四章 黒衣の魔紳士(10)
その崩壊はフェラン達の搭乗した客室の車両まで及び始めていた。
急なブレーキにフェランはつんのめって危うく向かい合わせの座席に顔をぶつけそうになり、手を前について辛うじて堪えた。
千秋はお守りの石を手に持ったまま半ば眠りの園へ旅立っていたが、急停止の反動に驚いてお守りの石を手放してしまった。
隣に腰掛けた冬峰が千秋の倒れかけた身体を受け止め事なきを得たが、お守りの石は座席の下を転がり見えなくなってしまう。
「ふ、冬峰……あ、ありがとう」
千秋は受け止められ密着した身体を慌てて引き剥がしてから、上気した顔を見られたくないのかうつむいたまま礼を口にした。
「何か、あったのか?」
当の冬峰はそんなことは気にした風も無く運転車両に続くドアへ目をやり、傍らに立てかけた長脇差へ左手を伸ばした。鞘に付けられたベルトを袈裟掛けにして左脇に長脇差を固定する。
運転席のある先頭車両へ通じるドアも鋼鉄製でその扉の向こうを覗けるガラスは備えておらず、向こうが側がどうなっているのか解らない。
不意に先頭車両に通じるドアが開き、五、六人の兵士が倒れる様にフェラン達のいる客室に雪崩れ込んで来た。
「お、おい」
フェランは先頭車両と客室の境目に倒れ込んだ兵士達へ近寄ろうと足を踏み出したが、彼等の背後の光景に表情を凍りつかせて歩みを止める。
それは先頭車両がほぼ崩れており車外の風景が覗いていることに驚いたわけでもなく、装甲列車の先頭車両同様にそれを支える陸橋が塵となり崩れていくことに逃避行の失敗を悟ったわけでもない。
何時も飄々として普段から余裕を持った笑みを浮かべている彼が血の気を失った表情で固まっているのは、その崩壊しつつある先頭列車の上空に浮遊するあるものを己の視界におさめたからだ。
それは虹色に輝く球体の集まりで、その不規則に輝くそれは何故か禍々しさを感じさせた。その宙に浮く巨大な葡萄の様な何かを、フェランは身体を震わせて凝視している。
「まさかヨグ・ソトース。時空を超えて、なぜ、ここへ?」
「ヨグ・ソトース?」
冬峰がその名を繰り返すが、フェランはその虹色の球体、ヨグ・ソトースが今ここに現れた事に驚愕を隠せなかった。
彼はこれまでそのヨグ・ソトースを実際に目にしたことは無く、彼の指導者であった教授から聞き及んでいた特徴と、その所有していた書物に記された外観が、いま目にしている存在の特徴と合致したからだ。それが今迄自分が闘ってきた連中の信奉する【大いなるK】すら凌駕する恐るべし存在であることも彼は聞き及んでいた。
そんな存在が目前に脅威として立ちはだかっている。一体、この一件は、千秋達はそれほどまでに重要な存在なのか。
フェランは短い悲鳴に我に返り、倒れ伏している兵士達へ視線を戻した。
数名は体勢を立て直し客室へ逃れられたが、下敷きになっていた兵士が立ち上がる寸前に腐食していく床に追いつかれ再び体勢を崩した。軍用ブーツの靴底から茶色く変色して肉が剥がれ崩壊していく。悲鳴はそれを目にした千秋のあげたものであり、その響きが消えると共に、その哀れな兵士も仰け反るようにして宙へ跡形も無く散っていった。
「おっさん、早く逃げろ」
「おっさんではない!」
千秋の手を取って最後尾の火器車両へ走り出した冬峰を追ってフェランも駆け出した。
客室の左右に外へ出るドアは無く、その左右の窓は鉄板により補強されて開かない。最後尾の戦車砲の下に車外へ出る搭乗口があり、そこから避難するしかない。
ぐらり、と足元が傾く。
停止した装甲列車を支える陸橋も崩壊しつつあり、急がないと装甲列車の車内に閉じ込められたまま十五メートル下の千川へ死のダイブだ。フェランとしてもそんな事態は避けたい。
何事かと百十ミリ戦車砲の銃座から砲手が顔を出した。
逃げる兵士の一人が何やら早口でまくし立てるが、信じられなかったのか半信半疑といった表情で客室へ向き直り、数瞬後、青ざめた表情で銃座を下り車外へ通じる搭乗口を解放した。客席の半ばまで消失しており、最後尾の火器車両へ崩壊が及ぶのは時間の問題だった。
「橋を渡り切るのは無理そうだな」
冬峰は千秋の手を取ったまま装甲列車の車外へ出て、ほぼ中央から崩れつつある陸橋へ降り立った。思いのほか風が強くバランスを取るように前屈みになる。
「千秋は金づちじゃないよな?」
「う、うん」
千秋はレールの隙間から覗く青い千川の水面を見下ろして、恐る恐るうなずいた。
すでに無事車外へ脱出したソロモン機関の兵士達が、意を決したように橋から川面に飛び込み水しぶきを上げている。
このまま橋の上に残っていれば確実に腐食に巻き込まれて命を落とす、それは千秋にもよく解っていた。
「さあ、御嬢さん。私に掴まりたまえ」
フェランが千秋のかたわらに立ち紳士が女性をエスコートするように肩肘を突き出したが、次の瞬間、鈍い音と共に海老ぞった状態で悲鳴を上げながら落下していった。
「じゃあ行くか」
冬峰は何事も無かったように前方へ突き出した右足を下ろして、千秋に買い物にでも誘うかのように声を掛けた。
単に鈍いだけかもしれないが余裕めいた態度に千秋も苦笑してうなずく。
「冬峰」
「ん?」
「手を放さないで」
「解った」
冬峰と千秋、二人同時に宙へ飛び出して逆しまに落下していった。
冬峰に抱きかかえられた千秋は、長い様な短い様な漠然とした感覚を味わった後、頭頂から水につかるのが解った。意外と深く、一旦全身が沈み込んだ後に浮上して川面から頭を上げる。
「ぷはっつ」
冬峰が口を開けて息を吸う音がする。お互い無事のようだ。
「もう、バンジージャンプは怖くないぞ」
「二度としないからね」
千秋は冬峰の冗談とも本気とも判断できない軽口に口を尖らせて反論する。愛用の眼鏡が川底へ沈んだようで視界がぼやけて不鮮明になってしまった。
同じく橋上から飛び降りた兵士達も無事だったようで皆が川岸に向かって泳ぎ始める。
五月とはいえ信州の山々から流れる川の水は冷たく、飛び込んでからは体温を容赦なく奪っていく。
「早く上がろう、風邪を引いちまう」
平泳ぎで川岸へ向かう冬峰を追って千秋も泳ぎ始めた。川の流れは意外と早く、油断すると川下へ流されそうになる。
「フェランさんは? 重そうな荷物を持っていたけど溺れてないのかなあ」
「おっさんなら、あっち」
振り返り冬峰の指し示した方向を向くと、屈強な兵士二人に挟まれて、立ち泳ぎで運ばれるフェランの姿があった。
溺れかけたのかぐったりと項垂れたコート姿は、まるで用水路に落ちた案山子のようだ。
「……見ていて飽きないおっさんだな」
「ほんと」
冬峰と千秋は苦笑してお互いの顔を見合わせた。
千秋は胡散臭いながらも何処か人懐っこさを感じさせる自称ジャーナリストを少しは信じてもいいかと思い始めている。
冬峰と千秋の傍らにソロモン機関の兵士の一人が泳ぎ近寄って来た。マスクとヘルメットは泳ぐのに邪魔だったらしく、背負ったAK103のスリングに結わえて固定されている。
その兵士はまだ二十代の若者で、二人に無事で良かったとでも微笑みかけると川岸の少し開けた広場を指差してついて来いとでもいう様に二人に背を向けて泳ぎ始めた。




