第39話 蕭規曹随の奇跡
長安の街を歩く。
相国府は目の前だった。
引退してまだ日が浅い。
それなのに妙な懐かしさがあった。
門をくぐった瞬間だった。
どっと笑い声が押し寄せる。
手拍子。
歌声。
酒宴のざわめき。
蕭何は足を止めた。
隣を歩く若い役人が肩を落とす。
「毎日でございます」
力なく言う。
「朝から晩まで、あの調子で……」
蕭何は何も答えなかった。
そのまま奥へ進む。
扉を開く。
むわりと酒の匂いが流れ出た。
役人たちが輪になって騒いでいる。
中央には大杯を抱えた男。
曹参だった。
「おお」
曹参は顔を上げる。
「来たか」
まるで昨日別れた友を見る顔だった。
「良い酒だぞ」
蕭何は部屋を見回した。
机の上。
積み上がる竹簡。
埃をかぶっている。
「皆、下がれ」
静かな声だった。
だが十分だった。
役人たちは慌てて部屋を飛び出していく。
扉が閉まる。
二人だけになる。
しばらく沈黙が続いた。
「約束したはずだ」
蕭何が言う。
「国を任せると」
「任されているさ」
曹参は酒を口に運ぶ。
「そのようには見えぬ」
「そうか」
曹参は笑った。
だが目は笑っていない。
「変えたか?」
ぽつりと聞く。
「何をだ」
「お前が残したものを」
蕭何は黙った。
「変えておらぬ」
曹参は続ける。
「一文字たりともな」
◇
翌日。
二人は宮中へ呼ばれた。
恵帝が怒っている。
誰の目にも明らかだった。
「曹参!」
若き皇帝の声が響く。
「そなたは何をしておる!」
曹参は伏したまま動かない。
「民は不安がっている!」
「……」
「百官も戸惑っている!」
怒声が飛ぶ。
だが曹参は静かだった。
やがて口を開く。
「陛下」
「何だ」
「一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
恵帝は眉をひそめる。
「申せ」
「陛下と先帝」
曹参は顔を上げた。
「どちらが優れておられますか」
恵帝は息を呑む。
「父上だ」
即答だった。
「私など及ばぬ」
曹参は頷く。
「ではもう一つ」
「何だ」
「私と蕭何」
曹参は隣を見る。
「どちらが優れておりますか」
恵帝は苦笑した。
「比べるまでもない」
そして言う。
「蕭何だ」
曹参は深々と頭を下げた。
「その通りにございます」
静かな声だった。
「先帝は賢明でした」
「……」
「蕭何は誰よりも先を見ておりました」
玉座の間が静まり返る。
「ならば私のような男が、何を変える必要がありましょう」
恵帝の目が見開かれる。
呂后も黙っていた。
「優れた家を建てた者がおります」
曹参は続けた。
「その家が風雨にも耐えている」
「……」
「そこへ後から来た者が壁を壊し柱を削ればどうなりましょう」
誰も答えない。
「家は傾きます」
曹参は言った。
「私は壊したくないだけです」
蕭何は目を閉じた。
胸の奥で何かがほどける。
ようやく分かった。
曹参は何もしていないのではない。
守っていたのだ。
誰よりも頑固に。
誰よりも忠実に。
◇
宮殿を出たあと。
二人は並んで歩いた。
夕日が長安を赤く染めている。
「怒られたな」
曹参が笑う。
「当然だ」
蕭何も笑った。
久しぶりだった。
こんな風に笑ったのは。
「だが安心した」
蕭何は言う。
「お前なら大丈夫だ」
曹参は肩をすくめる。
「お前ほど器用ではない」
「十分だ」
「そうか?」
「十分だ」
二人は立ち止まった。
長安の街が見える。
人が行き交う。
商人が声を張る。
子供が走り回る。
平和だった。
血で奪った天下。
その果てにようやく手に入れた日常。
「覚えているか」
曹参が言った。
「沛県の頃だ」
蕭何は笑う。
「忘れるものか」
「あの頃のお前は毎日怒っていた」
「誰かが後始末をせねばならなかった」
「今も同じだな」
二人は声を上げて笑った。
その笑い声は昔と変わらなかった。
◇
夜。
庵へ戻る。
静かな夜だった。
虫の声だけが聞こえる。
蕭何は茶を淹れた。
湯気が立つ。
窓の外には夕焼けの名残。
不思議なほど穏やかだった。
もう心配はいらない。
曹参がいる。
国は続く。
自分の役目も終わった。
本当に。
ようやく終わったのだ。
茶碗を口へ運ぶ。
その瞬間だった。
胸の奥で何かが弾けた。
ドクン。
嫌な音がした。
「……っ」
息が詰まる。
茶碗が手から滑り落ちた。
乾いた音。
床に破片が散る。
激痛だった。
胸を鷲掴みにされる。
そんな痛み。
「ぐっ……」
膝が崩れる。
視界が揺れる。
息が吸えない。
この感覚を知っていた。
忘れるはずがない。
前世。
徹夜明けの事務所。
冷たい床。
遠ざかる意識。
あの日と同じだった。
(またか……)
床に手をつく。
指先が震える。
(まだ終わっていないのか)
必死に顔を上げる。
窓の向こう。
長安の空が燃えていた。
見事な夕焼け。
人生の終わりを飾るには、あまりにも美しい色。
視界がぼやける。
その時だった。
庵の門の向こうに、人影が見えた。
誰かがいる。
こちらへ歩いてくる。
逆光で顔は見えない。
だが、その姿には見覚えがあった。
(まさか……)
遠のく意識の中。
蕭何は目を見開いた。
その人物は、静かに庵の門へ手をかける。
第39話 了
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