第21話「あんな必死にはなれねーよ」
ジム内はリング上の勝也と中の激しい息切れの音を除いて静まり返っていた。勝也は「まだやるか?」そんな表情で|中《あたる》を睨み下ろし、中はというと反対に「何が起こった?」そんな表情で状況を把握出来ずリング上で尻もちをついている。
そんなすぐさま立ち上がろうとしない中を見て、隆則が駆け寄り中に向かって人差し指を突き立てる。
「ワーンッ!…ツゥーッ!…」
何をしてるんだ?そんな表情で隆則を見上げる中は、隆則の指の4本目が立ったあたりでやっと我に帰ったよう立ち上がろうとするが肝心の足が言うことを聞かない。
「嘘だろ…?たった一発で?あんなに俺のパンチをもらっておいて…?まだこんなの打てる力が残ってたのか…?」
この状況が信じられないのは中だけではない。ジム内の全員が、唯一勝也を応援していた史でさえも勝也がもう勝つことなど到底ないと思っていたのだ。
リングの上では両者の激しい息遣いに挟まれ、隆則のカウントが進んでいく。
「ファーイブッ!…シーックスッ!」
なんとか立たねばならない。思考が疑問からやっと切り替わっていくと中はロープを掴み、鉛のように重い体をゆっくりと上げていく。勝也もそんな中の様子を見て再び顔近くまでグローブを上げていく。一つの油断もない。起き上がって来たらもう一度倒すだけ。そんな表情だ。
中は腰を少し、また少しと上げていく、がその都度、足の震えが早くなっていく。
右手と左手、ロープを掴んで腕だけの力で体を起こし、一定の高さまで達することが出来れば後は足の力で立ち上がらなければならない。「セブーンッ!エーッイトッ!」立ち上がるのか?立ち上がれるのか?周囲が注目するそんな状況で中の足の揺れはますますひどくなり、表情は誰が見ても苦悶の色だ。
「ぐあぁぁ…!……」
体は一定の高さから上がってこない。
「ナイーンッ!…」
残すところのカウントもわずかになったその時だった。ズダァーン!と大きな音を立て、中の体は背中から受け身を取ることなくマットの上に叩きつけられ「テェーーンッ!」「ノックアウトォォ!!」最後の10カウント目が告げられた。
静寂に包まれていたジム内は大歓声に包まれた。背中から落ち、呼吸困難になっている中にジムの会長と隆則が駆け寄る。
「おい、大丈夫か!?」
「楽にして呼吸整えろ!」
緊迫している隆則と会長とは対照的に歓声を上げている練習生たちは勝也のコーナーに集まっていく。勝也はそんなコーナーには戻ろうとせず、必死で呼吸をしようとする中をじっと見つめていた。
中の呼吸が落ち着き、歓声が収まり始めたころ「近藤!これ!」人混みに飲まれていた史がどこでみつけてきたのか氷のうを手にして声を上げた。勝也がコーナーに戻り史から氷のうを受け取ると一気に練習生たちによる質問攻めが始まる。
「なにか格闘技はやっているのか」
「何年生なのか」
「ジムに入る気はあるのか」
だが当の勝也はそんな質問には応えようとせず、史にグローブを外して貰うよう頼むと再び中のコーナーにじっと目を向ける。
「大丈夫かな?植草?」
そう問う史に対しても勝也は応えようとしない。そして対角コーナーの一人の男と目を合わすと今度はそこから目線を外さない。視線の先は隆則である。隆則は中を会長に任せるとこちらのコーナーへと一直線に向かってきた。
「あ?なんだ?まだなんか文句あんのかよ?」
大方この男が腹を立てているのはスパーリング中の「投げ」についてだろう?そう察した勝也は自分よりも身長がすこし高い隆則を睨みつけるように見上げる。勝也が「なんだよ?」とそう追従すると、次の瞬間隆則は勝也の予想に反して表情を一気に崩し、勝也の両肩を引き寄せた。
「おい!やっぱり俺の見込んだ通りだわお前!才能あるぜ絶対!なあ!ボクシングやれよ!」
「おいちょっと!唾!唾かかってんだよ!なんだよ突然…!」
「お、わりいわりい…!あ、そうだ会長!こいつ今日からうちのジムの練習生になるんで!」
「お、おい!ちょっとまてよ!だから何突然勝手に決めてんだよ!」
反対側のコーナーに目を向けると中がもう起き上がってじっとこちらの見ている。勝也は少しトーンを落として隆則に言った。
「何度も言ってんだろ。おれはボクシングなんてやりたくもねーってよ」
何か引っかかるものがある。そんな顔をしている勝也に隆則は理由をストレートに聞くことにした。
「なんだよ、なにか出来ねー事情でもあんのか…?」
出来ない事情。その言葉に勝也の表情は一瞬固まり、目線は隆則のトレーニングウェアやシューズに移った。目線はすぐに外されたが、隆則はみんなのそれを察したように表情を崩し、冗談っぽく勝也に切り出した。
「さてはお前、練習がキツそうなんでビビってんだろ」
「…誰がそんなもんにビビるか」
冗談ぽく振る舞う隆則に勝也はフンッと一つ鼻を鳴らすと、目線は向けず、指先だけを中に向けこう言った。
「おれはあんな必死になれねーよ」
中や周囲が固まっている様子を感じ取ると、勝也は少し照れくさそうにしながら、足早に借りていたシューズを脱いで隆則に強引に返し、史にジムから出ようと提案した。そしてそんな背中に中がやっと言葉を返す。
「おい!勝也!言っとくけどあんなの途中からボクシングじゃねーぞ!俺はボクシングじゃオメーになんか負けねー!てか負けるはずねー!だからボクシングで俺にまた挑戦したくなったらいつでもここにこい!いつでもやってやらー!ボクシングじゃおめえなんて瞬殺だからな!」
「けっ…馴れ馴れしく名前で呼んでんじゃねー…。ニヤつきやがって気持ちわりーな!オメーなあ!もうちょっとましな言い訳できねえのかよ!途中までボクシングだったんならどっちみち瞬殺できねーじゃねーか!バカ中!」
「帰るぞ史!」照れくさそうな勝也になんだか妙な笑いがこらえられなくて思わず史も笑ってしまった。
「うるせーよ、上から言ってんじゃねー。勝也」去る背中に声をかけたが勝也は振り向きはしない。ただ史は振り返り中に声をかける。
「明日は学校こいよ!中くん!」
「おいちょっと待て史!てめーなんで俺は呼び捨てであいつは君付けなんだよ!」
「…なんとなくだよ!オメーに君なんていらねえだろ!」
「んだと、このやろー」
「行くよ!また明日な!史!」
なんだか妙な気持ちに襲われて笑いを堪えられない三人に隆則や会長も感化され顔を緩ませている。ジムを出てからもしばらくその妙な笑いを続けていた史に勝也は「いつまで笑ってんだよ!気持ちわりいな!」そう言うと荷台に飛び乗り、史が漕ぐ自転車を激しく左右へ揺さぶってふざけた。そして鍵の壊れた自転車で夕焼けに染まった街へ消えていく。
ジム内に残された中はアイシングを終えると持ってきていた荷物をまとめ始めた。
そして大きなスポーツバックを持ったこの少年も夕焼けに染まった街を行く。中の家の前では兄の修一が立っていて、きょとんとしている中に「一人じゃ家入りずらいだろ?ジムの会長から連絡あってさ」そういうと照れくさそうな弟と家へと入っていった。




