第169曲 初めての喧嘩
「ゆきちゃん、まだかなぁ」
リビングの窓から曇天模様の空を見つめ、つい口から漏れてしまった言葉。
あれから二日。今日はゆきちゃんが返ってくると約束した日だ。
ゆきちゃんのいない我が家はまるで明かりが消えてしまったようで、今日の天気もあいまってとても暗く感じてしまう。
お姉ちゃん達もみんなリビングにいるけど、みんな言葉少なく、何を待っているのかは聞くまでもない。
「ひより、ウロウロしてないで少し落ち着け。動物園の熊じゃねーんだから」
より姉に指摘されて気が付いたけど、そういえばさっきから座ったり立ったりを幾度となく繰り返している。
「うん、ごめんなさい」
そう言って座るけど、やっぱり心は落ち着かない。
もう一度立ち上がり、窓の外を眺める。より姉も今度は何も言わなかった。みんなも気持ちはおんなじだよね。
じっと空を見ていたら、窓ガラスに水滴が落ちてきた。
「あ、雨」
最初は小雨だったけど、それはやがて篠突く雨となり、視界を遮ってしまう。
静寂が漂うリビングに、激しい雨の音だけが大きく響き渡る。やけにうるさく感じてしまうのはどうしてだろう。
遠くに稲妻の光が見えた。少し遅れてゴロゴロという地響きのような音。そういえばゆきちゃんって雷も苦手なんだよね。
「駅まで迎えに行こうかな……」
「わたしも行く」
わたしのつぶやきにあか姉が答えた時、玄関の方から扉を開ける音がした。
それは雨の音にかき消され、注意していないと気づかないような音だったけど、誰も聞き逃すことはなかった。みんな即座に反応し、立ち上がって玄関へと向かう。
玄関へと続く扉を開けると、そこには今一番見たかった姿があった。愛しさで胸が締め付けられる。
肩で息をし、ずぶ濡れになっているその狂おしいまでに愛する人は、半べそをかいていた。
「雨が降ってきたら雷まで鳴り出すんだもん。怖かったよぉ」
帰ってきたらみんなでボコボコにしてやろうと言っていた。
「顔はやめとけ、ボディーにな」
より姉それってどこのスケバンですか。
だけど、まるで何年も会っていなかったかのように懐かしく感じてしまうその姿を見た瞬間、そんな気持ちはどこかへ消え失せてしまっていた。
「もう、そんなに濡れてしまって。早くシャワーを浴びてください」
かの姉がタオルで優しく頭を拭いてあげながら声をかける。
「荷物貸す」
あか姉がゆきちゃんのキャリーバッグを受け取り、びしょびしょになった表面を拭いてあげていた。
「ありがと。帰ってすぐでごめんだけど、まずはシャワーを浴びてくるね」
そう言って浴室へと入ってくゆきちゃん。その姿をじっと見つめたまま何も言わないより姉。
今、どんなことを考えているんだろ。
その表情は怒りでも悲しみでもなく、ただ無表情に眺めているだけ。
ゆきちゃんがお風呂に入っている間、わたし達は示し合わせたわけでもなく食卓に座り、ただ黙って待ち続けていた。
沈黙が支配する空間の中、まだ雨の音だけが聞こえている。
さっきよりも雨脚は強くなっているのにうるさく感じない。ゆきちゃんがいるというだけで、ささくれだった心が落ち着いてしまったということなんだろう。
どれくらい時間が経ったんだろう。一瞬のような気もするし、とても長かったような気もする。それは怖さと愛しさの表れなんだろうか。
リビングのドアが開き、待ち焦がれていた存在が姿を見せる。
「ふぃ~。ほんと、ひどい目にあったよ」
いつもと何も変わらない姿で、いつも通りの声を出すゆきちゃん。その姿からは、まるで先日の話が夢だったんじゃないだろうかと錯覚させられる。
ただ一人、より姉だけが立ち上がり、ゆきちゃんへと近づいていった。
「あ、より姉……その、ごめんな……」
バチーン!
ゆきちゃんが言い終わる前に、頬を叩く大きな音が響いていた。
「バカやろ」
短い一言だけを放ち、そのままゆきちゃんを抱きしめるより姉。そのまま動かずにじっとしたままのゆきちゃん。
「うん、ごめんなさい」
「そうじゃねーだろ。ただいまだろうが」
「うん、より姉、ただいま」
その言葉でようやくゆきちゃんを離し、微笑みかけるより姉。
「みんなも、ただいま」
笑顔で挨拶をするゆきちゃん。
「おかえりなさい」
「おかえり」
「おかえり、ゆきちゃん」
みんな立ち上がり、四人でゆきちゃんの手を握った。ずっと触れたかったその手を握り、大きな安心感に包まれる。
「どうしてよけなかったんだ。ゆきなら簡単だっただろう」
より姉が問い掛ける。本当はグーパンだと言っていたのにビンタで済ませたのはより姉の優しさだろうか。
「受けてみたい掌も、あるんだよ」
まだ赤い頬を押さえて苦笑いをしている。それで済んでよかったね。
「でも痛かったぁ。せっかくほとぼりを冷まそうと思って旅行に行ったのに。ここは怒る気もなくして優しくしてくれる場面じゃないの?」
「ふざけんな。むしろビンタだけで済ませてもらった事を感謝しやがれ」
「そうですよ。本当は袋叩きにされても文句は言えないんですから」
「はい、ごめんなさい」
より姉とかの姉に怒られてしゅんとしてしまうゆきちゃん。可愛いと思ってしまうわたしは甘いのかな。
「でもよかった。その様子ではみんな納得してくれたみたいだね」
安堵した様子でそんなことを言うゆきちゃん。
「何言ってんだ。もう一発食らいたいのか?」
もう一度手を振り上げるより姉。今度は拳を握りしめている。
「げんこつはやめて! 痛いのはヤダよ! え、え? どういうこと?」
頭を押さえて困惑してるけど、今のはゆきちゃんが悪いよね。
「納得なんてするわけない。生きろ」
相変わらず単刀直入なあか姉。
そんなこといきなり言われても意味がわかんないよ。ほら、きょとんとしちゃってるじゃん。
「みんなで話し合ったんだよ。ゆきちゃんはもう諦めちゃってるけど、もう一度なんとか生きる気力を取り戻してもらおうって。それは奇跡を起こすようなものかもしれないけど、諦めてしまっていたら生きられるものも生きられないよ」
なんとか補足して説明したんだけど、それを聞いたゆきちゃんは悲しそうな顔をして俯いてしまった。
「そんなの……無理だよ。ずっと病院にも通って来たし、アメリカでも治療法を探した。だけど手の打ちようもなかったんだよ」
俯いたまま今までわたし達が知らなかったことを告白する。ゆきちゃんも何とかしたくて足掻いてたんだね。
「だから諦めんじゃねーって言ってんだろ。医者がなんだ。手の打ちようがないから何だってんだ。そのこととお前が生きることを諦めるのとは違うだろ」
より姉に言われて黙り込んでしまった。唇を噛んでいるのはどうしてだろう。何を悔しくてそんなことをしているの?
「だから! 無理だって! せっかく勇気を出して全部話したのにどうして分かってくれないの!? もうわたしのことなんてほっといてよ!」
顔を上げたかと思ったら大声でそんなことを言いだした。
ゆきちゃんが家族に本気で怒ったのはこれが初めてだ。今までゆきちゃんが誰かと喧嘩をしたことなんてない。
だけど、より姉の方がもっと怒っていた。今度は本気で叩いたんだろう。頬を打つ音が大きく聞こえたと思ったら、ゆきちゃんが倒れていた。
より姉はそのままのしかかり、胸倉を掴んでしまう。
「ちょっとより姉! 乱暴はやめて!」
「ダメだ! こんな身勝手な事を言われて黙ってられるか!」
「身勝手なのはどっち!? どうしようもないって言ってるのに、わたしを苦しめて楽しいの!? そんなことを言うより姉なんて嫌いだよ!」
「ゆきちゃん!」
それだけは言っちゃダメだよ!
みんながどれだけ心を痛めたかゆきちゃんなら分かるでしょ。
「コノヤロ……!」
頭に血が上ったより姉の手がまた振り上げられる。ゆきちゃんは目を閉じてその痛みに耐えようとした。
防ぐことはできるはずなのに。
だけど、より姉の手が振り下ろされることはなかった。
自分が掴んでいるゆきちゃんの胸に顔を近づけ、震えている。
より姉が泣いている……。
「なんでだよ……。頼むよ……。もう一度生きたいって、思ってくれよぉ」
ゆきちゃんは横たわったまま、誰とも目を合わせずに天井を見つめている。
何を考えているの? どうしてそこまで頑なになるの?
成り行きを見守っていたわたし達もゆきちゃんのそばに膝をつき、その体にそっと手を置いた。ゆきちゃんの鼓動が早くなっている。
緊張している? それとも何かに怯えているんだろうか。
「ゆきちゃん。依子さんの気持ちも少しは考えてあげてください。依子さんだけじゃなく、ゆきちゃんを大切に想う気持ちはみんな同じです。苦しんで欲しくなんてありません。ただ最後まで希望を捨てないで欲しいんです。諦めて、わたし達を捨てて逝ってしまうんじゃなく、最後まで戦ってはくれませんか」
かの姉の目にも涙が光っている。
「生きたいと思う気持ちは生命力。諦めては奇跡も起きない。ゆき、わたし達が支えるから」
あか姉が泣きながらゆきちゃんの服を掴む。肩口のあたりを握りしめていた。
わたしもこらえきれず、頬に伝う涙を拭うこともしないでゆきちゃんにすがりついた。
「苦しいなら抱きしめるから! 辛いなら泣いてもいいから! 死を受け入れてしまうんじゃなく、生きて幸せになってよ! もっと愛させてよ!」
四人がそれぞれ自分の想いを告げても、天井を見たまま動かない。
ねえ、何を考えてるの? ゆきちゃんの心、もっと見せて欲しいよ。




