四章 黒衣の魔紳士(21)
「さあ、君はどのように絶望してこの世を呪うのか。それを見せ――」
それはフェランはおろか、ナイ神父すら予想だにしなかった事だろう。その証拠に彼は不思議そうにそれを見下ろした。
己の腹部から突き出た、鈍い光を放つ曲線を描いた刀身を。
すっと何の抵抗も無く刀身は再びナイ神父の体内に没した後、長く伸びたナイ神父の影から現れたのは人の腕だった。
その黒いカッターシャツに同色のジャケットを纏ったその腕の持ち主をフェランは知っている。
その腕は何事も無かったかのように地面に手をつくや、よっという掛け声とともに力が加わり地面から人間の上半身が現われる。
フェランは奇術のようにナイ神父の影から抜け出してくる人影を、ただ呆然と眺める事しか出来なかった。すでにこの人物は【K】と戦い続けて来た男にとっても理解の範疇を超えていたのである。
その人物は片足を地面について勢いをつけて全身を地上へ持ち上げた。右手に握られた長脇差と背負われたその鞘、ところどころ髪の跳ね上がった癖毛の少年は状況を理解しようとでもするように辺りを見回す。
その視線は、彼が地上へ抜け出すと同時によろめいた黒衣の紳士を捉えて止まった。
「御門 冬峰」
初めてフェランはその名をフルネームで呼んだ。その声にはわずかな畏怖の響きが含まれる。
その声に冬峰はフェランの存在に気がついたように振り返った。
「やあ、おっさん。無事だったか」
その屈託のない物言いに、フェランも相好を崩して苦笑を浮かべる。
「いや、おじさんは、今、絶体絶命なんだ。つまり、君も絶体絶命なんだよ」
「……」
「……」
冬峰は、はあ~と面倒臭そうに溜息を吐いて頭を掻く。
「結構、ややこしい状況ってことだな。で、この歓楽街の夜の帝王っぽい此奴は何者なんだ?」
「……そいつは一応、聖職者なんだが」
少年の一言につっこむフェランだったが、再び動き出した眼前の危機、影鬼の存在に表情を引き締めた。
「気をつけろ。此奴等に銃は通じなかった」
一匹の影鬼が素早く冬峰の足元に走りより、大口を開けて鋭い牙を見せつける。それを冬峰は無造作に片手で長脇差を振り下ろす。
長脇差の刃は何の抵抗も無く影鬼の頭頂から股間まで通り抜け、冬峰の手に手ごたえを感じさせなかった。
「無駄な事は止めて、今は逃げるのが……」
フェランは言葉を止めて目を見張った。
影鬼の厚みの無い身体が刃の通り抜けた線に沿ってまくれ上がり、ぺらりと左右に分かれたのだ。
「ふむ」
ナイ神父はその光景を顎先に指を当てて真剣な面持ちで眺めている。
己の影の牢獄を強引に切り裂き抜け出した少年に少し興味が湧いた。
ナイ神父は黒い手袋をはめたまま器用に指を鳴らす。いちいち貴公子然とした仕草が様になるのがフェランにとって何とも腹ただしい。
それを合図と取ったのか、残り五体の影鬼が冬峰へ襲いかかる。
ある者は跳躍して頭上から、またある者は地面すれすれに這い寄り足下から、ある者は通り過ぎた後に反転して背後から、影鬼はわずかにタイミングをずらして冬峰に牙をむいた。
しかし影鬼に覆い隠されようとする冬峰の周囲に奔った銀光は、的確に影鬼の身体を捉え、通り過ぎて行く。
影鬼が寸断されて無数の黒い紙切れの様に舞う中、冬峰は長脇差を右脇に構えて黒衣の紳士を見据える。
乾いた布を打つ音が公園に響いた。ナイ神父が両掌を打ち合わせて冬峰の視線へ笑みを返す。
「見事。神速の太刀捌きを見るのは何年ぶりかな」
この少年、なかなかの剣の腕を持っている。しかし、過去に相対した英雄のような段階までは達していない。ならばその剣に影鬼を葬るような神秘が隠されているかとナイ神父はその長脇差を注視したが、どう見ても自分たちの脅威となる刀ではなかった。
「となると」
ナイ神父は冬峰の内側まで覗くように目を細めた。肉体的には只の人間。年齢相応の体格で人より多少鍛えられている様だが、あくまで人の範疇に留まっている。
だが、彼は影の牢獄を破り、影鬼を葬り去る偉業を成し遂げた。
「さて少年。影鬼を葬ったのは大した腕と褒めておこう。しかし影鬼程度でこの危機を脱したとは思わんことだ」
ナイ神父の足元の影から巨大な鳥の翼が生えてきた。それは二、三度羽搏くとそれに応えるように犬と思われる前足が同じようにナイ神父の足元から伸び上がり、公園の地面を踏みしめ鋭い爪で引っ掻いた。
次に現れたのは眩い光を放つ黄金の王冠で、それは三重冠と呼ばれる特殊なものだ。そして王冠の下にある顔は奇妙な事に黒い絵の具で塗り潰されたかのように、眼も口も鼻も無くただ光すら飲み込むような暗黒の渦巻く洞窟が口を開けていた。
その奇妙な頭部に続き犬、いやこの形状はアフリカのサバンナの掃除屋であるハイエナの胴体が浮上する。
五メートル程の全身が現われ、その禍々しさと神々しさの入り混じった威厳をもつ姿を見たフェランは何かを思い出したかのようにつぶやくのだった。
「鋭く尖った鉤爪に禿鷹の翼、ハイエナの胴体を持った三重冠の王冠を被った貌の無いスフィンクス。教授に聞いたぞ。古代エジプトのネフレン・カの治世に現れた異形の神。その正体は這い寄る混沌!」
フェランの指摘にナイ神父の笑みは深く歪なものへと変化する。ようやく気づいたかと、不出来な学生を見下ろす教授のような笑みでフェランと冬峰を嘲弄した。
「無貌の神、ナイアルラトホテップ!」
無貌のスフィンクスの羽搏きで巻き起こる突風に、フェランと冬峰は両腕で顔を庇いしゃがみ込んだ。
そのスフィンクスの圧倒的な存在感は深き者共や不死の指導者を凌駕しており、昨晩御門家に顕現したロイガーに匹敵する。
そして、フェランにこの状況をどうこう出来る手段は無く、影鬼によってもたらされる予定だった死が別のモノにすり替わっただけに過ぎない。
そして少年は、何時もと変わらない茫洋とした面持ちで眼前の脅威をぽけっと眺めている。
「大袈裟だな、これ」
冬峰のつぶやきにフェランは大いに同意したかったのだが、それどころではない事態が起こりつつあった。
異形のスフインクスの翼から数枚の羽根が抜けて宙に浮かんだ。その羽根は紫色の光を纏って根元を冬峰に向ける。
「おっさんは下がってろ。巻き込まれるぞ」
「わ、解った」
言い終らぬうちに羽根は冬峰に向かって銃弾をも凌ぐ速度で、その肉体を穿つべく飛来した。
空気のはためく音を残して姿を消した冬峰の立っていた地面に、数枚の羽が突き刺さる。
「あ」
小規模な爆発に巻き込まれ背後へ吹き飛ばされたフェランだった。冬峰の指示通り彼から距離をとっていなければ確実に命を失っていたであろう。
冬峰は短距離ランナーすら凌駕する速度で公園の遊歩道を回り込んで、飛来し続ける羽根から逃れていた。
機関銃から放たれる弾丸の様に引っ切り無しに襲い掛かる羽根は、冬峰の背後に紫色の爆炎を起こし続けて、その光景は炎を纏った竜に冬峰が追われているようにも見える。
冬峰が疾走する方向をスフィンクスに向かって転じた瞬間、一枚の羽がその身に接触するかのように見えたが、長脇差に一閃され冬峰が通り過ぎた後に爆散した。




