第10話:執行役員・韓信のスカウト――「彼の能力は、我が社のリスク許容度を超えています」
冷たい月光が、寒水の川面を銀色に照らしていた。
馬の脇腹を何度も蹴り続け、蕭何は夜の山道を疾走していた。
肺が焼ける。
胸の奥で、鈍い痛みが脈打つ。
前世で死ぬ直前、何度も味わった感覚だった。
それでも、止まれなかった。
川辺に、一人の男が立っていた。
粗末な麻衣。
背には長剣。
濁流を見つめるその姿は、逃亡者には見えなかった。
市場を見限り、次の投資先を探す冷酷な投資家。その背中だった。
「……追いついたぞ、韓信!」
蕭何は馬から転がるように降り、叫んだ。
韓信はゆっくり振り返った。
その目には、焦りも恐怖もない。
ただ、異様なほど冷たい理性だけが宿っていた。
「これはこれは。CFO自ら深夜の引き止めですか」
韓信は薄く笑った。
「ずいぶん高コストな人事対応ですね」
「軽口を叩くな!」
蕭何は怒鳴った。
「なぜ無断離脱した! 君一人の逃亡で、現場に連鎖退職が発生している!」
「退職?」
韓信は鼻で笑う。
「私は正式採用された覚えがありませんが」
蕭何の眉が動く。
韓信は淡々と続けた。
「先日の面接を忘れましたか。劉邦CEOは、私の戦略ではなく、過去の“股くぐり事件”ばかり見ていた」
韓信は川の向こうを見た。
その先にあるのは、中央市場――関中。
「市場価値を理解できない経営者の下で、自分の資本を浪費する趣味はありません」
「だから転職する、と?」
「ええ。御社は、もう終わっています」
夜風が吹き抜けた。
蕭何は黙ったまま、韓信を見つめる。
そして、懐から竹簡を取り出した。
「君のレポートは読んだ」
韓信の目が、わずかに細まる。
「項羽軍の組織構造。諸侯の離反確率。補給線の崩壊予測。全部だ」
蕭何は一歩近づいた。
「正直、震えたよ」
「……」
「君の military logic は異常だ。既存の兵法を根本から破壊している」
蕭何は竹簡を握り潰すほど力を込めた。
「君は一兵卒じゃない」
「なら?」
「市場そのものを書き換える側の人材だ」
韓信は黙っていた。
蕭何はさらに踏み込む。
「劉邦に見る目がなかったことは認める。だが私は違う」
前世。
岡田誠一として、何社もの企業を見てきた。
潰れる会社。
伸びる会社。
天才を潰す会社。
その全部を。
だから分かる。
韓信という男は、“規格外”だった。
「私は、自分の全キャリアを賭けて君をスカウトしに来た」
韓信が初めて、蕭何を真正面から見た。
「条件は?」
「大将軍だ」
川の音が響く。
韓信は沈黙した。
「全軍の指揮権を渡す」
「……本気ですか?」
「本気だ」
「曹参も、樊噲も?」
「全員、君の指揮下に置く」
韓信は小さく笑った。
呆れとも、興味ともつかない笑みだった。
「社内コンプライアンスが崩壊しますよ」
「構わん」
「古参幹部が反乱を起こします」
「抑える」
「私の戦略は非情です」
韓信の声が低くなる。
「兵士の命すら、コストとして扱う。勝つためなら、数千人を平然と切り捨てる」
月光が、その瞳を妖しく照らした。
「私の能力は、御社のリスク許容度を超えています」
だが蕭何は引かなかった。
「超えて結構だ」
韓信の眉が動く。
「君がどれだけ前線で赤字を出そうが、後方は私が回す」
蕭何は静かに言った。
「君が最強の矛なら、私は絶対の盾になる」
沈黙。
寒水の流れだけが響く。
やがて韓信は、長く息を吐いた。
「……面白い」
その声は、わずかに熱を帯びていた。
「会計士の限界許容度。試させてもらいましょう」
翌朝。
漢中の本営は怒号で揺れていた。
「ふざけるなッ!!」
樊噲が机を叩き割らんばかりに怒鳴る。
「夜逃げした倉庫番を、大将軍に据えるだと!?」
周勃も険しい顔で蕭何を睨んだ。
「今回の人事は異常だ。現場が納得するわけがない」
当然だった。
創業期から血を流してきた古参たちからすれば、韓信は突然現れた無名の中途社員に過ぎない。
だが蕭何は一歩も退かなかった。
「感情論ではありません」
冷たい声がテントを貫く。
「経営資源の最適配置です」
「理屈じゃねえんだよ!」
樊噲が剣に手をかける。
「だったら俺と戦わせろ! 三秒で首を飛ばしてやる!」
空気が張り詰めた。
その時だった。
「……もういい」
劉邦が立ち上がった。
場が静まる。
いつもの酔いどれた顔ではない。
経営者としての顔だった。
「蕭何」
劉邦は低く言う。
「お前がここまで他人のために狂ったのは初めてだな」
「……」
「お前はいつも冷静だった。数字しか信じない男だった」
劉邦は韓信を見る。
「そのお前が、全キャリアを賭けると言う」
沈黙の後。
劉邦は笑った。
「なら乗る」
樊噲たちが絶句する。
「ただし、中途半端な採用はしねえ」
劉邦は周囲を見渡した。
「全軍を集めろ」
その声は、圧倒的だった。
「漢中に“拝命の壇”を作る。全員の前で、正式に韓信を大将軍へ任命する」
三日後。
荒野の中央に、巨大な木造の壇が築かれた。
数万人の兵士が、その周囲を埋め尽くしている。
ざわめきが広がる。
「あれが韓信か……?」
「本当にあの倉庫番を?」
太鼓が鳴る。
壇上には劉邦と蕭何。
そして韓信が、ゆっくり階段を登ってきた。
その歩みには、一切の迷いがなかった。
劉邦が斧鉞を掲げる。
「韓信」
声が響く。
「本日より、お前を大将軍に任命する」
全軍が息を呑む。
「全兵力。全予算。全指揮権を、お前に委ねる」
韓信は跪かなかった。
真っ直ぐ立ったまま、斧鉞を受け取る。
「拝命いたします」
地鳴りのようなざわめき。
だが韓信は気にしなかった。
そのまま兵士たちを見下ろす。
「では、最初の戦略を説明します」
空気が変わった。
「まず、既存の戦術は全て破棄します」
樊噲が怒鳴る。
「なんだと!?」
韓信は巨大な布を広げた。
そこには、秦の詳細な地図。
そして、異様なまでに精密な侵攻ルート。
「陳倉街道は封鎖されています。正面突破は不可能」
韓信の指が、誰も見向きもしなかった崩落地帯を指す。
「だから、廃道を通ります」
場が凍った。
「馬鹿な!」
曹参が叫ぶ。
「あんな道、大軍が通れるわけがない!」
「だから敵は警戒しない」
韓信は即答した。
「そして補給ですが――」
その視線が蕭何へ向く。
「我が軍のCFOが、すでに解決済みです」
蕭何の呼吸が止まった。
韓信は続ける。
「秦の戸籍データから、山岳輸送用の隠し労働力を算出済み。さらに新型の搬送車両も準備している」
蕭何の背筋に寒気が走る。
その計画は、誰にも見せていない。
極秘だった。
だが韓信は、蕭何の生データを一度見ただけで、全部理解していた。
完全に。
「表では陳倉街道を修理するフリをする」
韓信の口元が歪む。
「敵が正面を警戒した瞬間、我々は裏から中央市場へ滑り込む」
沈黙。
誰も声を出せなかった。
「戦略名――明修桟道、暗渡陳倉」
韓信は笑う。
その笑みは、美しく。
そして狂っていた。
「項羽を市場から追放します」
最後に、韓信は蕭何を見た。
「最初の三日で兵糧消費は四・五倍になります」
静かな声。
「本社。耐えられますね?」
蕭何は凍りついていた。
理解してしまったからだ。
この男は、天才ではない。
乱世そのものを書き換える“怪物”だ。
秦のデータ。
兵站。
市場。
人心。
全部を材料にして、戦争を再設計している。
だが――。
蕭何は算盤を弾いた。
乾いた音が響く。
「予算執行を承認します」
口元が、わずかに歪む。
「我が社の限界キャッシュフロー。前線で証明してみせましょう」
漢中の空に、冷たい風が吹いた。
楚漢戦争という名の、史上最大のリバースM&Aが。
今、始まった。
第10話:了
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




