四章 黒衣の魔紳士(22)
スフィンクスまで残り三メートルを切った位置で冬峰は地面を蹴って跳躍、長脇差を頭上に構えて斬撃の体勢を取る。
だが、スフィンクスも冬峰の攻撃は予想済みだったのか、本来顔の有るべき場所に開いた大穴から白く輝く光球が発射された。
それは空中で避ける事の出来ない冬峰と接触して、彼の身を一瞬の内に青白い炎に包みこんだ。
長脇差を振り上げたまま青白い炎を上げて落下する冬峰の姿にフェランは目を閉じて顔を背け、ナイ神父はその笑みをますます深いものとする。
しかし、その笑みは強張り目には驚愕の色が浮かんだ。
炎に包まれ地面に崩れ落ちると見えた少年が地面に足を付けた瞬間に、何事も無かったように炎が消え失せて長脇差を一閃したのだった。
スフィンクスの右前足が半ばまで切り裂かれる。
「!」
今度は冬峰が驚き背後へ跳び退いた。
スフィンクスの切り裂かれた右前足を黒い煙のような何かが吹き上がり、一瞬の内にその傷を埋めて塞いでしまったのだ。
「やっぱり」
冬峰は己の斬撃が無効化されることに予想をしていたのか、さほど衝撃を受けた風も無く右足を前に出して膝を曲げ、相手に対して半身で中段に長脇差を構える向身晴眼、新陰流の青岸の構えでスフィンクスに相対した。
「なるほど、我々の攻撃を無効化する方法を君は身につけているのか。しかし、君にそんな加護が与えられた形跡は見られないんだがね」
ナイ神父は顎先に手を掛け、高難度の数式を解くかのように眉を寄せる。
その仕草は妙に人間臭く、彼がフェランの指摘した様な【K】と同等の危険な存在とは一見しただけでは解らないであろう。
「あんたこそ意地が悪いだろう。いくら攻撃してもあんたは痛くも痒くも、いや、少しは堪えるだろうが無視できる程度のダメージだろう。そりゃそうさ、あんたはここに居ないからな」
ナイ神父はほう、と息を漏らして少年を見返した。出来の悪い生徒がやっと答えを見つけた事を喜ぶかのように深くうなずく。
「あんたはスピーカーか操り人形みたいなものだ。あんたの本体は遥か遠くの別の場所で、俺達を意地の悪い笑みを浮かべながら見物してるんだろ」
冬峰はいったん言葉を切って黒衣の紳士の反応を窺った。
「正解だ。よく看破したものだ。いつ気づいたのかね」
「あんたの影に呑まれて目を覚ました時さ。影の中にも化物が数匹いたけど、ひときわ強い気配が暗闇の向こう側から吹きつけて来たからな」
「なら解るはずだ。君が私をいくら攻撃しようとも、私自身は何の痛痒も感じない事を。それとも君は私に、その一刀を届かせることが出来るのかね」
「出来る」
「ほう」
短い冬峰の答えにナイ神父の瞳が赤く輝く。ただ激昂する訳でもなく、面白そうに口角を僅かに吊り上げているのが彼の内心を物語っていた。
冬峰の答が戦いの再開となったのか、スフィンクスの前足が一歩踏み出される。
冬峰は長脇差の剣先を上に向けて柄を顔の左横まで上げた。柳生新陰流の【霞太刀】の構えだ。
冬峰は目を閉じて心を鎮める様に己の内側へ意識を向ける。
そしてその心臓の上にある黒く深い孔に集中した。
その穴は彼が物心ついてからずっとそこに存在していた。
幼い彼はいつも自分がその中に引っ張り込まれるのではないかと非常に恐れており、実際にその穴に引き込まれるような感覚を覚えると、今自分は誰なのか、自分の目の前にいる人は何なのか、自分は昨日はどうだったのか、それらが思い出せなくなっていた。
そして笑い方とか悲しみ方とか痛み方とかそういったものがどんどん希薄になっていく。
何か大切だったかもしれないものがどんどんその孔に消えていく。
今、冬峰が意識を繋いでいるのはそんな己の内にある孔だ。ぐらりと脱力感に苛まれ膝を屈するのを堪えて更に剣先を上げる。
剣先を天を突くような高く掲げ、柄尻を握った左拳を右前腕に触れさせる構え。薬丸自顕流【右蜻蛉の構え】に変化させた。
冬峰はその高々と上げた剣先から己の足先まで、己が一本の剣となる様に意識を集中させる。自分の胸に開いた孔から広がる喪失感もそれを伝う様に剣先まで届く。
それは巨大な手で己の意識を掴まれ、引き抜こうとされる感覚であった。
それが限界を迎える前に冬峰はスフィンクスへ跳び込んだ。
いや、跳び込んだ様に見えるスピードだが、実際には駆け込んでいるのが正しい。
【右蜻蛉の構え】の姿勢のまま己のつま先を上げて前のめりに体重を掛ける。倒れ込む身体を足先を前に滑らせて支え、またそれを繰り返す。それを驚異的な速度で繰り返し、瞬間移動の様にスフィンクスの正面に現れた。
「いえええっつ」
頭上から袈裟懸けに振り下ろされた剣筋は、フェランに空間を切り裂いたように錯覚させるほど鋭く、スフィンクスの両前足の間、胴体に斬撃を送り込んだ。
地球より遠く離れたある暗黒星雲の一か所。
そこは光すら届かぬ漆黒の闇の中、ある存在が咆哮を上げていた。
その存在は三つに分かれた燃えるような光を放つ目と巨大な翼を持った不定形に形を変える黒い影であり、その周囲を同じく不定形に形を変えるものが、蠢く度に調律の誤ったフルートの奏でるような音を立てて衛星の様に回転し続けている。
その存在は何十億年以上、この場所でこの狂ったフルートの音色を聴き続けており、その存在自体でも気がつかない退屈というものを内側に溜め込んでいた。
存在の分身ともいえる千以上の端末の拾う情報も、殆どがその存在を崇め奉る類のものであり、彼の怠惰を終わらせる様な興味を引くものなど絶えて久しかった。
今この瞬間までは、そうであった。
前触れも無く不死に近い彼の肉体を衝撃が通り抜けた。それは彼の肉体をわずかに傷つけたに過ぎないが、それ以上にその存在の生命力を焼けた火鉢を押しつけられた氷の様に急激に奪い去った。本来、彼の不定型な肉体を傷つけるものなど皆無に近く、仮に傷つけられたにしても瞬時に塞がるものである。
しかし、今味わった衝撃によって生じた裂け目は一向に塞がる気配も無く、その衝撃を受けた端末は消滅と、その他多くの端末へダメージを転移していた。
その事実は怠惰に微睡んでいた存在の意識にわずかな苛立ちと、それを遥かに上回るその衝撃を与えた者への好奇心を浮かび上がらせていく。
吠えた。
歓喜に震え吠える。
その咆哮は従者の狂ったフルートの音色を打消し、暗黒の宇宙にてその声が聞き取れるもの達に畏怖と歓喜を与え続けた。




