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【悲報】転生先でも定時退社できない。――過労死会計士、劉邦のCFO・蕭何になる【完結済/シリーズもの/一気読み推奨】  作者: 筑紫隼人
第5章:セルフ粉飾決算と最後の退職届

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第38話 恵帝の即位と曹参への引き継ぎ

 蕭何の手が止まった。


 印章は竹簡の上ではなく、長机へ静かに置かれる。


 小さな音だった。


 だが、その場にいた誰もが聞き逃さなかった。


 呂后の眉が動く。


「相国」


 低い声だった。


「なぜ押さないのです」


 蕭何は顔を上げた。


「太后様」


「申してみなさい」


「この印を押せば、漢は今日終わります」


 空気が凍った。


 近衛兵たちの手が剣へ伸びる。


 呂后の目が細くなった。


「脅しですか」


「事実です」


 蕭何は一歩も退かなかった。


「周勃にも灌嬰にも兵がおります」


「首を刎ねれば済むこと」


「その後は」


 蕭何は静かに問い返した。


「将たちが消えたと知った軍勢は、誰に従いましょう」


 呂后は黙る。


「主を謀殺された兵は怒ります」


「……」


「各地で火の手が上がるでしょう」


 蕭何は続けた。


「新帝が即位する前に国は裂けます」


 長い沈黙。


 灯火が揺れる。


 壁に映る呂后の影が伸びた。


 やがて彼女は息を吐く。


「ならばどうするのです」


 その声から怒気が消えていた。


 蕭何は答えた。


「曹参を呼びます」


「曹参」


「先帝の遺志です」


 呂后の目がわずかに動く。


「陛下は病床で申されました」


 もちろん事実だった。


「次の相国は曹参にせよ、と」


 部屋が静まり返る。


「なぜ、あの男です」


「古い功臣たちに顔が利く」


 蕭何は言う。


「兵も官も納得するでしょう」


「……」


「まず国を落ち着かせることです」


 呂后はしばらく考えていた。


 やがて竹簡を閉じる。


「分かりました」


 近衛兵たちが剣から手を離した。


 蕭何は胸の奥で小さく息を吐いた。


 ひとまず血は流れない。


 それだけで十分だった。


   ◇


 翌日。


 劉邦崩御の報が長安に広がった。


 街は泣き声に包まれる。


 だが蕭何に立ち止まる暇はなかった。


 国葬。


 即位。


 百官への通達。


 山のような仕事が押し寄せる。


 昼も夜もなかった。


 筆を握る指は腫れ上がる。


 額の傷も開いた。


 それでも手を止めなかった。


 ここで倒れるわけにはいかない。


 一か月後。


 ようやく全てが終わる。


 新帝は無事に即位した。


 国も乱れなかった。


 そして斉から一人の男が到着する。


 曹参だった。


 旅の埃をまとったまま書斎へ入る。


「待たせたな」


 蕭何は笑った。


「いや、間に合った」


 机の上には大量の竹簡が積まれていた。


 曹参は目を丸くする。


「何だこれは」


「漢だ」


 蕭何は答えた。


「この国そのものだ」


 税。


 裁き。


 官吏の任免。


 兵糧。


 戸籍。


 国を動かすための知恵が詰まっている。


 曹参は一冊ずつ目を通した。


 やがて大きく息を吐く。


「よくここまでやったな」


「好きでやったわけではない」


 蕭何は苦笑した。


「誰もやらなかっただけだ」


 曹参も笑う。


 若い頃から変わらぬ笑い方だった。


 蕭何は印章を取り出す。


 そして曹参の手に握らせた。


「後は頼む」


 曹参は無言だった。


 その重みを知っていたからだ。


「一つだけ約束しろ」


「何だ」


「変えるな」


 蕭何は真っ直ぐ見た。


「今は何も変えるな」


「……」


「余計なことをするな」


 曹参はゆっくり頷く。


「分かった」


 その言葉を聞いた瞬間。


 蕭何の肩から何かが落ちた。


 二十年以上背負ってきた重石だった。


   ◇


 長安郊外。


 小さな庵。


 蕭何はそこへ移り住んだ。


 朝起きる。


 茶を飲む。


 庭を眺める。


 それだけの日々。


 誰も訪ねてこない。


 誰も命令しない。


 誰も泣きついてこない。


 静かだった。


 本当に静かだった。


 夢に見た暮らし。


 ようやく手に入れた時間。


 蕭何は湯気の立つ茶碗を見つめる。


 これで終わった。


 そう思っていた。


 だが数日後。


 庵の門が激しく叩かれる。


「蕭何様!」


 飛び込んできた若い役人は顔面蒼白だった。


「何事だ」


「大変です!」


 息を切らしながら叫ぶ。


「曹参様が!」


 蕭何の眉が動く。


「曹参がどうした」


「何もしません!」


「……何だと」


「役所へ出ても書類を見ないのです!」


 蕭何は茶碗を置いた。


「病か」


「違います!」


 役人は半泣きだった。


「毎日酒です!」


 蕭何は固まった。


「昼から宴を開き、役人を集めて飲み続けております!」


「……」


「進言した者も追い返されました!」


「……」


「誰も理由が分からないのです!」


 静寂。


 風が庭木を揺らした。


 蕭何はゆっくり立ち上がる。


 あの曹参が。


 誰よりも国を理解している男が。


 なぜ。


「まさか……」


 嫌な予感が胸をよぎる。


 そしてその予感は、経験上ほとんど外れない。


 蕭何は空を見上げた。


 せっかく手に入れた穏やかな日々。


 それが音を立てて崩れていく。


「曹参」


 思わず呟く。


「お前は何を企んでいる」


 遠く長安の方角で、黒い雲がゆっくりと広がっていた。


 第38話 了

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。


『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』

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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!


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