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【悲報】転生先でも定時退社できない。――過労死会計士、劉邦のCFO・蕭何になる【完結済/シリーズもの/一気読み推奨】  作者: 筑紫隼人
第5章:セルフ粉飾決算と最後の退職届

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第36話:泥棒相国ーー民の憎悪と引き換えに守ったもの

 障壁が倒れる轟音とともに、砂埃が舞い上がった。


 劉邦の剣先が、蕭何の喉元で止まる。


 その間へ割って入った男がいた。


「陛下、お待ちください!」


 召平だった。


 かつて蕭何に見出され、長安の整備を支えてきた若い文官である。


 召平は床へ額を叩きつけた。


「相国を斬ってはなりませぬ!」


「退け」


 劉邦の目が冷たく光る。


「お前も死にたいか」


「それでも申し上げます」


 召平は顔を上げた。


「相国がなぜ土地を買い集めたのか。本当にお分かりにならないのですか」


「脅しだろうが」


 劉邦が吐き捨てる。


「俺の国を人質に取るためだ」


「違います」


 召平は叫んだ。


「逆です!」


 寝殿が静まり返る。


「相国は、自らの名声を捨てるためにやったのです」


 劉邦の眉が動いた。


「陛下は何を恐れておられましたか」


 召平は続けた。


「韓信が消え、彭越が消えたあとも、なお恐れていたものがあります」


「……」


「蕭何の人望です」


 劉邦は黙った。


「民は相国を慕っております。関中の誰もが知っております」


「だから相国は、自ら泥を被ったのです」


「民の信を失えば安心できる。そう考えられたのです」


 召平は竹簡を拾い上げた。


「ご覧ください」


「横領の記録があまりにも露骨です」


「隠す気など最初からございません」


「誰が見ても悪人に見えるように書いてある」


「なぜか」


「陛下に安心していただくためです」


 沈黙。


 松明だけが揺れていた。


 劉邦の剣先がゆっくり下がる。


「……本当か」


 低い声だった。


 蕭何は頭を上げた。


「私は生きたかっただけにございます」


 その言葉に、寝殿の空気が変わった。


「この国には陛下がおられる」


「私はその下で帳簿をつけるだけの男です」


「名声など不要でした」


「だから捨てました」


 劉邦はしばらく蕭何を見つめていた。


 やがて。


 剣が床へ落ちた。


 甲高い音が響く。


「あはっ……」


 劉邦が笑う。


「ははははは!」


 寝殿中に笑い声が広がった。


「あのじじいめ!」


「そこまで考えてやがったのか!」


 審食其も呂后も言葉を失っていた。


 劉邦は涙が出るほど笑った。


「俺はな」


「お前が俺を出し抜こうとしてると思ってた」


「だが違った」


「お前は俺から逃げようとしてただけか」


 蕭何は何も答えない。


「審食其」


「はっ」


「鎖を外せ」


 審食其が慌てて動く。


 重い鉄鎖が外された。


「出ていけ」


 劉邦は笑ったまま言った。


「その代わり土地は返せ」


「全部だ」


「一畝たりとも誤魔化すなよ」


「御意」


 蕭何は深く頭を下げた。


 牢へ送られた時よりも、遥かに疲れた顔だった。


 だが。


 その胸は不思議なほど軽かった。


   ◇


 長安の街は荒れていた。


 蕭何が釈放されたという噂が広がったからだ。


 かつてなら歓声が上がった。


 今は違う。


「泥棒だ!」


 石が飛んだ。


 馬車の側面に当たり、乾いた音が響く。


「土地を返せ!」


「俺たちを騙したな!」


 怒号が続く。


 御者が怯えた顔で振り返った。


「相国様……」


「そのまま進め」


 蕭何は御簾を上げた。


 怒鳴っているのは見覚えのある顔ばかりだった。


 戦で家を失った男。


 食糧を分け与えた老人。


 戸籍整理で救った農民。


 皆が自分を憎んでいる。


 それでよかった。


 歓声より罵声の方が今の自分を守ってくれる。


 小石が額をかすめた。


 血が流れる。


 それでも蕭何は目を閉じただけだった。


 ようやく生き残れた。


 その実感が静かに胸へ広がっていた。



 相国府の門をくぐると、曹参が待っていた。


 その顔には疲労が滲んでいる。


「相国」


「心配をかけたな」


 蕭何は馬車を降りた。


 服についた埃を払う。


「お怪我は」


「見ての通りだ」


 蕭何は苦笑した。


「しぶとく生きている」


 曹参は小さく安堵の息を吐く。


「土地の件だ」


 蕭何は歩き出した。


「返還の準備を進めろ」


「すべてですか」


「すべてだ」


「元の持ち主へ返す」


「一人残らずな」


 曹参は深く頭を下げた。


「承知しました」


 少しの沈黙。


 やがて曹参が口を開く。


「最初から、そのつもりだったのですね」


「さてな」


 蕭何は肩をすくめた。


「結果として生き残った」


「それだけだ」


「ですが相国の名は……」


 蕭何は立ち止まる。


 そして静かに振り返った。


「名など風だ」


「吹けば消える」


「残るのは仕組みだけだ」


 そう言い残し、書斎へ向かった。


   ◇


 久しぶりの書斎だった。


 静かだった。


 あまりにも静かだった。


 直訴状もない。


 決裁を求める役人も来ない。


 誰もいない。


 蕭何は机の前へ座った。


 白い竹簡が積まれている。


 ここから先は最後の仕事だ。


 自分がいなくても国が回る形を整える。


 曹参へ引き継ぐ。


 余計な例外を潰す。


 穴を埋める。


 それが終われば。


 本当に終われる。


 蕭何は筆を取った。


 その時だった。


「いい部屋だな」


 低い声が響いた。


 蕭何の手が止まる。


 ゆっくり振り返った。


 部屋の奥。


 障子の影。


 ひとりの男が座っていた。


 酒の入った瓢箪を抱えている。


 劉邦だった。


 蕭何の表情が固まる。


「陛下」


「固いな」


 劉邦が笑う。


「今日は仕事じゃねえ」


「昔話だ」


 立ち上がる。


 足取りは危うい。


 顔色は土のようだった。


 数日前よりさらに悪い。


 死が近い。


 一目で分かった。


「お前の勝ちだよ」


 劉邦が言う。


「見事に逃げ切りやがった」


「逃げたつもりはございません」


「嘘つけ」


 劉邦が笑った。


「お前は昔からそうだ」


「手柄なんか欲しがらねえ」


「みんなが前へ出る時も、お前だけは帳簿の後ろに隠れてた」


 蕭何は答えない。


「俺は引っ張り出した」


「何度もな」


「だが結局、お前は裏方のままだった」


 劉邦は瓢箪を傾けた。


 酒を飲む。


 その直後だった。


「ごほっ!」


 激しい咳。


 身体が折れ曲がる。


「陛下!」


 蕭何が立ち上がる。


 次の瞬間。


 鮮血が噴き出した。


 机の上の竹簡が真っ赤に染まる。


 劉邦の身体がよろめいた。


 蕭何が支えようとする。


 だが。


 骨ばった手が胸倉を掴んだ。


 驚くほど強い力だった。


「だがな……」


 血まみれの口が動く。


「蕭何」


 その目には恐怖があった。


 戦場を駆け抜けた英雄の目ではない。


 死を前にした男の目だった。


「俺が死んだあと」


 掠れた声が続く。


「お前の法を握るのは誰だ」


 蕭何は答えられない。


「呂后だ」


 その名が落ちた瞬間。


 部屋の空気が凍った。


「韓信は終わった」


「彭越も終わった」


「だが、あれは始まりだ」


 劉邦の指が震える。


「俺が死ねば誰も止められねえ」


「お前の作った法も」


「お前の作った仕組みも」


「全部あいつの武器になる」


 蕭何の背筋に冷たいものが走った。


 呂后。


 韓信を殺した女。


 笑顔で人を消せる女。


「人は法で縛れる」


 劉邦が笑う。


 乾いた笑いだった。


「だがな」


「法を握った化け物は、もっと厄介なんだよ」


 血が滴る。


 白い竹簡へ落ちた。


「お前は終わったと思ってる」


「だが違う」


 劉邦が蕭何を睨む。


「まだ終わってねえ」


「これからだ」


 その目は異様な光を宿していた。


「本当の地獄はな」


 呼吸が止まりそうになる。


「これから来る」


 掴んでいた手が離れた。


 劉邦の身体が崩れ落ちる。


「陛下!」


 蕭何が抱き留める。


 返事はない。


 意識を失っていた。


 書斎は静まり返る。


 聞こえるのは荒い呼吸だけ。


 蕭何は動けなかった。


 机の上を見る。


 血に染まった竹簡。


 そこには自分が作った法がある。


 国を守るために作ったもの。


 争いを減らすために作ったもの。


 だが。


 もし劉邦の言葉が正しいなら。


 それは次の怪物に牙を与えることになる。


 窓の外で風が鳴った。


 不吉な音だった。


 蕭何は血のついた竹簡を握り締める。


 ようやく終われると思っていた。


 だが違った。


 自分の仕事は、まだ終わっていなかった。


 第36話 了

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。


『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』

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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!


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