二章 学園闘争曲(2)
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五時五〇分、冬峰はいつも通り目覚まし時計の鳴り響く前に目を覚ました。
出来ることならこの五月の暖かくなりゆく日差しの中でもう少し惰眠を貪っていたかったが、あいにくその役目はこの家の主人が担っており、彼の役目はその主人を速やかに眠りの園から連れ出すことにある。
まず彼は洗顔、着替えといったひと通りの身支度を整えた。といっても学生なので黒の学生ズボンとTシャツの上に白いカッターシャツを羽織っただけであり、そう着替えに時間は掛からない。所々跳ね上がった髪の毛は放っておくことにする。
彼の居候する御門本家は築百年以上の平屋であり、中庭を中心にコの字型に建てられている。
本当はL型だったのだが戦後離れと道場が新設された為にコの形となった。
突き出た一方には玄関、十二畳の和室が二つ並んでおり、玄関側を応接間、奥側を食堂として使用している。
突き当たりが台所と風呂場、ここから廊下が直角に曲がり、玄関に近い側から長女春奈、三女紅葉、四女夏憐の部屋が並ぶ。また直角に廊下が曲がり離れの冬峰の部屋と道場、物置となる。アルバイトや用事で帰りが遅いとき、冬峰は姉妹を起こさぬよう物置の勝手口から帰宅することが多い。
冬峰は姉妹達を起こさぬように姉妹の部屋の前を通り、台所でエプロンを身につける。黒色のシンプルなタイプで、大き目のポケットが誂えられているのが彼は気に入っていた。
ご飯は昨晩から水につけていた玄米を圧力釜で炊き、鯵の干物を弱火で炙る。
玉子焼きを焼いた後、豆腐とゴマと白味噌で葱をあえ、キャベツと人参の千切りにミニトマトを添える。
更にパンを十二枚焼き、薄玉子焼き、ハム、豆腐マヨネーズ、レタス、胡瓜を挿んで四人分のサンドイッチを作り、冷蔵庫にしまいこむ。
ここで沸いたお湯を火から外し三人姉妹を起こしに行く。彼女らが起きた頃、お茶の淹れ頃となる六〇℃まで下がっているはずだ。
端から順番に、まず春奈の部屋のドアをノックする。
「春奈さん、起きて下さい。六時二〇分ですよ」
暫く待つが大抵は返事が無く、二、三度繰り返すとようやく返事がある。
「あ~と~五~ふ~ん~」
「駄目です」
突っぱねると中から鼻を鳴らす音がして、なにやらごそごそ重いものを引きずる音がするので放っておいて次の部屋へ向かう。
隣の紅葉の部屋のドアをノックしようとすると、左の部屋、夏憐の部屋のドアが開き中から艶のある黒髪を腰まで伸ばした少女が顔を覗かせた。冬峰と視線が合い口元を綻ばせる。
「お早う、フユおにいちゃん」
「お早う。夏憐ちゃん」
冬峰も微笑んで挨拶を返す。
ただこちらは何故か気だるげで、朝の爽やかさとは程遠い。
可憐と呼ばれた少女は冬峰のそんな様子を気にした風も無くくすくすと笑い、冬峰の隣へ並んだ。
眉が隠れるぐらいの位置で切り揃えられた前髪と、動くたびに鈴の音が鳴りそうな黒髪の少女は、その見た目からご近所から「お人形さん」と呼ばれている。やや大きめの瞳と人見知りするおずおずとした話し方から、天門町商店街の小父さん達に人気が高い。
冬峰がこの御門本家に来た時、この少女は春奈の背後に隠れてなかなか冬峰と目を合わそうとしなかった。今では気兼ねなく会話も出来て、冬峰の帰りの遅いときは食事の用意もしてくれる力強い相棒となっている。
「紅葉お姉ちゃんは起きたの?」
「これから起こすところ。もう起きてると思うけどね」
再度ドアを叩こうと手を上げると、タイミングを計ったかの様にドアが開いた。
「おはよ、夏憐、フユ」
冬峰と同じく癖のある髪をショートカットにした、やや釣り目の目鼻立ちの整った少年の様だが、実はこの家の三女の紅葉である。
「ういっす」
冬峰の挨拶も男友達にするように、かなりぞんざいだ。
「お早う。紅葉お姉ちゃん。やっぱり起きてたね」
「そりゃそうだろ。コイツのハルねえを起こす声で大抵は起こされちまう。あれで起きなかったどうかしてるよ」
冬峰はやれやれと肩を竦めた。
どうやら紅葉にとって実の姉である春奈は、どうかしている存在らしい。
「ハルねえもフユを見習って早起きすればいいのに。昨日は遅かったんだろ」
よくやるねえと少し心配そうに見上げる紅葉に、冬峰は苦笑して紅葉の頭の上に手を載せくしゃくしゃと掻き回した。
「俺は学校で寝ているからな。そう大変でもないさ」
うーやめろよー、と冬峰の手を払いのけ紅葉は手櫛で髪を整えようとするが、基より癖っ気のある髪質なので更に髪は思い思いの方向へ跳ね上がった。
三人は居間の座テーブルのそれぞれの位置に腰掛ける。既にテーブルの前には冬峰の用意した朝食が並べられ、紅葉と夏憐の食欲を刺激した。
「「「いただきます」」」
行儀良く三人とも手を合わせ唱和する。
白味噌と葱の和え物を口にした紅葉の口元に笑みが浮かぶのを、冬峰はほほえましそうに眺める。
夏憐はリスがどんぐりを齧る様に少しずつ口に運ぶ。その仕種は彼女の外観にうまく組み合わさっており、本当に可愛らしいと形容したくなる。
冬峰の視線に気が付いたのか、夏憐は口に運ぶ手を止めて顔を赤くして俯いた。どうやら食べている仕種を見られるのは、とても恥ずかしいらしい。
「フユ、夏憐が恥ずかしがっているから、食べるとこ見るのはやめろよな」
こちらはちっとも恥ずかしくないのか、片っ端から口に運んでおり、なおかつ口に物を入れたまま喋っている。
「いや、主夫業の喜びを満喫していたところなんだけどね。て、どさくさ紛れに人の玉子焼きまで食べないように」
冬峰は呆れているのかそれとも喜んでいるのか、どちらとも取れる表情で紅葉に抗議するが、紅葉は口許まで持っていった玉子焼きを、パクンと一息に頬張った。
「あ、紅葉お姉ちゃん酷い」
つい夏憐が抗議の声を上げるが、紅葉は玉子焼きを嚥下して「ご馳走様」と両手を合わせる。
「しかし、もう少しゆっくりと食べられないのかな、こいつは」
冬峰も気にした風も無く食を進めているが、冬峰はそれほど腹は減っておらず、むしろある程度紅葉が片付けてくれるのは、助かるというものだ。なにしろ昨晩の夕食が午前様だった為、箸の進みも遅くなっている。
紅葉も普段やらないような横取りをしたのも、それを見かねてのことかもしれない。まあ、育ち盛りの食欲の暴走かもしれないが。




