第34話:牙を剥く創業者ーー「お前はまだ、民の味方をやめていない」
額を伝う血が頬を流れ落ちる。
門前では怒号が渦を巻いていた。
「泥棒相国を許すな!」
「土地を返せ!」
相国府は群衆に囲まれていた。
石が飛ぶ。
怒鳴り声が飛ぶ。
誰も止まらない。
曹参が兵を率いて押し返しているが、焼け石に水だった。
蕭何は従者に支えられながら執務室へ戻った。
布で額を押さえる。
真っ赤だった。
思った以上だ。
ここまで民が怒るとは。
名声を捨てる。
それが狙いだった。
劉邦を安心させるため。
生き残るため。
だが民の怒りは予想を超えていた。
このままでは暴動になる。
長安そのものが揺らぐ。
「相国」
曹参が飛び込んできた。
「外は限界です」
「直訴は」
「山のように届いております」
机の上へ束が積まれる。
蕭何は一枚を開いた。
文字が震えている。
涙の跡もあった。
土地を返してくれ。
子供が飢える。
冬を越せない。
そんな言葉ばかりだった。
蕭何は目を閉じた。
しばらく黙る。
やがて立ち上がった。
「曹参」
「はい」
「陛下に会う」
曹参の顔色が変わる。
「今ですか」
「今だ」
「危険です」
「承知している」
だから行く。
もう後がなかった。
◇
長楽宮。
寝殿には薬の臭いが満ちていた。
劉邦は寝台に横たわっている。
顔色は悪い。
だが目だけは生きていた。
獲物を狙う狼の目だった。
「蕭何か」
劉邦が笑う。
「頭を割られたそうじゃねえか」
「不徳の致すところです」
「ははっ」
劉邦は愉快そうだった。
「民に石を投げられる相国か。傑作だな」
蕭何は黙った。
その沈黙を見て劉邦はさらに笑う。
「それで?」
「お願いがございます」
「金か?」
「違います」
直訴状を差し出す。
劉邦の目が細くなった。
「民からです」
「だから何だ」
「このままでは暴動になります」
「お前が始めた話だろう」
「承知しております」
蕭何は頭を下げた。
「だからこそ、お救い願いたいのです」
寝殿が静まり返る。
「申してみろ」
蕭何は息を吸った。
「上林苑を開放してください」
審食其が目を見開いた。
上林苑。
天子の遊猟地。
広大な森。
広大な土地。
だが今はほとんど使われていない。
「あの土地を民に耕させてください」
「……」
「薪を拾わせてください」
「……」
「そうすれば飢えは収まります」
劉邦は答えない。
ただ見ている。
じっと。
不気味なほど静かだった。
「終わりか」
「はい」
「なるほどな」
劉邦がゆっくり体を起こした。
包帯が赤く滲む。
それでも止まらない。
「蕭何」
「は」
「お前は本当に賢い」
声が低い。
「だから嫌なんだよ」
蕭何の背筋が冷えた。
「陛下?」
「民から土地を奪う」
劉邦が言う。
「民が怒る」
「……」
「そこで俺が上林苑を開放する」
劉邦の口元が歪んだ。
「するとどうなる?」
蕭何は答えられない。
「民は俺を褒めるか?」
劉邦が笑う。
「違うよな」
笑顔が消えた。
「全部お前の手柄になる」
空気が凍る。
「蕭何様が救ってくれた」
「蕭何様が陛下を説得した」
「民はそう言う」
劉邦は吐き捨てた。
「違うか?」
蕭何は言葉を失う。
「お前はまだやめてねえ」
劉邦の目が光った。
「民の味方をやめてねえんだ」
◇
「陛下」
「黙れ」
怒声が響く。
咳が止まらない。
血が口元に滲む。
それでも劉邦は蕭何を睨み続けた。
「韓信もそうだった」
「彭越もそうだった」
「みんな俺を裏切った」
荒い息。
震える肩。
「お前も同じだ」
「違います」
「違わねえ」
劉邦が叫ぶ。
「お前は賢すぎる!」
寝殿の空気が張り詰める。
「俺の庭を削り」
「俺の財産を削り」
「民を味方につける」
「それが違うと言えるか!」
蕭何は頭を下げた。
何を言っても届かない。
もう理屈ではない。
猜疑心そのものだった。
「審食其」
「はっ」
「兵を呼べ」
その瞬間。
蕭何は悟った。
終わった。
◇
扉が開く。
近衛兵が雪崩れ込んできた。
「相国・蕭何」
「動くな」
腕を掴まれる。
床へ押し倒される。
冠が転がった。
乾いた音が響く。
「陛下!」
最後の声。
だが劉邦は目を閉じていた。
「連れて行け」
それだけだった。
蕭何は引きずられる。
長い廊下。
百官たち。
誰も助けない。
誰も声を上げない。
曹参も立ち尽くしていた。
国家第二の男。
その地位は一瞬で消えた。
◇
監獄は地下深くにあった。
冷たい石壁。
湿った空気。
鉄格子。
蕭何は苦笑した。
ここを設計したのは自分だ。
逃げ場のない牢。
最も堅固な監獄。
完璧だった。
完璧すぎた。
重い扉が閉まる。
光が消える。
暗闇だけが残った。
「まいったな」
誰もいない牢で呟く。
それでも思考は止まらない。
まだ殺されていない。
なら終わりじゃない。
必ず出口はある。
そう考えた時だった。
コツン。
足音。
コツン。
また一歩。
誰かが近づいてくる。
看守ではない。
もっと静かだ。
もっと重い。
やがて足音が止まる。
松明が灯った。
闇が裂ける。
その先に立っていた人物を見て、蕭何は息を呑んだ。
呂后だった。
韓信を死へ追い込んだ女。
その手には一本の絹紐。
見覚えがある。
嫌というほど。
呂后は静かに微笑んだ。
「安心なさい、蕭何」
その笑みは優しかった。
だからこそ恐ろしい。
「今日は殺しに来たのではありません」
蕭何の背筋を冷たい汗が流れる。
では何のために来たのか。
呂后は牢の前でしゃがみ込んだ。
そして小さく囁く。
「あなたには、まだ働いてもらいます」
その言葉の意味を尋ねるより先に。
呂后は懐から一枚の竹簡を取り出した。
そこに記されていた名前を見た瞬間。
蕭何の表情が凍りついた。
そこには。
次に粛清される人物の名が書かれていた。
第34話 了
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




