二章 学園闘争曲(1)
二章 学園闘争曲
1
「人はあっけなく死ぬものだ」
薄暗い倉庫の中、白髪頭の眼帯で左目を隠した大男は、言い含めるような低い声で呟いた。
夏の日差しは窓の無い倉庫内には入って来ないが、それは空気も同じ。
フライパンの様に暖められた屋根がら放射される熱波が、己の庇護下にある倉庫内の空気をぬるま湯のような感触に換えている。
そんな中、この大男は低く太いそれ自体が重量を持っているような声で言葉を続けた。
「例えば首の両側」
大男は人差し指で左右の顎の付け根から喉仏の下までをなぞる。
彼はそれを食い入るように見つめていた。
倉庫内の澱んだ真綿に纏わり付かれたように感じる湿気と気温混じって、錆びた鉄のような臭いに彼は気分が悪くなって唾液が口腔内にたまっていたが、それに耐え大男を瞬きもせず見つめ続ける。
それが生きるために必要なことだと知っているから。
「この部分を深く切ると血が噴き出す。また気管も切られるため呼吸も難しくなる。待つのは確実な死だ」
淡々と事実だけを告げた大男は、人差し指をさらに下げて第二ボタンまで開けたカーキ色の軍服の内側、左鎖骨の窪みを指先で軽く押した。
「ここにも太い血管が通っている。此処を突き刺し、刃先で抉ると相手は数秒で死に至る」
彼は大男と同じく自分の左鎖骨の窪みに指先を当てる。血管の中に血液が流れる脈動を感じた。これが生きているということだろう。
「そして心臓」
大男は軽く握り拳で己の胸の中央よりやや左の部位を叩いた。
「心臓を潰されれば即死する。だが心臓は胸骨や肋骨に守られ攻撃し難くなっている。また攻撃される者も肘や拳で心臓を防御する。直接狙うことは不可能に近いと思ったほうがいい」
不意に大男はしゃがみこんで、右手の指先を伸ばし彼の左胸を突く。
「不意を付くか、相手を押し倒すか、行動の自由を奪ってから攻撃しろ」
次に大男は彼の顔を右掌で覆い、軽く突き放した。
大男は軽く押しただけだろうが、彼はその力に抗いきれずに尻餅をつく。間髪入れず大男の左手が彼の左肩を押さえ込み、薄汚れた床へ身体を押し付ける。
彼は身体をよじり逃れようとするが、人の形をした岩に圧し掛かれた様にピクリとも動かず圧倒的な力の差を彼に教えた。
「この体勢は攻撃する側にかなり有利になる」
大男は右手の人差し指で首、鎖骨のくぼみ、心臓、腹を次々に素早くなぞる。
それは高名な料理人が調理台の前に置かれた食材を切るように淡々としており、大男がこの作業を何千、何万回と繰り返し慣れている事が彼にも容易に推測出来た。
「押し倒し相手の自由を奪っても、素早く作業する事を覚えておけ」
そう言うと大男は彼から手を離し解放したが、大男の人差し指のなぞった部分にひりつく痛みを感じ、彼は顔を顰めながら立ち上がる。
「しかし今のお前の体格では、立ったままでは首や胸には届かず押し倒すには力が足りない。だから狙い所はここになる」
大男は自分の左太股の内側を平手で叩いた。
硬い布地のスラックスが小気味良い乾いた音を立てる。
「この奥にも動脈があり、ここを傷つけられると即死とはいかないが出血が酷く身動き出来なくなる。標的の前にボールを転がし、拾うふりをして相手にぶつかり太股の内側を何度も突き刺すが良い」
彼は先程の経験から、そんなにも上手く出来るのかと信じ難かった。相手は動き騒ぎ反撃する。狙い通りの位置に攻撃することは、口で言う程容易くは無いんではないか。
そんな彼の考えを読み取ったのか、大男は二人の背後にあるもの、先程から倉庫内の生暖かい空気に錆びた鉄を嗅いだ様な臭いを混ぜているものを顎でしゃくって指し示した。
それはうつぶせに倒れた少女の死体だった。少女の背中と身体の下、地面に広がっていく赤はそれ自体が死だという様に大きくなるにつれ、少女の肌の色を青白く白蝋に染めていく。
大男はそれを暫くつまらなさそうに眺めた後、編み上げブーツのつま先を少女の身体の下に入れ蹴り上げるように少女を引っ繰り返した。
少女の波打った金髪の下の信じられないと開かれた瞳と、重ねられた両掌の下から覗く傷が生々しい。
「確かにお前は相手に悟られること無く、先んじて相手を攻撃出来た。しかし狙い易かったのだろうが、お前がナイフで刺した場所は腹だった。腹を刺された相手は確かに動きは鈍くなるものの、死にたくないから必死で自分が死ぬまで反撃し続ける。結果、こちら側も余計な傷を負う」
大男は彼の上腕の切り傷や膝の擦り傷をじろりと睨み付けた。
「今回のように相手の得物もナイフだった場合、相討ちの可能性も無くは無かった。だから、先ほど教えたとおり、確実に急所を衝いて相手の息の根を止めることだ」
彼は大男の言葉を聴いているのかいないのか、少女の死体をただ見つめていた。それに何を感じ取ったのか、大男は一言ずつ、言い含めるように言葉を続ける。
「これからお前はこの場所で、自分自身と仲間を護る為に人を殺し続ける。相手は昨日まで共に飯を喰い、護り合った者達だ。それはお前が合格するか死ぬまで続けられる」
彼は顔を上げた。
その黒瞳には何も浮かんでおらず、ただガラスの球の様に鈍く光を跳ね返すだけだった。床に臥した少女と彼が昨日まで、彼の妹分と共に少ない食事を分け合っていた相手であっても、彼は普段どおり無表情にその亡骸を見つめるだけだった。
「そして何があっても躊躇うな。何が自分にとって大切か、それを見失わないことだ。それが生き残る力となる」
彼にとってそれは共にこの場所へ連れて来られた従兄弟達だった。彼等を護る為に自分は存在するといっても過言ではない。だから躊躇わずに彼女を刺した。
「私としては、お前がこの犬の共食いに生き残ることを期待するよ」
大男が踵を返し倉庫の外に歩み去る足音が消え去っても、彼は倒れた少女と広がって行く血溜りを見つめていた。
その光景を、瞬きすることも無く、見つめ続ければ少女が起き上がって来ると信じているかのように、ただじっと見つめ続けていた。




