25. 愚者はより深く
「はぁはぁはぁッ!! なんだ! ここはなんだお!?」
小太りの男は息を切らしながら光が差し込まない場所を駆け巡っていた。そこは、ホテルの隠し部屋であった1.03号室よりも暗黒の世界だった。不可視の空間に男は混乱し、本能からの抵抗として動き続けるしかなかった。
そうしてもがき続けていた時、足元の様相が変化していることに気づいた。
「ひぃっ! 冷たい!」
驚きのあまり足を滑らせ、巨体の尻を地につけてしまった。いつしか地面は水を張っていた。男が不可視の空間に入ってから初めて知覚した変化だった。突然の知覚に思考停止してしまい、冷たいのにそこから脱出しようと立ち上がることができない。男の体は硬直していた。
「どどど、どしてこんなことに」動かせるのは自分を慰めるための口だけだった。混乱の最中、己の声だけがまだこの世で生きていた。絶望的な状況で正気を保とうと、口だけが動いていた。それ以外は、もう役に立たなかった。
「ぼくは、なななんか、痛い目にあって、それで……」誰の気配も感じられない暗闇で、彼は独白を始める。
*
やけに攻撃的な小暮詩乃に大事な部分を潰されてからいつまで気を失っていたかわからない。ただ、同じ部屋で目が覚めたこと、そして気絶している間誰も介抱してくれなかったことが、限りある確証が持てることだった。それを思い知った時、男はこの世における自分のちっぽけさに苛まれた。
思えば、始まりはひょんなことだった。不純な動機ができて、欲を満たす日々、赤黒スーツとの出会い、監視、脅迫、監視、脅迫監視脅迫監視脅迫監視脅迫――――
明らかに、赤黒スーツのせい。
そう確信したものの、非力なせいで逆襲はおろか、いつも返り討ちにあっていた。
欲望を満たす部屋で目覚めた時、赤黒スーツは部屋の端で座っていた。相も変わらず、男に対して、優位性を見せつけるように、少ない光が集まった眼で彼を凝視していた。そして赤黒スーツはたった一言、放った。
「さようなら」
今まである意味見捨てないでくれていた社会の王に、別れの言葉、『さようなら』を言われた。
本当に、これで、関係は終わりなのだ。
顔から血が滑り落ち、蒼白になった彼はホテルからうるさい音を立てながら抜け出した。
闇雲に走り、薄暗い路地に入る。赤黒スーツの社会では生きていけない。表社会ではなおさらだった。彼の本能が社会の目が届かない場所へと体を動かしていた。
導街の威光から逃れた暗がりの路地にある階段を導かれたかのようにすぐに駆け下りる。先はもう威光は一切差し込まない闇の場所。等間隔で蛍光灯が並んでいるが、寿命が尽きかけて不規則に点滅する灯をいくらか見える。管理の不十分さがみてとれた。だが、それは人がいる証拠であったし、こんなところにいる事実が彼をかえって恐怖に陥れた。
そして、狂乱し、水面に無様に尻もちをつくに至る。
もう何も考えられず、小一時間その状態で止まっているように思えた。もう、陽の光さえない場所では、時間感覚さえも麻痺していく。もとより薄暗い部屋が棲家であったが、彼はより深く、より暗闇になり、より時間を失っていく運命にあった。
「――見ない顔だ」
時間が動き出したのは、背後から見知らぬ男の声を聞いた時だった。
「……お? おぉぉ!!?」男は子うさぎのように飛び上がりながら、水面を激しく波立てながら声の主から離れようと後退りする。
「久々の客人だ、どこからおいでになったのかな」
「ここはどこだお!?」
「そんな、連れてこられたみたいに騒がないでよ。自分で来たんでしょ」
「お……」もはやどうやってきたかも忘れていたが、かろうじて上から走ってきた記憶が図星となり冷静さを取り戻す。
「どうしてこんなところにきたの?」見知らぬ男は問いかける。小太り男は冷静さと共にようやく目が慣れてきて、見知らぬ男の姿が黒いフードに身を包んでいるのがわかった。
「逃げてきたんだお!! 僕は、何もしてない、してないのにっ! 暴力振るわれて……赤黒スーツに!」
「やつ? 誰それ」
「赤黒スーツの――――」
「あーーっ!! やっぱりかー!!」
「え、あ、お前、やつのこと知ってるのかお⁉︎」
「なるほどねぇ、だから無意識に語りかけて送り込んできたわけねぇ……殺処分してほしいんだ……」
「お、おい、何呟いてるんだおッ。今殺処分って――」
「なるほどねぇ!」黒フードの男は急に小太り男に向かって叫んだ。小太り男は混乱で硬直していた。そしてある想像が頭をよぎる。
死。
この闇の地も赤黒スーツの管轄だったのか。
自分はただの獲物だったのか。
殺される。
「助けてぇぇぇぇ!!」小太り男はわめいた。黒フードの男は拳を上げて小太り男に振りかざそうとする。
「おわった――」
「誰ですかーー‼︎」
「……はぇ?」
「赤黒スーツなんて、知りません」黒フードの男は振り上げた腕をクロスさせてばつ印を作っていた。
「ななな、なんなんだお!」
「君は相当赤黒スーツが怖かったんだなぁ。面白いなぁ、どうやったらそんなに怖くなってしまうのか、ぜひ体験してみたいよ」限りある光が、ニヤける黒フードの男の歯を光らせていた。
「ふざけんなお! お前は一体なんなんだお!」
「まあ、君と同じ流れ者ってやつかな」
「ほらみろ! お前も怖くてここにきたんだ!」
「いや、違うね」
「おっおぉ!?」急に雰囲気が真剣さをもって変わったため小太り男は驚く。そして、黒フードはおそらくしたり顔をしながら、言葉を放った。
「――僕は、"真"の社会人になったんだよ」
黒フードの男は真の社会に堕ちてきた者に自分の物語を語り始めた。
「僕は小さい頃からずっと人を殺してみたかった。働き始めの時に我慢できなくなって、手始めに、恋人を殺したんだが、その時は甘かった。長年"上"の社会にいたもんだから、すっかりその社会の思想が頭にこべりついてしまってたんだ。あそこでは、欲望は抑えなければならないという思想を、月日をかけて根を張らせ、剥がさないようにされていく。よほどのトリガーがない限り、それは剥がせない。僕は上の社会に絆されてしまったんだ。
だけど、恋人がそのトリガーを引いてくれたんだ。これこそ理想の恋、かもしれないね。愛を受けたんだ。会えなくとも、僕は、彼女を今でも愛している。彼女がいてこその僕だから。
そして彼女は逮捕されて会えなくなってしまうわけだけど、もうそれからは真の社会に身を置くことができてハッピーなわけだ。ようやく欲望に忠実に従って、人を殺せるようになったわけだ。
小さい頃から同級生を獲物として見てたから自ずと同級生がターゲットになっていた。だから、今の気温的に一年前くらいかな、初めて生身の人間を殺してみたんだ。ちょうどここ、"真"の社会に連れ込んでね。この国はここをないことにされているから、まずバレないし、捜査なんて入るわけがない。
それで、ほら、これだよ思い出の品だ。初の戦利品。大きいシールとキーホルダーでデコられたスマホだ。本来だったらキラキラするはずだけどここじゃ綺麗じゃないね。でも、彼女らしさが全く変わってなくて、本当人間って面白いなぁ。
あー、ちょっと思い出して興奮してきた。一発殴るわ。
……っしゃあ、いいの入った!
おおっとまだくたばっちゃだめだ。さっきは殴りすぎた。ごめんね。今ちょうど興がのってるんだ。もう少し頼むよ。
それでさ、僕は元より人望が厚かったんだ。昔から皆簡単についてきてくれるくらいに信用されてるのが我ながら天才だった。欲望を自覚する前から、欲望を発散させる下地は整っていたんだ。これほどうまくいく人生があっていいのかと感心してしまうほどだった。
それで、殺す前、初ターゲットの彼女は誰もいないこの暗闇で叫んだんだ。『助けて! 助けて! 有森先輩! 有森先輩!!』ってね。いやー、あの時本当に感動したのを覚えてる。上の社会の絆ってこんなにも凄いんだと! でも実際その有森先輩ってのは、来なかった。これにも感動したね。上の社会の絆ってこんなにも脆いのかと。……ってあれ、君呼吸が荒くなったね。なに、君知り合い? 僕は知らないけど、上の社会では有名人?
まあいいけど。それにしても人間は本当に愚かだと思う。一応皆は多かれ少なかれ死にたくないと思っているはずなのに、なんで明らかに危険な場所においそれとついてきてしまうのだろう。
僕もそれなりに考えたんだけど、一因としてここの上にある煌びやかな夜街があると思うんだ。人々は強大な光に目が眩んで、目の前の物事が見えなくなる。ちょうど、"ここ"が誰にも気にされないようにね。皆、光の本質について勘違いしてる。光は照らすためじゃない。不都合なものを隠すためにあるんだよ。だから、不都合なものが光で不可視にされて、危険さがわからないんだろうな。今そこで僕に殴られてくたばろうとしてる君も同じだよ。それ自体に価値のない眩い光に君は誘われたんだ。それで、顛末が今。君の人生、悲しすぎるよ。せめてもの報いで僕の欲望の養分にさせてもらうよ」
煌びやかな夜街、そこは不都合なものを不可視にする場所。行方不明者は後を絶たない。しかし、そこは全人類が対象の、欲望を満たすための場所。汚い金も当たり前のように動いている。そのような場所で起きた事件、事故は、自己満足のためと一蹴され、捜査が進展することは、ほとんどない。
黒フードの男はデコレーションに満ちたスマホのキーホルダーを指に引っ掛けて、1人暗い下水道で呟く。
「今思えば、君を気の毒に思う。最後まで有森先輩って叫んで、その先輩は全く来なかったんだ。そして不運にも僕の幼馴染ときた。
君は……つくづく選ばれなかったんだね。
知っているよ、僕は衝動が満たされて幸せでも、君は幸せにはならない。だから、君が幸せに思えるよう、僕がこれからも"真の社会"を作り上げていく。殺人は珍しいことじゃない。偶然事故に出会ってしまっただけだって。コインの表裏で決まる勝負みたいに、誰もが等しい確率で決まる分かれ道ってだけ。そういう社会さ。
だから、あの世で、死んだことをどうか諦めてくれ。もうすぐあの世で同窓会ができる人数になるだろうから、もう少し待ってくれるかい」
黒フードの男は下水道から吹き込む外界の隙間風になびくスマホを眺め、憐れみながらも、満足げに、思い出にお別れを告げる。
「ほんと、可哀想な、桜木莉里さん」
そう言うと、指に引っ掛けていたスマホを、どこに行き着くかもわからない下水の濁流に落し入れた。
黒フードの男は、知らない。
実はその濁流は日織区のとある川に合流することを。
誰も、知らない。
落とされ、汚れた携帯が、日織区の川に沈んでいることを。
その川は日織区で有名で人気だった。
その川沿いは春、桜が満開になる。
人々から、"桜並木の川"と呼ばれていた。
とある春の日、桜並木の川の近くにて……
因縁に決着をつけ平穏を取り戻した、27歳になる有森夏菜と、小暮詩乃が、仲睦まじく歩いていた。
黒フードの男の正体は短編「僕は、"真"社会人になりました。」の主人公タクトです。
気になった方は以下から。
https://ncode.syosetu.com/n7577ft/




