第164曲 一人の少年の物語
文化祭も終わり、季節は冬の色が濃くなっていく。
ひよりには文化祭での涙とロシア語の意味をしつこく聞かれたけど、曖昧に誤魔化している。
そして12月に入り、気温が下がっていくのと比例して、姉妹たちの間に緊張感が走っていく。わたしの約束の事を考えているのは明らかだ。
表面上は普段通りに過ごしているけど、わたしの様子を伺っているのが見て取れる。
かくいうわたしも、その日が近づくにつれて穏やかでいられない気分になっているんだけど。
そして生徒会長選挙を目前に控えた12月のある金曜日の朝、わたしは職員室を訪れ、職員会議の真っ最中である先生方の前に立っていた。
「先生方にお願いがあります。生徒会長の最後の仕事として、今日の午後最初の授業を貸していただけないでしょうか」
わたしは深々と頭を下げた。突拍子もないことを言っているのは自覚している。
だけど、わたしが生徒会長として学園に尽くしてきたことの集大成を遂行するには、これを欠かすわけにはいかない。
当然のごとく、先生方の間には動揺が走った。中にはそんなことを認めるわけにはいかないと激高している先生もいる。
わたしは頭を下げたままもう一度お願いする。
「お願いします。わたしを三年間も生徒会長にしてくれた生徒たちへの恩返しのためにも、必要な事なんです」
口々に質問が飛んでくる。何をするつもりだ。そんなことが許されると思ってるのか。受験期間中だぞ。などなど。
受験期間なのは百も承知だ。だから全校生徒が出席しているこの日を選んだのだから。
それまで黙って事の成り行きを見守っていた校長先生が、静かに口を開いた。
「みなさん、お静かに。……それで、広沢会長。受験生が大勢いるこの大事な時期に、貴重な時間を割きたい理由というのは教えてくれないのかな」
「すみません、今は道徳の時間になるということしかお伝え出来ません。それはいただいた時間に校内放送でお伝えします。申し訳ありません」
理由も告げずに時間をよこせと言うのだから無茶苦茶だ。だけどわたしは校長先生に向き直り、もう一度深く頭を下げた。
「……承知しました。朝のホームルームで全クラスに周知してもらいましょう」
校長先生の言葉にどよめきが走る。
「いいんですか校長! 貴重な一時間を一生徒に個人的に使用させるなど聞いたことがありませんよ!」
声を上げたのは学年主任。頭が固く、以前からことあるごとにわたしのやることに反対してきた、正直苦手な先生だ。
だけど校長先生はそんな反対の言葉にもゆっくりと首を横に振って制した。
「今までの言動からして、私的な理由でこんなことを言いだすとは思えません。きっと生徒たちの事を考えての要望なんだと思われます。
今まで本校のためにそれこそ粉骨砕身、尽力してきてくれた広沢会長の労力に報いるためにも、許可を与えたいと思います。広沢会長が最後にどんなことをしてくれるのか興味もありますしね」
そう言って校長先生はニッコリと微笑んだ。今までわたしのやってきたことが、こんな形で返ってくるとは思っていなかった。
こんなありがたいことがあるだろうか。
わたしは感謝の意味を込めて、さらに深く頭を下げる。
「ありがとうございます。わたしはその放送が終わったら帰宅しますが、先生方はその内容について生徒たちと意見交換をしていただければと思います」
三年生はこの時期自由出席だけど、今日は配布物があるので午前中はみんな出てきている。この日を選んだのはそのためだ。
「なるほど。我々教師にとっても考えさせられる内容になると。分かりました。
授業のない他の教師たちも含めて、全校で広沢会長の話を聞かせていただきましょう。それでは先生方、ホームルームでの周知をお願いしますね」
こうしてわたしの願いは校長先生の鶴の一声で聞き届けていただけることになった。一部渋々といった感じは残ったけれど、内容が内容だからこればかりは仕方がない。
そしてその後のホームルームでは全てのクラスで五時限目が道徳の時間になることが告げられた。
「高校生にもなって道徳?」「ゆき会長が何か話すらしいよ」「一体何の話だろ」
いろんな憶測や質問が飛び交っているけど、わたしは何も答えず、その時になればわかるとだけ告げていた。
昼食を済ませ、わたしは放送室で待機していた。今日まで三年間、「お昼休みはウキウキリスニング」の放送を欠かしたことはなかった。
時間は違うけど、これが最後の放送だ。生徒会長としても最後の仕事。
すっかり座り慣れた椅子に腰かけ、瞑目して今までの事を振り返る。
辛かったことや悲しいこともたくさんあった。挫けそうになったこともある。だけどそれ以上にたくさんの楽しい思い出に彩られた高校生活。
わたしを慕ってくれた人、支えてくれた人、応援してくれた人、そして寄り添ってくれた人。
人。いろんな人がいて、わたしがいる。わたしひとりでは何も成すことが出来なかったに違いない。
感謝の気持ちを込めて、今日、わたしは全てを話す。
ひょっとしたら、話したことでみんなとの関係性が変わってしまうかもしれない。でも、この想いをみんなに伝えるには避けては通れない。
本当は家族へ先に話すべきなんだけど、臆病なわたしはこの後にやろうと思っていることがあるので、先にここで告白させてもらうことにした。
ごめんね、みんな。ちゃんとみんなにも説明するから許して。
いろいろと物思いにふけっているうちに、昼休みはあっという間に終わってしまった。
予鈴が鳴り、続いて五時限目の開始を告げるチャイムが鳴る。とうとうその時が来た。
緊張で少し震える手を気力で抑え、放送開始のボタンを押す。少しのノイズが走り、放送室が校内全てとつながった。
『皆さんこんにちは。生徒会長の広沢悠樹です。本日は突然の予定変更で申し訳ないですが、わたしからみなさんにお伝えすることがあります。
まずは、今日この機会を与えてくださった校長先生並びに全ての先生方にお礼を言わせていただきます。
本日はわたしのわがままをきいていただきありがとうございます。先生方の信頼を裏切らないよう努めますので、今しばらくお時間をください。
そして大切な授業時間を奪ってしまった生徒の皆さんにもお詫び申し上げます。
これから話すことは「道徳」の時間とお伝えしてありますが、わたしの話を聞くことによって皆さんの心に何かが残ることを祈ってお話させていただきます』
本題へと入る前に先生への感謝と生徒たちへの謝意を伝えた。これから大切な話をしようというのに礼を欠いてはいけない。
続きを話そうとした時、喉がカラカラになっていることに気が付いた。やっぱり緊張しているんだな。
置いてあったペットボトルの水で唇を湿らせ、続きを話していく。
『まず最初に話すのは個人的な事です。
わたしは今でこそ広沢と名乗っていますが、生まれた時は違う名字を名乗っていました。違う家庭で生まれたんです。
なので今同じ家で暮らしている家族のみんなとは血のつながりはありません。
なぜそのようなことになったかというと。……わたしはいわゆる被虐待児というやつでした。幼いころから数知れない虐待を受けて育ったそうです。
身体への暴行、言葉による罵倒、育児放棄など例を挙げれば枚挙のいとまがないほどひどかったらしいです。
らしい、と言っているのは、その記憶がわたしにはないからです。
わたしの記憶があるのはちょうど三歳の誕生日から。冷たい空気が肌を刺す、雪の日でした』
そこで一度言葉を区切った。一拍置くことで自分の気持ちを落ち着かせる。
大丈夫。
『その日、わたしは母親を何かで怒らせたのか、着の身着のままでベランダに放り出され、そのまま放置されていました。
小さなアパートの小さなベランダです。申し訳程度の小さな屋根では降りしきる雪を満足に遮ることも出来ず、体に降り積もっていく雪を払いのけていました。
しかしまだ幼児のわたしはそこまで体力があるわけでもありません。やがて寒さで手足がかじかみ、麻痺し、そのうち体が動かなくなっていきました』
そこまでを話し終え、もう一度息をついた。
話しながらもあの雪の日の光景が鮮明に思い出され、体が震えるような感覚に襲われる。生きるのに絶望しかけていたあの時の空虚な気持ちも。
正直、話すのが辛い。だけど伝えないといけない。
自分を奮い立たせるのと、頭を切り替えるためにも一度大きく深呼吸をした。
うん、大丈夫。わたしは今、生きている。




