五章 異神の島(1)
五章 異神の島
1
少年は一人、裏庭のベンチに腰かけていた。
他に人影は無く、少年はただ裏庭を見つめている。
それは裏庭の風景を愛でているのではなく、ただ少年の瞳にはその風景はただ映っているだけであり、何らかの感慨を抱いているようには見えない。
正直、少年にはどうでもよかったのである。
血と硝煙にまみれた戦場から、一見平和な日本に帰ってきたことも。
顔を合わせる度に、なぜ、あなただけ帰って来たのとなじる御門家の親族の事も。
蔑むように【廃棄物】と呼び、関わり合いを避ける分家の事も。
なぜか笑顔を向けてくる、己を戦場から連れ出した従姉の事も。
その従姉の背に隠れて怯えた表情で見上げてくるその妹達の事も。
昔、共に遊んだと再会した時に泣いてくれた二人の幼馴染の事も。
その全てに対して何の感情も湧かず、ただそんなものだと思っていた。
戦場に置いてきてしまった従兄弟達やその友達に関しては、不意に思い出すと何かを叫びそうになるがそれが何なのか考えても解らなかった。
「時間が経てば、少しずつ良くなるよ」
従姉はそう言って励ましてくれたが、なぜか少年の己の中のぽっかりと空いた欠けた何かは日が経つほどに大きくなり、己自身の事すら考えれなくなってきたのだ。
このまま壊れて消えていくのが自分の運命なんだなと、何となく解って来たので余計に全てがどうでもよくなった。
少年は宙を見上げる。
小春日和の空は青く、わずかばかりの雲がゆっくりとした速度で漂い平和な日常の風景を作り上げていた。
三日前、少年が歩いていると背後から車に撥ねられた。
そのまま車は止まることは無く走り去り、通りかかった人の連絡で救急車がやって来たが救急隊員の一人は少年を見るなり「見捨てておけよ」と運転手に言ったのを彼は聞き逃さなかった。
今頃、従姉とそれを補助する当主代行の間で、自分の処遇について議論されているのだろう、
従姉は自分と共に暮らしたいのだろうが、当主代行は本家の地下室でなく分家に隔離することを望んでいる。
それすらも少年にとってはどうでもよい。むしろ隔離された方が色々と煩わしくなくて良いとさえ思っている。
ああ、そうしよう。さっさとここを離れてどこか遠くへ行こう。独りで生きていくことは苦痛では無く、戦場で何とかする術を学んでいるからどうにかなるのではないか。
少年はそう考え、春の庭から立ち去ろうとベンチから腰を上げようとした。
草を踏みしめる音が聞こえてそちらへ視線を向ける。
裏庭の小道からベージュのハイネックシャツとデニムのスカートにピンクのパーカーを羽織った少女が顔を覗かせた。うつむき加減で何か考え事をしていたらしく、ベンチのすぐ手前でようやく少年の存在に気がつき、ぎょっと猫目に煮た両眼を見開き驚いた顔を上げた。
「あ……」
少女は少年の姿を目にして息を呑んだ。
少年は右手を怪我しているのか肩から三角巾で吊って固定しており、頭に巻かれた包帯と左目を覆う眼帯が痛々しくあった。
「……」
「……」
少年は何の感情も灯っていない硝子の瞳を少女に向け、少女は困惑の視線を少年に向ける。
少女は少年の視線に耐えきれなくなったのか、視線を外して左右を見回し助けを求めるような表情をしたが、裏庭には自分と少年以外に誰もいないことを知ってまたうつむいた。
「……」
少年は少女に対して興味を失い視線を外した。危険はないと判断したのだ。
少女は少年が気になるらしく数度、少年へ視線を向けていた。視線を宙に彷徨わせてため息を吐いた。
「あ、その、誰かを待っているのかな?」
「……」
沈黙に耐えられなかったのか、少女が話し掛けて来たので少年は再び少女を視界におさめた。機械の作動音でも聞こえそうな動きに少女がびくりと肩をすくめる。
改めて少年は少女を観察する。武器の類は持っておらず、華奢な身体は戦う者とは思えない。
少女は艶のある癖毛のショートカットで、整ったな顔を赤い縁の眼鏡が彩っている。背はそれほど高くは無く平均的であろう。
「えっと」
無表情に見返す少年に気圧されたのか、少女は一歩だけ後退った。その場に居づらい雰囲気に少女は踵を返す。
「それじゃあ……」
用は無いとその場を立ち去ろうとして少女は肩ごしに少年を顧みる。
一人ベンチに腰かける少年。
少女にはその姿がひどく孤独で脆く感じられた。だから振り返りベンチの前まで歩み寄った。そうしなければならない、そう強く思った。
再度少年の視線に晒されるも、それに耐えて声をかける。
「……この家、息苦しいよね」
少女はパーカーのポケットに両手を入れて、独り言をつぶやくように話し始めた。
「普通、家は安らげる場所らしいけど此処は別。いつも緊張感が漂っているの。ここに用のある客もどこか張りつめた表情をしているの」
「……」
少年にとってどうでもいい話題なので、少年はただ聞くだけで答えを返すこともしなかった。少女もそれを必要としないようで、さらに独白を続ける。
「でも客同士は表面上は問題は無いように見えるけど、内面はお互いに問題を抱えて、相手を蹴落として成り変わろうとか、格下のくせに増長するなとか腹に一物を置いているの」
そんなことはよくあることだ。今迄自分が居た世界も、昨日は味方で今日は敵である事など日常茶飯事であった。人も獣と同じで生き残る為にはどんな事でもやってのける。そう少年は確信している。
「母はそんな一族の間を取り持ったり、逆に片方を抹消する調整を多く請け負っていた。だからかもしれないけど、私は母の笑顔や泣き顔を見た事が無いの」
笑顔や泣き顔など自分も浮かべたことは無い。いったいどうやって浮かべればいいのか、どんな時にそれをすればいいのか少年には解らなかったからだ。
「それに、母は私の存在を疎ましく思っているかもしれないの。お前には期待していない、私は母からそんな視線を向けられたことしかない。私の気のせいかもしれないけど」
少年は少女の言葉にわずかながら興味を引かれた。
そうか、大人という者は子供を疎ましく思う者なのだと少年は思った。ならば、外国での命のやり取りや、帰って来てからの大人達が自分に向けた嫌悪の表情も理解出来る。
「だから私にとって家の中に居る事も苦しいの。時々本当に息が詰まるんじゃないか、そんなに苦しいの」
少女はその時を思い出したのか、胸の前を押さえてうつむいた。
苦しいのか? まあ、息が出来なくなったら苦しいだろう。少年は納得する。ただ、一人で呼吸を止めて死んでいく器用な奴だと感心した。
「だから私にとって、この執事の時春が手入れしてくれる裏庭が唯一安らげる場所なの。ここはあまり人は来ないし、春夏秋冬いろいろな姿を見せてくれて飽きないから」
少女の言葉に少年は、彼女が何故ここに居るのか合点がいった。つまり、
「それは、俺にこのベンチから立ち去れってことかな」
「違うわよ、馬鹿」
馬鹿ってなんだ?
「私はここはいい場所だから気が済むまで居ればいいって、そう言いたかったの」
少女は少年の前に立って前屈みになり人差し指を少年の眼前に突き付けた。
「そんな、自分には何もないって感じの無表情でいたから。落ち着くまでここに居たら」
いや、本当に何もないんだから別にいいじゃないか。少年は少女をおかしな奴だと認識した。面倒臭くなってベンチから腰を上げる。
「どこへ行くの?」
「ここを出て行く」
少女は少年の答えに目を丸くした。




