第9話:僻地への左遷人事――絶望のオフィス移転と、社員(兵士)の大量離職
ざり、ざり、ざり。
車輪が砂礫を噛む音が、暗い渓谷に反響していた。
両脇には、空を切り裂くような巨岩。
昼なお薄暗い山道が、どこまでも続く。
ここが巴蜀。
そして漢中へ至る、唯一の道だった。
天下の誰もが嫌がる流刑地。
秦ですら「隔離病棟」と呼んだ土地。
「……本日の離職者、さらに七十二名。累計離職率は二八・四パーセント、か」
揺れる馬車の中。
蕭何は竹簡を見つめ、深く息を吐いた。
前世。
桜橋有限責任監査法人。
岡田誠一として働いていた頃の記憶が蘇る。
これは、よく知っている光景だった。
破綻寸前の会社。
地方への強制異動。
崩壊する現場。
逃げ出す社員。
まるで、あの頃そのものだった。
咸陽で得た先行利益は、すべて項羽に奪われた。
残ったのは、市場からの締め出し。
左遷。
それも、死ぬまで働けという類の左遷だった。
「蕭何。またバックオフィスの連中が逃げたぞ」
馬を並べた曹参が、うんざりした顔で言った。
「今度は兵糧輸送の管理役だ。中堅どころだった」
彼の顔にも、疲労が浮かんでいた。
「毎朝、人が減る。現場じゃ『気合が足りん』の大合唱だ。だが、そんな話で埋まる赤字じゃねえ。誰もが、この軍は終わりだと思ってる」
「当然だ」
蕭何は算盤を弾いた。
「彼らが劉邦軍に集まった理由は、咸陽の富だ。臨時ボーナスが消えた以上、残る理由がない」
乾いた音が鳴る。
「残ったのは、インフラもない僻地への強制転勤だ。未来の成長戦略が見えない組織から、人材が流出するのは当然だろう」
「理屈は分かる」
曹参は吐き捨てた。
「だが、このままじゃ漢中に着く前に終わるぞ」
その通りだった。
毎朝のhead count。
その数字は、綺麗な右肩下がりを描いていた。
組織の血が、毎日流れ落ちていく。
いくら蕭何が、秦の地図と戸籍を守り抜いても。
それを運用する人間が消えれば、意味はない。
二週間後。
劉邦軍の本営では、さらに酷い光景が広がっていた。
「飲め飲め! 漢中に行ったら、こんな酒はねえぞ!」
劉邦が大笑していた。
顔は赤黒い。
完全にやけ酒だった。
周囲では、樊噲や周勃たちも酔っている。
「クソッ、項羽の野郎……!」
「俺たちは、いつまでこんな山奥なんだ!」
怒号。
罵声。
酒臭い笑い声。
蕭何は、冷え切った目で見ていた。
壊れる会社は、いつも同じだ。
トップが現実から逃げる。
中間層が疲弊する。
現場が精神論を叫び始める。
そして最後に、組織が死ぬ。
「……CEO」
蕭何がテントへ入った。
空気が一瞬で冷える。
「職務中の過度な飲酒は軍律違反です。直ちにやめてください」
「また監査かよ……」
劉邦は露骨に嫌そうな顔をした。
「俺たちは負け犬なんだぞ? 少しくらい休ませろ」
「休んでいる余裕などありません」
蕭何は竹簡を机に叩きつけた。
「本日の人事リスク報告です。このまま離職が続けば、漢中到着時点で有効兵力は六割を切ります」
劉邦の顔が引きつる。
「特に問題なのは兵站担当です。前線の兵士と違い、代替不能です。彼らが消えれば、補給が止まる」
劉邦は頭を抱えた。
「分かってるよ……。だが俺に何ができる? 金もねえ。恩賞もねえ。ただ『山奥で農業しろ』としか言えねえ社長に、誰がついてくるんだ」
「だからこそ、新たな戦略が必要なのです」
蕭何は低く言った。
「項羽の組織は、内部統制が崩壊しています。あの男は部下への分配を惜しみすぎる。必ず内部分裂を起こす」
樊噲が鼻で笑った。
「数年後の話だろ、それ」
酒臭い息が飛ぶ。
「そんな未来の話をしてる間に、兵隊は全員逃げる。俺たちに必要なのは、今すぐ項羽をぶっ殺せる怪物だ」
「その通りだ」
周勃も続いた。
「軍全体を動かせる天才が必要なんだよ。曹参じゃ足りねえ」
蕭何は黙った。
彼らの言葉は、間違っていなかった。
組織を守るだけでは勝てない。
市場を破壊する「矛」が必要だ。
だが。
そんな化け物級の人材が、都合よく現れるはずもなかった。
「……今日は終わりにしましょう」
蕭何は立ち上がった。
「これ以上の飲酒は、軍費の無駄です」
「へいへい、厳しいCFO様だな」
劉邦は寝転がった。
蕭何は何も言わず、テントを出た。
深夜。
渓谷を抜ける風が、テントを激しく揺らしていた。
まるで、沈みかけた船の軋みだった。
蕭何は一人、帳簿を見ていた。
胸が痛む。
鈍い痛み。
前世で死ぬ直前、何度も感じた感覚だった。
(またか……)
薄く笑う。
ブラック監査法人。
終わらないデューデリ。
壊れていく同僚。
消えていく後輩。
最後に残った自分だけが、全部を背負い、潰れた。
(今世でも、同じなのか……?)
その時だった。
バサリ、とテントが開いた。
飛び込んできた役人の顔は、死人のように青白かった。
「蕭何様!! 緊急事態です!!」
「また離職ですか」
「違います!!」
声が震えていた。
「現場の隊長クラスが、一斉離脱しました!! 曹参様と周勃様の部隊です!!」
「な……」
蕭何の思考が止まる。
隊長層の離脱。
それは組織の脳死だった。
ミドル層が消えれば、軍は瓦解する。
「それだけじゃありません!」
役人が叫ぶ。
「あの治粟都尉です!! 先日、社長面接で買い叩かれた男……!」
蕭何の顔色が変わった。
「……韓信か」
「はい!! 韓信も消えました!!」
世界が静まり返った。
韓信。
あの男。
誰も価値を理解していない怪物。
項羽を倒す唯一の矛。
その喪失。
(……終わった)
筆が落ちた。
黒い墨が、決算書を汚していく。
韓信が消えた。
それは。
漢王朝が消えたという意味だった。
役人が叫ぶ。
「どうしますか!? 引き止めを――」
聞いていなかった。
前世の記憶が蘇る。
辞めていった後輩。
追いかけなかった自分。
腐った組織。
そして過労死。
(同じ過ちは、繰り返さない)
蕭何は立ち上がった。
「馬を引け!!」
怒声が夜を裂く。
「今、韓信を失えば終わる!! 全員、この山で野垂れ死ぬぞ!!」
上着を掴む。
部下を突き飛ばす。
そのまま、夜の闇へ飛び出した。
手元に残ったのは、崩壊寸前の組織データだけ。
行く先にあるのは、冷たい月明かりの山道。
だが、止まれなかった。
韓信を逃がした瞬間。
漢王朝は、この世から消える。
第9話:了
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
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