第35話:究極のリスクヘッジ――牢獄から国家を人質に取った公認会計士
松明の火が揺れた。
竹簡に刻まれた文字が、そのたびに明滅する。
蕭何は目を細めた。
そこに記されていた名を見て、言葉を失う。
樊噲。
沛県の頃からの仲間だった。
劉邦が何度窮地に陥っても、その前に立ち続けた男。
呂后の妹の夫でもある。
まぎれもない身内だ。
その名が、粛清対象の一覧にあった。
「驚かれましたか」
呂后が静かに言った。
感情の色はない。
「陛下は、もう誰も信じておられません」
蕭何は黙った。
「樊噲が自分の死後に兵を挙げる。本気でそう考えておられます」
冷たい空気が流れる。
英布は滅んだ。
外敵は消えた。
だから今度は味方を疑う。
死を目前にした劉邦の猜疑心は、もはや理屈ではなかった。
「私に何をしろと」
蕭何は低く尋ねた。
呂后は竹簡を鉄格子越しに差し出した。
「罪状を作ってください」
「……」
「軍費横領。私兵の蓄積。反乱の準備」
淡々と告げる。
「あなたが書けば誰も疑いません」
蕭何は目を閉じた。
断れば死ぬ。
従えば友を売る。
見事な詰みだった。
だが。
蕭何の思考だけは止まらなかった。
追い詰められた時こそ数字を見る。
出口がないなら作る。
それが会計士の仕事だった。
やがて蕭何は顔を上げる。
「承知しました」
呂后の眉がわずかに動く。
「ただし条件があります」
◇
「条件?」
「私を牢から出さないでいただきたい」
呂后は初めて怪訝そうな顔をした。
「ここで書きます」
蕭何は鉄格子を見上げた。
「樊噲の件も、私自身の件も」
「自分自身?」
「ええ」
蕭何は床に落ちた冠を拾った。
埃を払う。
「私はもう善人ではありません」
民に石を投げられた。
長安中が知っている。
ならば利用するまでだ。
「悪党なら悪党らしく振る舞います」
しばらく沈黙が続いた。
やがて呂后は頷く。
「いいでしょう」
「必要なものは」
「すべて用意してください」
「分かりました」
松明の灯りが遠ざかる。
再び扉が閉まった。
重い音が地下に響く。
しかし蕭何の表情は落ち着いていた。
やるべきことが見えたからだ。
◇
翌朝。
牢の前に大量の竹簡が積み上げられた。
墨。
筆。
帳簿。
役人たちが次々と運び込む。
その様子を曹参が見つめていた。
「相国」
鉄格子に近づく。
「本当にここで仕事を?」
「問題ない」
蕭何は筆を取った。
「外より静かだ」
曹参は苦笑した。
だが目は笑っていない。
「民の怒りが収まりません」
「そうだろうな」
「土地の件もあります」
「続けろ」
曹参は目を見開いた。
「続けるのですか」
「続けろ」
蕭何は繰り返した。
「途中でやめれば不自然になる」
曹参は何か言いかけた。
しかし飲み込む。
長い付き合いだ。
蕭何が決めた時は止まらない。
「承知しました」
頭を下げて去っていく。
足音が消える。
地下に静寂が戻った。
蕭何は筆先を墨に沈めた。
そして書き始める。
樊噲を裁くための報告書。
そしてもう一つ。
もっと重要なものを。
◇
数日後。
相国府は混乱していた。
「何だこれは」
「本当に相国の命令なのか」
役人たちが顔を見合わせる。
牢から届く指示が異常だった。
「東倉の米を移せ」
「南方税収の管理先を変更しろ」
「こちらもだ」
「こっちもです」
命令は次々届く。
しかも全て正式な決裁印付き。
偽造ではない。
紛れもなく蕭何本人のものだった。
やがて帳簿が積み上がる。
そこに記された内容を見て、役人たちは青ざめた。
横領。
私物化。
不正流用。
どれも重罪だった。
しかも隠していない。
帳簿に堂々と残している。
「正気か……」
誰かが呟いた。
だが誰も止められない。
蕭何は牢の中にいる。
すでに失脚した身だ。
今さら罪が一つ増えても変わらない。
問題は別にあった。
その帳簿を読み込んだ者だけが気づく。
米。
税。
兵糧。
人員。
輸送。
すべてが複雑に結び付いている。
一つ外せば別が止まる。
二つ崩せば全体が止まる。
蕭何は何年もかけてそれを整えてきた。
だから誰より理解していた。
どこを抜けば国が止まるのかを。
牢の中で蕭何は静かに笑った。
「気付くかな」
積み上がる帳簿を見上げる。
「気付かない方が怖いがな」
◇
長楽宮。
審食其が慌ただしく寝殿へ駆け込んだ。
「陛下!」
劉邦は顔をしかめた。
「今度は何だ」
「蕭何です」
その名を聞いた瞬間。
劉邦の目が鋭くなる。
「何をやらかした」
「それが……」
審食其は抱えていた竹簡を差し出した。
かなりの量だった。
「牢から報告書を送って参りました」
劉邦は一冊を開く。
そして眉をひそめた。
さらに次を読む。
また次を読む。
空気が変わる。
最初は呆れだった。
次に苛立ち。
そして。
徐々に別の色へ変わっていく。
劉邦の顔から笑みが消えた。
劉邦の顔から笑みが消えた。
「審食其」
「はっ」
「これを誰が作った」
「蕭何本人です」
「分かってる」
劉邦は苛立たしげに竹簡を投げた。
「そんなことは見れば分かる」
再び別の竹簡を開く。
米の流れ。
税の流れ。
兵糧の流れ。
人の流れ。
一見すると横領記録だ。
だが違う。
読み進めるほど分かる。
これは帳簿ではない。
地図だ。
漢王朝を動かしている血管の地図だった。
「……あの野郎」
劉邦の顔が歪む。
「気付きましたか」
「気付くわ」
竹簡を握る手に力が入る。
「ここを止めれば北方軍が飢える」
指が動く。
「ここを潰せば南方が麻痺する」
さらに別の箇所へ。
「こっちは役人への支払いだ」
審食其の顔が青ざめた。
彼もようやく理解した。
蕭何は金を盗んでいない。
国の急所に印を付けているのだ。
「陛下……」
「分かってる」
劉邦は吐き捨てた。
「俺への脅しだ」
静寂が落ちる。
やがて劉邦は笑った。
乾いた笑いだった。
「牢に入れたら終わると思った」
笑いながら咳き込む。
「だが違ったな」
血が口元を汚す。
「あいつは牢の中から国を握ってやがる」
◇
「あのじじいめ」
劉邦は竹簡を床へ叩きつけた。
寝殿に鈍い音が響く。
「殺せば済む話ではないな」
「はい」
審食其も苦い顔だった。
「相国府の役人に確認しました」
「それで」
「誰も動きませぬ」
劉邦は眉をひそめる。
「なぜだ」
「相国様しか分からないそうです」
また沈黙。
数年。
いや十年以上か。
蕭何は漢王朝の土台を作ってきた。
倉庫。
税。
兵糧。
官吏。
輸送。
誰も見ていない裏方を。
戦場で勝ったのは劉邦だ。
だが勝った軍を食わせていたのは蕭何だった。
その事実を今さら思い知らされる。
「気に入らねえ」
劉邦は呟いた。
「本当に気に入らねえ」
しかし認めざるを得ない。
蕭何がいなければ国は回らない。
「審食其」
「はっ」
「連れてこい」
劉邦は静かに言った。
「蕭何を」
◇
地下牢。
重い扉が開いた。
蕭何は筆を置く。
近衛兵が並んでいた。
「陛下がお呼びだ」
ついに来たか。
蕭何は立ち上がった。
鉄鎖が鳴る。
冷たい石畳を踏みしめる。
長い階段を上がる。
一段ごとに光が増えていく。
やがて宮殿へ出た。
異様な空気だった。
兵が並んでいる。
まるで戦場だ。
誰も口を開かない。
ただ蕭何を見ている。
寝殿の前で止まった。
扉が開く。
兵に押されて中へ入る。
劉邦がいた。
寝台の上ではない。
立っていた。
その手には剣。
抜き身だった。
呂后もいる。
審食其もいる。
誰も喋らない。
「蕭何」
劉邦が呼ぶ。
「ここに」
蕭何は膝をついた。
「面白い帳簿だった」
「恐れ入ります」
「褒めてねえ」
劉邦の声は低い。
「国を人質に取るとはな」
「人質など」
「取ってるだろうが」
怒鳴り声が響く。
兵たちが身を硬くする。
「俺を舐めるな」
劉邦が歩く。
一歩。
また一歩。
剣先が近づく。
「お前は思ったんだろ」
さらに近づく。
「殺せば国が困る」
剣が上がる。
「だから俺は殺せない」
刃先が喉元へ触れた。
冷たい感触。
あと少し動けば血が出る。
だが蕭何は動かなかった。
「違いますか」
劉邦が尋ねる。
「……」
蕭何は答えない。
沈黙が肯定に見えた。
劉邦は笑う。
だが目は笑っていない。
「勘違いするな」
剣先がさらに押し込まれる。
「俺はな」
劉邦の目が光った。
「国が壊れることなんか怖くねえ」
呂后が息を呑む。
「陛下」
「黙ってろ」
劉邦は視線を外さない。
「漢が滅ぶ?」
笑う。
「だから何だ」
咳き込む。
血が落ちる。
それでも笑う。
「俺は何もない所からここまで来た」
剣が震える。
「壊れるなら作り直せばいい」
蕭何は初めて理解した。
計算違いだった。
相手は皇帝ではない。
創業者だ。
損失を恐れない。
焼け野原からでもやり直す。
そういう人種だった。
「お前の帳簿など燃やせば終わりだ」
剣が引かれる。
次の瞬間。
突き出される。
その時だった。
轟音。
寝殿の奥で何かが崩れた。
全員が振り向く。
壁ではない。
障壁だ。
重い仕切りが倒れている。
「何事だ!」
兵が叫ぶ。
次の瞬間。
聞き覚えのある声が響いた。
「陛下! お待ちください!」
寝殿の空気が凍る。
その声に。
劉邦の顔色が変わった。
呂后も目を見開く。
あり得ない。
ここにいるはずがない。
だが確かに聞こえた。
倒れた障壁の向こう。
逆光の中に、一人の人影が立っていた。
そしてその人物は、まっすぐ劉邦を見据えて言った。
「その剣を振るう前に、私の話を聞いていただきたい」
蕭何は目を細めた。
なぜだ。
なぜ、この男がここにいる。
最悪の局面で現れた、その人物の姿に。
蕭何でさえ息を呑んだ。
第35話 了
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




