第20話「逃げ回ってたって何も変わらねー」
ジム内で行われている中と勝也のスパーリングは中の圧倒的有利なペースで進行していた。
中はジャブを突きながらも隙をみて勝也に的確な右ストレートやフック、アッパーを当てていく。多彩なブローは素人勝也のガードの間を縫うように進み、生々しい音を立てて止まる。
そのブローを貰う度に勝也の動きは一瞬止まってしまう。しかしすぐに打ち返し再び怯む事なく前に出る。勝也のブローは中のものと比べ、振りも大きく無駄な軌道を描く。それは当たらない。中にとってそれをかわすことは容易なものだが、空を切るそのスイング音は昨日の拳の恐怖を蘇らせ、あくびの込み上げなど許さない。決して気は抜けない。そんなスイング音だ。中はガードする事も拒むようにバックステップで慎重にひとつずつ交わしていく。両者の距離は中が距離を取れば勝也が必死に食らいつき、またその距離を詰め、拳が容易に届く至近距離になれば中がまた突き放す。その繰り替えしだ。
「おい!相手ビビってんぞ!チャンスチャンス!距離詰めてけ!」
リングの下で二人のスパーリングを見ていた史は勝也側のセコンドの隆則が一番イキイキしているように見えた。史にとってそれも気になったことの一つではあったがそんな事よりも気になったのは昨日となんら変わりのない今の戦況であった。
(おいおい…なにか手があるからまた挑んだんじゃないのか?これじゃ昨日と同じじゃねーか…昨日は打ち合いになったからまだわかんなくなったけど…これじゃ…このままじゃさすがに…)
史が感じたように、中には打ち合う気などさらさらなかった。このまま足を使ってジャブを突き、隙を見て右を出す、弱ったところでもしチャンスがあれば足を止めて畳み掛ける。それぐらいのつもりだった。
(こいつの破壊力はハンパじゃねー。まともに打ち合ったらダメだ…気に入らねーやり方だけど俺の目標はプロなんだ、こんなとこでつまずいてられるか…!)
足を使う、足を使って勝也を中心に円を描きながら中はジャブを突いて行く。
(また挑んで来やがって…何考えてんだコイツ…まぁいい!このままおれのペースで終わらせる!べつにKOは狙う必要はない。このまま…!)
フラッシュさせるジャブでも何発も貰えば次第に効いてくる。勝也には昨日のダメージもまだ残っている。膝が次第に笑い始め、足が思うように動かなくなってきた。
「おい!相手の追い足鈍ってきてんぞ!」
中はリングサイドから飛んだ勝也への野次に反応し、足を少し止めて勝也の表情を伺った。その瞬間、脳裏に"KO"という誘惑が一瞬過ってしまった。
「バカヤロー!足止めんじゃねえ!」
会長の声と同時かそれとも少し早かったか、中の目前に勝也が突然大きく写る。目前に飛び込んで来たのは拳ではない、勝也本体だ。驚いた中の体は動かない、反応しない。
クリンチ、いや両腕で捕まえるだけではなく、脚をかけると勝也は中をリングに叩きつけた。
「なにやってんだ!」
観戦者たちは一様にそう思ったが声に出して一番に駆けつけたのは隆則であった。
「離れろっ!離れろって!」
無理矢理勝也を引き離し声を荒げる。
「テメー何やってんだ!ボクシングだぞ!」
「誰が…誰がボクシングやってやるっつったよ」
「あ?」
荒げた声とは対照的に勝也は息を切らしながらも静かに答えた。そして隆則の腕を振りほどき中へと再び向かっていく。が、すぐに1ラウンドを終えるゴングがなった。
コーナーへと帰ってくる勝也を隆則が迎える。「関係ない」そう吐き捨てた勝也もどこか中のことを心配し、そして何か考えがあってスパーリングを再び申し出てくれたと、隆則はそう思っていた。そう思っていたからこそ先程の行為が許せない。
ただならぬ隆則の雰囲気に史も勝也の元へ急ぐ。が、一足遅かった。隆則は戻ってきた勝也の髪をいきなり掴み上げた。
「おいテメー、さっきみてえな攻撃まだやる気ならもうやらせねえぞ」
そういうとそのままリングに勝也を叩きつけた。
リング上で顔を伏せ、何もしゃべらない勝也に史がたまらず割って入る。
「すみません!こいつ悪気は多分なくて…!多分反撃したくてもどうしようもなくってそれで…!つい…多分ついで…悪気は無かったってっていうか…」
「…余計なこと言ってんなよ松本…ついなんかじゃねー、わざとやったんだよ」
「テメー…」
隆則の顔色が変わっていく。もうジム内の誰しもが固まり、どうすることもできない。
やっと立ち上がってくる勝也に隆則はすっかりやる気になっている。勝也の体が完全に起き上がるその前に拳を顔面に振り下ろさんばかりの勢いだ。しかしそんな隆則を無視する様に、起き上がってきた勝也が視線を最初に向けたのは隆則へではなく中にだった。
一連のやりとりを何事かと見つめていた中の陣営と、そして中と視線を合わすことは容易なことで、勝也と中の視線はすぐに合った。
「フンッ、何がやりたいことだよ…何がボクシングだ…」
勝也の声は静まり返っていたジム内全員を不思議と引き込んでいく。
「甘えてんじゃねーぞクソが」
「?…俺のどこが甘えてるっつーんだよ。…
…誰からどこまで聞いてきたのか知らねーけど、知ったようなこと言ってんじゃねーぞ」
「知りたくも無かったけどな。…別にお前が何抱えてようが、どうしようが、俺には関係ねー。でもお前が甘えてんのは確かだ。それがムカついてな。それをどうしても解らせてやりてぇ」
「さっきからわけわかんねーこといってんじゃねーぞ、じゃあおれが何に甘えてるかいってみろや!」
「ボクシングだよ」
意外な答えだった。これからすべてを賭けようとしているボクシングに自分が甘えている?中は意外すぎる答えに固まって返答をすぐに返すことが出来なくなった。
「何がやりてぇ事だよ、逃げてるんだろ?ボクシング使っていろんなことから。さっきから足使って俺から逃げ回ってる今みてーによ」
「…わかったよーなこといってんじゃねーぞ…!」
「わかってねーのはオメーだよ、小学生のチャンピオンかなんだか知らねーけどそんなんで勘違いしてんじゃねーぞ。オメーなんて全然大したことねんだよ。それとも家出することで"僕だって優れてるところがある" "兄貴にも負けねぇところがあるんだ"ってパパにわかって欲しかったのか?僕はこんなにボクシングに対して真剣なんです、頑張ってるんですって」
「黙れっつってんだろうが!!」
開始のゴングを待たずに今度は中が勝也へと突っ込んでいく。
「かかって来いこのヤロー…逃げ回ってたって何も変わんねえんだよ…」
微かに苦笑いを浮かべながら言った勝也のその一言を、一番近くにいた史と隆則には聴き取る事が出来た。そして不思議とその瞬間だけ、二人は勝也の事を幾つも年上に感じたのだった。
さっきとは打って変わって果敢に、そして多角的に打ち込んでくる中。そんな攻撃をコーナーを背負いながらもつたないガードで勝也は受け止める。
「そうやって家から出て心配して欲しいのか?そんなにみんなに相手にして欲しいのか?おれはこんなにもかわいそうだから誰かわかってくれってか!同情してくれってか!?俺はオメーみてえな悲劇の主人公気どったやつが一番嫌いなんだよ!断言しといてやらぁ!オメーはプロになんかなれねー!」
中の回転が上がっていく。次第にガードも追いつかなくなってきた、勝也は顔面に何発かもらい始めている。それでも挑発は止めない。
「もっと打ってこいこのヤロー!オメーのパンチなんか効かねーんだよ!ほら打ってこい!このヤロー!」
(俺が逃げてる?俺はただ…俺だって何度も…)
中の意識は徐々にスパーリング相手の勝也から他の対象へと移って行く。
"まだわからんのか!ボクシングなどやめろと言っているだろうが!何度言ったらわかるんだ!"
"なんだ!この成績は!"
"修一に比べおまえは…"
"親父には俺から上手くいっといてやらぁ"
中の脳裏に父の失望した顔や兄の言葉がよぎる
(俺は…俺は…)
中が勝也とのスパーリングに再び注意をかろうじて向けたとき、目の前の景色は一瞬のうちに真っ暗になった。
二度目スパーリングは、なんと勝也が先に中からダウンを奪う形となったのだ。




