四章 黒衣の魔紳士(11)
「行くか」
力強いクロールで岸に向かう男の背中が不意に水中へ潜った。潜水でもしているのだろうかと背中の消えた水面を眺めていると、水面に水中から浮き上がった色彩が花のように広がりつつあった。
彼岸花のような鮮やかな赤。
「冬峰!」
「解っている。俺から離れるな」
冬峰は立ち泳ぎしながら背中の長脇差を回して左腰に持っていった。その柄に右手を掛けたまま辺りを見回す。
ソロモン機関の兵士達もその光景を目にしたのか、AK103を構えて緊張した面持ちで視線を巡らした。
川のほぼ中央にいた兵士の背後に水中から巨大な魚影らしきものが素早く浮き上がり、波飛沫を上げて空中で身をくねらせる。二メートルを超える緑色の巨体と大きく開かれた赤い口腔が振り返った兵士の見た最後の光景だった。
それは兵士の頭に齧りついたまま水中へ引きずり込むように潜水する。あまりの早業にそれが何なのか目にした兵士はほんのわずかだった。
飛沫が治まるより早く、冬峰や兵士を取り囲むように同じような魚影が浮かび上がり、円を描くように旋回する。
兵士達は申し合わせたかのように冬峰と千秋を中心に、守るように背を向けて取り囲んだ。少しづつ岸に向かって泳いでいるが、その速度に合わせて魚影も岸に近づいていく。
「くっ」
しびれを切らしたのか、兵士の一人が魚影に向かってAK103の引き金を引くが、水中の魚影はそれを合図と取ったのか、いっせいに冬峰と兵士に向かって突進してきた。
浮上するその禍々しい緑色の巨体を目にした冬峰は、それが雑木林や深夜の校舎で出くわした馴染の相手であることに気が付いた。
「気をつけろ、深き者共だ!」
フェランの叫びはこの状態で最も遭遇したくない相手だからか。その半魚人めいた風貌のとおり、陸上以上に素早い動きで兵士達に肉薄する。
冬峰はその様子に餌に群がる庭園の鯉を連想したが、危険度はその比ではない。
水中の彼等の速度は水棲生物のそれであり、兵士達の火器から放たれる弾丸はむなしく水面を叩くか、水中の彼等に当たるも川の水の抵抗と深き者共の全身を覆う固い緑色の鱗のせいで、致命傷を与えられないでいた。
水中から鋭い鉤爪と水かきのついた腕が突き出され、冬峰の前方で制圧射撃を続ける兵士の傍らを魚雷の様な速度で通り抜け様に勢い良く振られる。
空中に血の花が咲き、頭部を失った哀れな兵士は水中に沈み込んだ。その亡骸を数匹の深き者共が食らいつき引き千切り咀嚼する。それはピラニアの群れに喰いつかれるより、ハイエナに囲まれ蹂躙される光景に似ていた。
「うっ」
千秋が口元を手で覆い吐き気を堪える。その分、川岸に逃れようとする冬峰達の動きが鈍ってしまう。
「千秋」
振り返った冬峰の視界の片隅に、こちらへ急速に大きくなって近づいて来る魚影が入り込む。
鞘奔る長脇差。だが遅い。
ぼっと冬峰の脇腹から血が水中に広がる。薄く脇腹の肉を削ぐだけで済んだのは、水の抵抗で抜刀の遅れた冬峰が咄嗟に身を引いたからだ。それでなければ彼は【深き者共】の鋭い鉤爪に腹を抉られて絶命していたであろう。
「くっ」
珍しく冬峰の顔に苦痛が浮かぶ。
「千秋、先に逃げろ。おっさんから渡された石がある限り、千秋に此奴等は手出し出来ない」
「駄目なの」
千秋は血の気が引き人形のように白くなりつつある顔に絶望の色を浮かべ、目に涙を溜めて首を振った。
「さっき、列車の中で落として、もう無いの」
「……」
もうどうしようもないと諦めたのか、涙を流す千秋の手を冬峰は掴んで引き寄せる。驚いて目を見開く千秋に一言一言言い聞かせるように口を開いた。
「千秋、諦めちゃ駄目だ。千秋は俺が空っぽだった時に引き上げてくれたじゃないか。この程度で千秋は負けはしない。絶対に」
「何を、言っているの? 私は強くないよ」
彼等の背後で、水中での連射によるものか噛み込んだ薬莢を排出孔から抜こうとした兵士が背後から首筋をかみ砕かれて絶命する。別の兵士は腹から背中まで鋭い爪で貫かれて足をバタつかせながらもがき苦しんでいる。
一方的な殺戮劇の中、少年は守るべき少女を背中に庇い、水中から襲い掛かろうとする【深き者共】を迎え撃とうとしている。千秋はその背中に、何故、と問い掛ける。
何故、そこまで守り抜こうとするのか。
再び冬峰に向かって、水中から【深き者共】の姿が浮かび上がる。
今度は三匹が並んで浮上してくると、冬峰達の二メートル程手前で二手に分かれた。二匹が冬峰に襲い掛かり、残り一匹は背後へ回り込む。
「千秋、気をつけろ」
振り返る余裕も無く、冬峰は振り上げた長脇差を正面から襲い掛かって来た一匹の頭部へ振り下ろす。
鈍い音と共に振り下ろした姿勢のまま後方へ押しやられる。
水中で足が地についていない為、足腰の踏ん張りが効かず力を込めた斬撃が放てない。また【深き者共】の体表を覆う鱗はフェランが深夜の高校で述べたように固く、この中途半端な体勢では【深き者共】に致命傷すら与えられない。
体勢を立て直そうとした冬峰の右横から、もう一匹の【深き者共】が勢いを殺さずにその巨躯を冬峰に叩きつける。
冬峰は己のあばら骨が、みしり、と音を立ててたわみ限界を超えた事を感じた。
高々と宙に浮いた後、水面に叩きつけられて水中に没する。
揺らぐ視界の中、回り込んだ一匹が千秋の腰を抱えて水面を滑るように泳ぎ去る光景を眼にした。
千秋が何かを叫び沈み込む冬峰に向かって手を伸ばしている。
どんどん小さくなっていくその姿に向かって冬峰は手を伸ばす。無駄と知っていても伸ばして掴もうとする。
叫んだ口腔に川の水が入り込み、咳き込みながら意識を覚醒させた。
冬峰は岸に向かってゆっくりと泳ぎ始めた。あばら骨が何本か折れたのか、己の両腕が旋回する度、肺に息を吸い込む度に激痛が奔って思考をもっていく。
幸いと言って良いのか、冬峰は川岸に向かって弾き飛ばされたので己が泳ぐより早く、幾分か距離が稼げた。
指先に力が入らなくなり、右手の長脇差を手放しそうになった時、不意に川底が見えた。そのまま立ち上がり川底を蹴る様に歩き出す。
背後から何かが波を切って迫って来るのが、背中に当たる波で解った。数は一つ。
肩までが水面に出る。
川底の砂は柔らかく、腕の振りも水の抵抗で鈍るだろう。まだ威力を伴う斬撃を放つことは出来ない。まだ早い。
冬峰は歩く速度が鈍いのがもどかしかった。川底を踏みしめる靴底に抵抗が増す。
背後から何かが激しい水音を上げて追いすがって来る。後わずかで追いつかれる。
肘上まで水面に出る。
冬峰は振り返った。眼前には両腕を振り上げて、今にも冬峰を引き裂こうとする【深き者共】の巨体が立ちはだかっていた。
長脇差を刃を上にして手首と柄の角度は直角に握る。
【深き者共】が一歩踏み込む。
冬峰は水面を突き上げる様に刃をあげて、刃先が【深き者共】に触れると同時に切り上げへと変化させた。水面が切られるように割れ、腕の振り揚る速度が増す。
水中から現れた白光は深き者共の左胸下から右肩へ走って通り抜ける。
「水鷗流【波切の太刀・改】」
冬峰の言葉が終わると同時に【深き者共】の斬撃を受けた箇所から血が噴き出し、袈裟懸けに上半身が下方にずれ込むとうつ伏せに倒れ込んで水飛沫を上げる。
銃弾すら防ぎきる鱗に覆われた【深き者共】の身体を両断した事で力を使い果たしたのか、冬峰はふらつきながらも川辺まで歩を進めてから前のめりに倒れ伏した。
「こんな、ところで」
もう身体を動かす余力は無く、しかしかすれていく己の視界には岸を這い上がって近づいて来る一匹の【深き者共】が映っていた。
小脇にはぐっしょりと濡れたコートを羽織った男が抱えられている。フェランだ。
「千秋、を、助け……」
此処で俺は終わらなければならないのか。失血と激痛、体力の消耗に抗う術も無く、冬峰の言葉は途切れ、全身から力が抜けた。




