五章 異神の島(3)
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意識の浮上と共に目を開けた。
視界に飛び込んだのは見慣れた己の部屋の天井であり、自分を心配そうに覗き込む少女の顔であった。
目を覚ましたことに喜色を浮かべる少女の顔を見返しながらある事に気がついた。
「おはよう、フユお兄ちゃん」
「うん、おはよう……」
上体を起こしながら冬峰は眉を顰めた。
彼は少女が誰かよく知っている。人見知りだが、同居している自分には懐いてくれている本家の末っ子だ。
その家族同然の少女の名前を、冬峰は呼ぶことが出来なかった。
思い出せないのだ。
なぜか少女が誰か、これまで共に過ごして来たというのに、その名前が、彼女をどう呼べばいいのか解らないのだ。
「大丈夫? 春奈お姉ちゃんがケガをしてるって言っていたけど、まだ痛いの」
目を覚ましてからその鈍痛に気がついているが、背筋を伝わる汗はそのせいではなかった。
脇腹に手を触れ、増した痛みに現実であることを確かめる。ふと頭の中で何かが弾けた。
「ああ、大丈夫だよ、夏憐ちゃん。大したことはないんだ」
「ホント? 無理しちゃダメだよ」
「しないよ」
嬉しそうに微笑んで夏憐は立ち上がった。
「ご飯の用意は出来てるから、早く食べに来てね」
「ああ、有り難う。助かるよ」
部屋を出て行く少女の背中を見送った後、冬峰は表情を曇らせる。
夏憐の名前が思い出せなかったことなど初めてなのだ。この数年間で何度、その名を呼んだことか。昨日の戦闘で頭でも打ったのだろうか。
また、昨晩からの奇妙な喪失感も尾を引いている。
あののっぺらぼうのスフィンクスに切りつけた際に生じたものであり、これについては原因は解っているのだが、その解決方法が思い当たらない。
その喪失感は、夜の校舎にて奇妙な仮面を被った大男の首を刎ねた際にも味わったものだが、それはこれ程酷いものでは無かったので、別に気にもせずに過ごしていた。
今は心臓に上に穴の開いている感覚があるのだ。
あの昨晩の一刀は、冬峰の全霊を込めた一撃であった。そうしなければ、あのスフィンクスとその向こうに居る存在に一矢報いることは出来ない。そう判断したからだ。
その一撃の影響がこの喪失感だろう。それが自分の記憶にも悪影響を与えているのだろうか。
冬峰は布団を片づけた。昨日は着の身着のままで眠ってしまったのだろう、身につけた黒のカッターシャツとスラックスは所々が破け汚れている。
取り敢えずシャワーでも浴びて身支度を整えてから従姉妹達と会うことにしよう。
冬峰は着替えの黒カッターシャツと同色のスラックスをタンスから取り出そうとして手を止めた。
「……何番目の引き出しに仕舞ったっけな」
上から順番に引き出しを開けて、二番目の引き出しに納められているのを見つけて手に取る。
何かが自分の身に起こっている。何か重大な事、最も大切な事を忘れている様で、それが何なのか冬峰は今朝からの記憶を探ってみる。
「……あ」
何時もは同じ夢を見ている。
何時もはその夢は最後に誰かと話して、それを覚えていたはずだ。だが今日はそれが誰なのか、そして何を言ったのか。それが思い出せない。
それを自覚して冬峰は一人立ち尽くす。
三十分後、風呂からあがり着替えを済ませた冬峰が居間に顔を出すと、座テーブルには春奈と紅葉、夏憐の三姉妹の他に一人、お邪魔虫が鎮座しており冬峰の片眉をわずかばかり跳ね上げた。
それは先程の冬峰同様、昨晩から着の身着のまま薄汚れ皺の入ったカッターシャツと折り目の無くなったスラックス姿で朝食を掻き込んでいる。
朝食は御飯に常備菜の金平牛蒡、白菜の御浸しと梅干、豆腐と玉葱の味噌汁が用意されていた。
フェランは味噌汁を啜った後、小皿に乗せた梅干をひょいっと口腔内に放り込んだ。
バタンと仰向けに畳の上に倒れ込む。
「すすすすすす」
口を尖らせて畳の上で手足をじたばたさせてもだえ苦しむおっさんを、冬峰は溜息を吐いて見下ろした。
「何やってんだ、おっさん」
「ハオ、お早う」
昨晩の死闘など無かったかのように寝転んだまま挨拶してくるフェランを呆れたような眼で見下ろしつつ、冬峰は座テーブルの前に腰を下ろす。
「お早う、春奈さん、紅葉」
「お早う御座います」
「オハヨー」
春奈は挨拶を返した後、心配そうに眉を寄せて冬峰を見やった。
「冬峰さん。もう起きていいのですか? 昨晩は帰って来るなりお二人共、三和土で崩れ落ちるように眠ってしまわれたのですが」
冬峰の記憶は門をくぐるところで途切れており、それが彼の行動限界であったのだろう。むしろ庭先で倒れ込まなかっただけでも僥倖といえよう。
その冬峰を春奈達は三人掛かりで彼の部屋まで運んだのだが、彼の衣服が昨晩同様なのは、脱がせようとした年長さんを下の二人が止めた結果である。
ちなみにフェランは、朝の三和土の冷たさで目を覚ました。
「うん、俺は大丈夫だから心配しないで」
「でも……」
春奈が心配しているのは冬峰が負傷しているのをフェランから聞き出したからなのだが、それ以上に千秋を奪われたことにより冬峰が自責の念に囚われていないか、それが心配だった。
「千秋さんの件は、もう私達に任せて……」
「その件は後で話すよ。紅葉と夏憐ちゃんもいるし」
「……はい」
冬峰は味噌汁の碗を手に取りひと口啜る。おやっと何かに気がついたように眉が動いた。
「うん、コレ俺の作る味噌汁の味だね。夏憐ちゃんが作ったのか?」
冬峰の隣に腰掛けた黒髪の少女が控えめにうなづく。
「まだ料理を初めてそんなに日が経っていないけど、筋が良いのかな?」
「そ、そんな、私なんて。まだまだです」
恥ずかしそうにしてうつむく夏憐の正面で、春奈は腰に手を当てて平均程度の胸を張った。
「そうです、私の妹は凄いんです」
えっへん。
「……何でハル姉が偉そうなの?」
座テーブルの上で頬杖をついて姉を見上げる紅葉の瞳には、姉を敬うような光は一切浮かんでいなかった。
「というか、ハル姉も年頃なんだから料理すれば」
「う……」
とたんに肩をすくめる駄目姉貴。
春奈は学校の調理実習以外で料理したことが無い。いままで食事の用意は自分以外の誰かが用意してくれたので、別に覚える必要が無かった。わざわざ危険を冒してまで、美味しく無い料理を作って食べる必要はないというのが春奈の持論であり、言い訳であった。
いきなり畳の上で死体になっていたフェランがが身を起こし、期待に満ちた瞳を春奈に向ける。
「え、何だ? このお姉さんが朝食を作ってくれるのか? いや、有難いな」
「作りませんよ。早起きは苦手なんです」
春奈は顔の前で手を左右に振ってフェランの希望を粉砕した。その手を握り拳に変えて、立ち上がる。
「いいんです。朝昼晩ご飯とデザートは優しい旦那様が用意してくれるんです」
「うわっ、開き直っちゃったよ。この駄目姉貴」
紅葉が宙を仰いで嘆く。日頃苦労しているに違いない。
夏憐は尊敬すべき長女の言葉に首を傾げて何事か考え込んだ後、口を開いた。
「でも春奈お姉ちゃん。そんな人、誰かいるの?」
「……」
春奈機能停止。
「何なら僕が毎朝、愛情を込めたサンドイッチを作ってあげよう。それでOK?」
「私、朝食は和食が良いんです」
あっさりと切り捨てられてがくりとうなだれるフェラン。
その頃、庭先で本家の警護に当たっている青桐は、座テーブルの下に仕掛けた盗聴器から春奈達の今のやり取りを盗み聞きして、冬峰に弟子入りして和朝食マスターになることを密かに決意していた。




