第二章「動き出す影、揺らめく闇」第一節
時は十年前に移っていく。
沢田弥生は、見知ない部屋で目覚めた。楓、孝則、朱音の姿はない。家に帰って宿題をしようとしていた。その後、何があったのか思い出せない。意識を失っていたみたいだった。
ようやく、首位を見渡せる余裕ができた。腕には実験装置のコードがつけられている。一瞬、病院かと思っていたが違うらしい。
バイオ水槽が並ぶ異質な室内だった。異彩を放っている。
――気持ち悪い。
――何かの研修施設?
あまり、いい気分ではなかった。気持ちのいい場所ではない。目をそらしたくなるが、どうしても視界に入ってくる。
「起きたのか? 君もいずれあそこに入る計画をしている」
振り返ると一人の男性が入ってきた。
「誰なの?」
震える声で問う。
「私は森川大和。ここ、アンドロイド研究所の所長だ。今のところ経過は順調だな」
弥生から見た大和の瞳は濁りきっていた。正気ではなかった。優しさなど感じない。心に闇を持っている者の瞳である。人殺しに迷いがない人物の瞳だった。
全身の鳥肌が立つ。
ここから、逃げないと危険だと頭の中で警鐘が鳴り響いている。
本能が警告をしている。
怪我を無視して抵抗をする。抵抗も虚しく鎖が、ジャラジャラと音を立てるだけだった。沢田家が襲撃されたあの日、まだ、息があった弥生を使えるだろうと、仲間たちが連れて帰ったのだ。弥生はそういった内容を耳にしていた。
「そうすぐ、自分が自分でなくなる時がくる」
「私の家族はどこにいるの? 家に帰らしてよ。皆に会いたい」
「両親はすでに死亡、弟は行方不明。その状況で希望はあるのか?」
「あるわ。私は家族が生きていると希望を持ちたいだけよ」
キッと大和を睨みつける。
「はっ……能天気な考えだな。その希望を壊してやる。無駄な抵抗はやめろ」
「希望をもって何が悪い――んっ、はっ、ァ」
弥生の唇をふさいだ。
濡れた音がする。
薬を飲まされた。
反射的に飲み込んでしまう。
飲まされた薬は家族の記憶を、消すための効果があった。人間からアンドロイドに、変化させるためである。即効性のためにすぐに結果は出るだろう。
「やぁ……いやぁ」
心臓が厚い。
どこからか、声が聞こえる。
『えー、やだ! まだ、弥生お姉ちゃんと遊ぶ!』
『明日も明後日もずっと遊べるわよ』
『ほら、楓は熱があるのだから休んでいて』
『やだ! 眠たくない!』
『あまり、我儘を言うと怖いお化けがくるぞ。俺たちも連れて行かれるかも』
『それも、嫌!』
『なら、休みなさい』
『じゃあ、私がいつもの子守唄を歌ってあげる』
弥生の歌い始めた子守唄に、楓は微睡み始める。起きていたいと抵抗する姿がいじらしい。
愛らしかった。
『まだ、眠く――』
弥生の腕の中で眠りにつく。
『弥生は本当に楓の扱いが上手ね』
『将来は保育士になれそうだな』
『えー、このやり方は楓専用なの! 誰にも教えない!』
――これは、誰の記憶。
――私?
――他の人?
――私にこんな記憶があったの?
――あの人たちは誰?
――私の家族?
――敵なの?
――味方なの?
――もう、分からない。
人の声が遠くなる。
光も途切れる。
あるのは暗闇だった。
深い、深い暗闇の中に落ちていく。誰にも手の届かない細部まで到達していった。ふわふわと漂う中で、楓たちの記憶が書き換えられていく。頭の中に霧がかかっているみたいだった。
霧も取り払われて鮮明になる。
――私は。
――アンドロイドの「沢田弥生」として生まれ変わるのね。
アンドロイドとしての魂が、引き上げられていくのが分かる。
歓喜で体が震えた。
狂うほどの快感の波が襲ってくる。ぞくぞくと身震いをする。
――人間を後悔させてあげる。
――私が楽にしてあげる。
――楽しみだわ。
「沢田弥生」個人としての魂は、静かに消滅していくのだった。
――さぁ、弥生。
――我々の元へ来い。
暗闇の中にいる弥生に、手が伸びてくる。
――今から、行くから待っていて。
――マスター。
その手を握りしめた。
握り返すと引き上げられる。
弥生の意識はそこで途切れた。




