第8話:項羽の遅れての入城――「資産目録の作成中につき、勝手な持ち出しは認めません」
「漢中への左遷……。終わった。完全に終わったぜ、俺たちの会社はよ……」
咸陽の夜。
漢王へ封じられた劉邦軍の陣営は、通夜みたいに静まり返っていた。
焚き火の前で頭を抱えているのは樊噲だ。
鴻門の会で命が助かった安堵は、一瞬で消えた。
代わりに残ったのは、「僻地への島流し」という現実だった。
「巴蜀に漢中だぞ!? 山しかねえ! 毒虫と罪人しかいねえ隔離病棟みてえな土地だ! あそこへ行けってのは、実質『死ね』ってことだろ!」
「せっかく咸陽に一番乗りしたのに、手に入ったのが岩山だけとか、笑えねえよ……」
兵たちの空気も重い。
天下の富という「ボーナス」が、目の前で消えたのだ。
現代で言えば、東証プライム上場を信じて激務に耐えていた社員が、突然「地方の限界集落へ転勤」と告げられたようなものだった。
大量離職が起きても、おかしくない。
「皆さん、なぜ業務停止したような顔をしているのですか」
暗闇から、冷たい声が響いた。
大量の竹簡を抱えたまま、私は焚き火の前へ歩み寄る。
樊噲が、心底うんざりした顔を向けてきた。
「蕭何……。お前、まだそんな薪の山を抱えてんのかよ。俺たちは漢中送りなんだぞ? そんな古いデータ、山奥で何に使うんだ」
「大いに使います」
私は竹簡を机へ置いた。
そして、眼鏡を押し上げる仕草をする。
もちろん今世に眼鏡はない。前世の癖だ。
「項羽から命じられたのは、本社移転と担当エリアの限定です。我々の法人格は消滅していません」
「それに――」
私は竹簡を軽く叩いた。
「私が差し押さえた秦の国家データベース。その所有権も、まだ我々にあります」
「これを持ち出せれば、漢中を最強のバックオフィスへ変えられる」
「……本気ですか、蕭何殿」
闇から現れた張良が、静かに羽扇を揺らした。
その瞳には絶望ではなく、思考を解析する光が宿っていた。
「本気です」
私は即答した。
「前世で見ました。不採算として切り捨てられた子会社が、独自技術だけ抱えて潜伏し、数年後に親会社を逆買収した事例を」
「今の我々は、その潜伏期間に入るだけです」
「逆買収、ですか」
張良が、小さく笑う。
「ですが問題があります。項羽が、そのデータを大人しく持ち出させるでしょうか?」
「彼は明日にも咸陽を焼き払いますよ」
「分かっています」
私は筆を握り直した。
「だからこそ、破壊される前に『資産ロック』をかけに行きます」
「……張良殿。付き合っていただけますね?」
「ええ、喜んで」
張良が不敵に笑う。
「天才の暴走を、監査で止める現場。特等席で見物しましょう」
翌朝。
咸陽は恐怖に沈んでいた。
地響きと共に、項羽率いる四十万の楚軍が入城したのだ。
「秦の残党を叩き出せ!」
「財宝は全部楚へ運べ!」
「逆らう奴は殺せ!」
彼らは軍隊ではない。
企業資産を解体して売り払う、巨大なハゲタカファンドそのものだった。
項羽は阿房宮の前で馬を止めた。
重瞳が、壮麗な宮殿を睨む。
「これが秦の象徴か。反吐が出る」
「範増。この街ごと焼け」
「秦の歴史など、一文字も残す必要はない」
「お待ちください、項羽様!」
範増が止める。
「まず財宝の精査を――」
「不要だ!」
項羽が怒鳴った。
「俺の武力こそ法だ!」
そして、松明を掲げる。
その瞬間。
「ストップです!」
広場に、私の声が響いた。
楚軍四十万が、一斉にこちらを向く。
白衣の私。
その後ろに立つ張良。
さらに竹簡を抱えた役人たち。
「……また貴様か」
項羽が顔を歪める。
その視線だけで、後ろの役人たちは震え始めた。
だが私は引かない。
前世で、何百億もの不正を隠そうとするワンマン社長の怒号を浴び続けた。
この程度の圧力で、監査は止まらない。
「現在、咸陽の国家資産は、我が劉邦軍による資産目録作成中です」
「手続き完了前の持ち出し、および破壊行為は認められません」
「……何だと?」
空気が変わる。
項羽の声だけで、大地が震えた。
「俺の戦利品をどうしようが、俺の勝手だろうが」
「誰に向かって指図している」
「指図ではありません」
私は竹簡を掲げた。
「内部統制です」
「昨日、項羽様は我々を漢王として正式承認した。そして、咸陽資産の管理業務を我々へ委託した」
「ならば、私の承認なしでの資産処分は、重大なコンプライアンス違反です」
「たとえ最高権力者でも、ルールを無視した組織は崩壊します」
「黙れ!」
項羽が巨剣を抜いた。
暴風が吹き荒れる。
だが私は、範増へ視線を向けた。
「範増先生。あなたなら分かるはずだ」
「今ここで地図と戸籍を焼けば、楚軍は今後、どこから兵糧を徴収すればいいのか、その根拠を永久に失う」
「それは、自ら黒字倒産へ向かうのと同じです」
範増の表情が変わった。
老参謀は理解したのだ。
武力だけでは、国家は回らない。
「……項羽。待て」
範増が馬の手綱を掴む。
「宮殿はいつでも焼ける。だが、先にデータを奪え」
「それからでも遅くはない」
項羽は舌打ちした。
そして、私を睨む。
「三日だ」
「三日以内に目録を完成させろ」
「遅れたら、お前らごと灰にする」
「承知しました」
私は頭を下げた。
「定時までに、完璧な引き継ぎ資料を提出します」
楚軍を抜け、文書庫へ戻る。
張良が、ようやく息を吐いた。
「……肝が冷えましたよ」
「まさか、項羽相手に社内規程を叩きつけるとは」
「数字とルールへの信頼です」
私は机へ向かった。
「張良殿。時間がありません」
「三日以内に、合法的な資産隠蔽を完了させます」
「隠蔽?」
「項羽へ渡すのは、金銀財宝だけ記したダミー目録です」
私は竹簡を並べた。
「本当に価値があるのは、戸籍原本と軍事地図」
「それらは全てコピーし、漢中へ運びます」
張良の目が見開かれる。
「……なるほど」
「価値の低い資産だけ見せ、本当の知的財産を隠すわけですか」
「完璧な情報操作ですね」
「リスクヘッジと呼んでください」
そこからの三日間。
私たちは一睡もせず、竹簡を書き写し続けた。
算盤の音。
筆の音。
竹簡が擦れる音。
それだけが、深夜の文書庫に響く。
胸が痛む。
前世で死ぬ直前の感覚が蘇る。
あと6%。
その数字を見たまま、私は死んだ。
視界が霞む。
指先が痺れる。
「……また、同じか」
脳内で警告音が鳴り続ける。
だが、今世は違う。
私の後ろには、あの無能なCEOがいる。
「お前がいるから負けない」
そう言った男がいる。
「終わらせる……!」
私は最後の竹簡へ、承認印を叩きつけた。
「完了!」
「国家資産バックアップ、100%終了しました!」
その瞬間。
外から爆発音が響く。
三日の猶予が切れたのだ。
咸陽が燃えていた。
項羽は約束通り、阿房宮へ火を放った。
黒煙が天を覆う。
数百年の帝国が、灰へ変わっていく。
楚軍は歓声を上げていた。
だが、彼らは知らない。
本当に価値あるデータは、すでに別の馬車で西へ向かっていることを。
「……酷い光景ですね」
炎を見つめながら、張良が呟く。
「歴史も文化も、全部焼くとは」
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「これで勝負は決まりました」
西へ進む輸送馬車。
そこに、天下そのものが積まれている。
「項羽は目に見える資産だけ奪った」
「だが、データを失った組織は、必ず兵糧不足で崩壊します」
「我々が漢中でシステムを完成させた時。楚の滅亡は始まります」
「……行きましょう」
「我々の新しいオフィスへ」
劉邦軍十万の、西行が始まった。
険しい蜀の山道。
終わりの見えない移転作業。
その直後。
私は毎朝提出されるheadcount推移を見て、目を疑った。
「兵力、前日比マイナス500名。逃亡」
「士気指数、測定不能」
「……および、新規採用希望者、1名」
「新規採用?」
私は眉をひそめる。
「この崖っぷちの会社に入りたい狂人が?」
部下が、一枚の竹簡を差し出した。
そこには、異様なほど自信に満ちた文字があった。
『面接希望』
『希望役職:大将軍』
『私の軍略は天下無双』
『項羽の四十万など、不良債権に過ぎない』
「……何者だ」
私は馬車の外を見る。
険しい山道の先。
一人の青年が立っていた。
股くぐりの屈辱で知られる、元・項羽軍の最下層兵卒。
だが私は、まだ知らない。
その男が持つ、「軍事」という名の最大資産を。
男の名は――韓信。
漢王朝を世界最強企業へ変える天才執行役員が、今、最悪のタイミングで蕭何の前に現れようとしていた。
第8話:了
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




