの上半身を引き起こし、力いっぱい抱きしめた。
考えるよりも先に体が動いていた。母親が悪夢を見て泣く子供をなだめるように、背中をさすり続ける。
「イヤ、イヤ……。ごめんなさい、もう許してくださいぃ……」
親に、実の母から暴力を振るわれ続けている子供に足りないものはなんだ?
それは愛情だ。
「大丈夫、大丈夫だよ。もう怖くない。痛くないよ。ほら、ゆき。大好きだよ」
母親にはなれないけど、勝るとも劣らない愛情を持って優しく語り掛ける。
今のゆきに一番必要なのはなによりも愛情だ。
「大丈夫ですよ、ゆきちゃん。もう何も怖くないですからね」
「ゆき、大好きだ。愛してるよ」
「大丈夫だよ、ゆきちゃん。誰も痛いことなんてしないから」
全員涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、精いっぱいの愛情を込めてゆきの体に触れ、なだめ続けた。
「イヤぁ……。うぅぅぅ……」
どれくらいたったのか、ようやくゆきの体の震えが治まり大人しくなってきた。
だいぶ力が抜けてきたので、もう一度体を横たえさせて、顔を覆っていた両手をそっとはがしてやる。ちゃんと目を見て安心させてやりたくて。
「ほら、ゆき。もう大丈夫だろ」
「う、ううぅ……」
だけどその表情はまだ怯えたままで、視線はきょろきょろと宙を彷徨っている。正気を失っているのか?
頼むよゆき、そんな顔をしないでくれ。そんなに怖がっているお前を見ていたら、痛々しさと愛しさでどうにかなってしまいそうだ。
「こっちを向いてくれ、ゆき」
かつて凄絶な虐待を受け、こんなになるまで傷ついたゆき。いまだ視線の定まらないゆきを正気に戻すにはこうするしかない。
あたしはゆきの顔を両手で挟み、そのまま顔を近づけ、唇を重ねた。
「んんっ!」
ゆきは少し驚いたように体を跳ねさせたけど、すぐに大人しくなった。
あたしはそのまま唇を合わせ続ける。戻ってこい、ゆき!
するとゆきの両手があたしの背中に回ってきた。
「ゆき!」
唇を離し、ゆきの顔を覗き込む。先ほどまでの怯えの色はなくなり、少し虚ろながらもしっかりとあたしを見ている。
「より、姉……」
小さい声だけど、確かにあたしの名前を呼んだ。よかった……。
だけど、ようやく元に戻ったかと思ったゆきの両目がゆっくりと閉じていき、背中に氷を入れられたような恐怖感に襲われてしまう。
嘘、だろ?
「ゆき!」
「より姉! 大丈夫! ちゃんと息をしてるよ! ただ眠っているだけだから!」
ひよりの声で我に返り、自分でもう一度確かめてみると穏やかな寝息が聞こえてきて、一気に体の力が抜けてゆきに覆いかぶさってしまった。
ちょうどその時リビングの扉が開き、仕事から帰って来たであろう母さんが立っていた。
「いや、確かにゆきの心を掴めとは言ったけどね。いきなり四人がかりで襲うとか激しすぎない?」
「ちげーよ!」
ゆきをソファに寝かせ、あたし達はソファで母さんと向き合った。
「なんだ。てっきり業を煮やして強硬手段に出たのかと思ったわ」
事のあらましを伝えるとようやく納得してくれたようだ。とんでもねー勘違いするんじゃねーよ。
「より姉はキスしてたけどね」
余計なこと言うんじゃねーひより!
「あら、一人だけ抜け駆け?」
「だからそんなんじゃねーっての!」
あれはあくまで応急処置であって、人工呼吸と変わらないんだってば。
……でもゆきの唇、柔らかかったな。夢の中の感触と同じだった。あれってやっぱり?
「あら、赤くなっちゃって。そんなにゆきとのキスがよかったのかしら?」
うるせー! ニヤニヤすんな!
「次はわたしが貰う」
「あらあら、年齢順で言えば次はわたしですよ」
「そんなこと言ったらわたしが最後になっちゃうじゃんか!」
キスの話で盛り上がる妹たち。さっきまであんなに泣いてたくせにもう復活してやがんのか。
「あーもう! その話は後だあと。そんなことよりもっと大事なことがあるだろうが」
「ゆきちゃんの唇の感触?」
「そこから離れろよ! まったく。とにかく、さっき話した通りゆきは幼いころの記憶が蘇ったみたいなんだけどよ、今までにこんなことってあったのか?」
忘れていたのが蘇ったのか、考えないようにしていただけなのかが分からないから母さんに聞くしかない。
「今までにそんなことはなかったわね。正直忘れていたのか、ふりをしていただけなのかはわからないわ。あの子の性格からして忘れたふりをしていた可能性は高いと思うけどね」
「根拠は?」
「あの子、昔からわたし達に引き取られたことへ強い恩を感じて、余計な心配をかけないようにしていたでしょう。昔の記憶があるとなったらわたしもあなた達も気を回すだろうと考えたんじゃないかと思ってね」
ゆきの性格を考えれば十分に考えられる話だ。
だけど、記憶がないことでゆきと普通に接することが出来た面もあるから、一概にどっちが良かったとも言えないが。
「だけど今はそんなことが大事なんじゃないでしょ。壊れかけるくらいに取り乱す記憶が戻ってしまった以上、それをケアしてあげる方法を考えないとね。開いてしまった封印はもう閉じられないわ」
確かに母さんの言うとおりだ。
突拍子もないことを言いだす困った母だけど、こういうところはやっぱり母親なんだなと思える。
「おっぱいあげたらいいかしら?」
「それはやめとけ」
そこまで幼児退行してねーよ。
「でもさすがにもう母乳は出ないわね」
「そういう問題じゃねーよ」
せっかく見直したのにこれだもんなぁ。
「まぁどちらにしろ、わたしにできることはあんまりないわ。あの子も一応男の子だしね。前も言ったでしょう。あの子の心を溶かしてあげられるのはあなた達しかいないって」
一応とか言ってやるなよ。
でもそう言われると違うとは言えねーよな。言うつもりもねーけど。
ゆきの凍り付いた記憶と心を癒して、もう一度前を向いて生きていこうと思わせられるのはあたしらしかいねーんだ。
ソファで安らかな寝息を立てるゆきを見て、あたし達はもう一度決意を固めた。




