第33話:CEOの疑心暗鬼――「蕭何、お前の好感度、我が社の時価総額超えてないか?」
静寂が部屋を満たしていた。
扉の隙間から差し込む松明の光が、机上の竹簡を赤く染める。
入ってきたのは審食其だった。
呂后の側近。
宮中でもっとも油断ならない男の一人だ。
蕭何は筆を止めた。
指先がわずかに強張る。
机の上に広げられているのは、長安近郊の土地を相国府が買い上げるための計画書だった。
表向きは都市整備。
だが実態は違う。
民の反感を買うための書類。
自らの評判を壊すための計画だった。
審食其は足音も立てず近づいてくる。
そして竹簡へ目を落とした。
「相国。夜更けまで熱心ですな」
薄い笑みが浮かぶ。
「ほう……これはまた、なかなか興味深い」
蕭何は表情を崩さなかった。
「長安拡張の準備だ」
「農地を安値で買い上げるのも、その一環ですかな」
「そうなるな」
審食其は小さく笑った。
嘲笑ではない。
どこか安堵したような笑みだった。
「結構なことです」
「何がだ」
「相国も人間だったということです」
蕭何は黙った。
審食其は竹簡を軽く叩く。
「皇后様も安心なされるでしょう」
「安心?」
「完璧な人間ほど恐ろしいものはありません」
声が低くなる。
「民は相国を敬愛しております。官吏もそうです。軍の将ですら相国を信頼している」
審食其は肩をすくめた。
「そんな男が欲を見せぬとなれば、かえって不気味です」
言葉が胸に刺さる。
反論できなかった。
韓信は強すぎた。
彭越は兵を持ちすぎた。
そして蕭何は愛されすぎた。
だから危険。
理屈はそれだけだ。
「どうぞ続けてください」
審食其は一礼した。
「これで皇后様も枕を高くして眠れます」
そう言い残し、部屋を去る。
扉が閉まった。
静寂が戻る。
蕭何は長く息を吐いた。
呂后の側近ですら歓迎する。
それほどまでに朝廷は蕭何を恐れているのだ。
忠誠心ではない。
実績でもない。
人望そのものを。
「悪党になるしかないか」
自嘲が漏れた。
筆を取り上げる。
墨が竹簡へ染み込んでいく。
まるで自らの名声が黒く汚れていくようだった。
◇
翌日。
未央宮。
蕭何は劉邦の前に平伏していた。
部屋には二人しかいない。
護衛すら外されている。
そのことが、かえって不気味だった。
劉邦は脇息にもたれかかっていた。
矢傷は癒えていない。
顔色も悪い。
だが眼だけは鋭かった。
獲物を見定める老狼の目。
「蕭何」
「はっ」
「沛県で初めて会った頃を覚えてるか」
唐突な問いだった。
「もちろんでございます」
「俺はろくでなしだったな」
劉邦が笑う。
「酒代も払えねえ。喧嘩ばかり。役人から見れば厄介者だ」
「豪快なお方でした」
「言い換えれば馬鹿だったってことだ」
劉邦は肩を揺らした。
「それでもお前は俺を見捨てなかった」
懐かしむ声。
だが空気は冷たい。
「お前は昔から優秀だった」
視線が突き刺さる。
「帳簿を任せれば間違いがない。人をまとめれば文句が出ない」
蕭何は黙っていた。
「今もそうらしいな」
胃の底が冷えた。
来る。
そう確信した。
「長安の民はお前を褒めてばかりだ」
劉邦は続ける。
「戦の間もそうだった」
指を折る。
「相国のおかげで兵糧が届く」
「相国のおかげで家族が生きられる」
「相国のおかげで国が回る」
一つずつ数えるように口にする。
「大した人気者だ」
蕭何は額を下げた。
「身に余る評価でございます」
「そうか?」
劉邦が身を乗り出す。
「なあ蕭何」
低い声。
「お前の評判、俺より上じゃねえか?」
部屋の空気が凍りついた。
質問ではない。
疑念だ。
いや。
告発だった。
「陛下」
「別に責めてるわけじゃねえ」
劉邦は笑う。
だが目は笑っていない。
「ただ気になるんだ」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「俺が死んだ後、みんなは誰についていくんだろうなって」
蕭何の背中を汗が流れた。
創業者の恐怖。
自分の死後。
自分の作った国がどうなるか。
その不安が、すべての言葉の裏にあった。
「私は陛下の臣です」
蕭何は額を床につける。
「これまでも、これからも」
「そうだろうな」
劉邦は頷いた。
「お前が裏切るとは思ってねえ」
短い沈黙。
「だが人は変わる」
その一言が重かった。
「俺が死んだ後ならなおさらだ」
蕭何は返す言葉を失う。
何を言っても無駄だった。
問題は忠誠ではない。
人気なのだ。
持ちすぎた信用そのものが罪になっている。
「下がれ」
劉邦は手を振った。
「これからも見てるぞ」
「はっ」
蕭何は一礼した。
部屋を出る。
冬の風が吹き抜けた。
だが寒さは感じない。
首筋を流れる汗の方が冷たかった。
もう猶予はない。
今すぐ動かなければ、自分も一族も終わる。
蕭何は未央宮の長い回廊を歩きながら、静かに覚悟を決めた。
善人のままでは生き残れない。
ならば――悪人になるしかない。
第33話:CEOの疑心暗鬼 「蕭何、お前の好感度、我が社の時価総額超えてないか?」
副題:聖人の値段(中編)
◇
三日後の早朝。
長安の市場は、いつも通りの活気に包まれていた。
野菜を並べる農民。
荷を運ぶ商人。
朝餉の支度をする女たち。
そんな日常を切り裂くように、相国府の役人たちが現れる。
中央の広場へ進み、大きな高札を立てた。
「集まれ!」
役人が声を張り上げる。
「相国府より布告である!」
人々が足を止めた。
何事かと集まってくる。
やがて広場は黒山の人だかりになった。
役人は高札を読み上げる。
「長安南部の農地を、相国府が買い上げる!」
ざわめきが起きた。
だが、この時点ではまだ小さい。
都市拡張なら珍しい話ではない。
問題は次だった。
「補償は一反につき一銭!」
広場が静まり返った。
一瞬、誰も意味を理解できない。
一銭。
それは補償と呼べる額ではなかった。
「待て!」
老人が前へ出た。
日に焼けた農夫だった。
「あの土地は先祖代々の畑だぞ!」
「異議は認めぬ!」
役人が怒鳴る。
「相国府の決定である!」
「ふざけるな!」
今度は別の男が叫んだ。
「ただ同然じゃねえか!」
「相国様がそんな命令を出すはずがない!」
周囲からも声が上がる。
「そうだ!」
「あの蕭何様だぞ!」
「俺たちを助けてくれた人だ!」
誰も信じていなかった。
長安を守った男。
民を飢えから救った男。
その蕭何が、こんな暴政を命じるはずがない。
だから人々は思った。
何かの間違いだと。
誰かが勝手に名前を使っているのだと。
だが、その希望は半日で砕かれる。
◇
午後。
蕭何自身が街へ現れた。
豪華な輿。
護衛の列。
相国としての威容。
それを見た民衆が押し寄せる。
「相国様!」
「相国様!」
悲鳴にも似た声だった。
朝の老農夫が飛び出してくる。
地面にひざまずいた。
「本当なのですか!」
声が震えている。
「南の畑を奪うというのは!」
「私たちはあれがなければ生きていけません!」
蕭何は男を見下ろした。
顔を知っている。
楚との戦で息子を送り出した男だ。
兵糧不足の時も協力してくれた。
漢王朝を支えた功労者。
その人生を今から壊す。
胸が痛んだ。
だが周囲には監視兵がいる。
劉邦の目だ。
ここで迷えば終わる。
蕭何は心を閉ざした。
感情を押し殺す。
ただ生き残るために。
「本当だ」
冷たい声だった。
老農夫が凍りつく。
「国家が必要としている」
「相国様……」
「不満なら出ていけばよい」
老農夫の顔から血の気が引いた。
まるで別人を見るような目だった。
「そんな……」
かすれた声が漏れる。
「あんたまで……」
周囲が騒然となる。
「嘘だろ……」
「本当に蕭何様なのか?」
「なんでだよ!」
怒りと混乱が広がっていく。
やがて誰かが叫んだ。
「俺たちを騙したのか!」
それが引き金だった。
「泥棒役人!」
「土地を返せ!」
「守ってくれるんじゃなかったのか!」
罵声が飛び交う。
かつての称賛が憎悪へ変わる。
一瞬だった。
人の信頼が崩れる時は、思った以上に速い。
蕭何は黙っていた。
何も言わない。
言えない。
弁明した瞬間、この芝居は終わる。
そして自分も終わる。
輿がゆっくり進む。
罵声が背中に突き刺さる。
石こそ飛んでこなかったが、それ以上に痛かった。
「最低だ!」
「欲に目がくらんだか!」
「俺たちの相国は死んだ!」
蕭何は目を閉じた。
これでいい。
そう自分に言い聞かせる。
これで劉邦は安心する。
これで一族は生き残れる。
そう思わなければ、とても耐えられなかった。
◇
その夜。
長楽宮。
密偵が劉邦へ報告していた。
「相国・蕭何。農地買収を強行しております」
「ほう」
「民の怨みは極まっております」
劉邦はしばらく黙っていた。
そして突然、大声で笑った。
「はははは!」
傷が開きそうなほど笑う。
「そうか!」
目尻に涙まで浮かべていた。
「あの蕭何が土地を漁り始めたか!」
呂后が静かに微笑む。
「安心なさいましたか」
「ああ」
劉邦は何度も頷いた。
「結局あいつも人間だった」
どこか嬉しそうだった。
「欲があるなら安心できる」
竹簡を放り投げる。
「聖人じゃなかったってことだ」
長年胸に刺さっていた棘が抜けたような顔だった。
蕭何への疑念。
それがようやく消えた。
だが。
その代償はまだ終わっていなかった。
むしろ本当の代償は、これから始まろうとしていた――。
第33話:CEOの疑心暗鬼 「蕭何、お前の好感度、我が社の時価総額超えてないか?」
副題:聖人の値段(後編)
◇
翌朝。
相国府。
まだ日が昇り切らぬ時間だった。
蕭何はいつものように執務へ向かおうとした。
だが門へ近づいた瞬間、足が止まる。
異様なざわめきが聞こえた。
人の声。
いや、怒号だった。
門番の顔は真っ青になっている。
「どうした」
蕭何が問う。
門番は震える指で外を示した。
「相国……その……」
言葉にならない。
蕭何は自ら門へ向かった。
重い扉が開く。
そして目の前の光景に息を呑んだ。
人。
人。
人。
門前広場を埋め尽くす群衆。
数百ではない。
数千人規模だった。
農民。
商人。
職人。
老人。
女たち。
かつて蕭何を慕った長安の民が、相国府を取り囲んでいた。
「蕭何を出せ!」
「土地を返せ!」
「俺たちを騙したな!」
怒号が押し寄せる。
地鳴りのようだった。
蕭何は無言で群衆を見つめる。
その目に宿る感情を見てしまった。
怒りだけではない。
失望だった。
裏切られた者の目だった。
その時、背後から足音が響く。
「相国!」
曹参だった。
顔色が悪い。
明らかに動揺している。
「外へ出てはなりません!」
蕭何は振り返る。
「なぜだ」
「見ればお分かりでしょう!」
曹参が声を荒げた。
「民の怒りは限界です!」
「……」
「今出れば何をされるか分かりません!」
蕭何は再び門の外を見た。
確かに危険だった。
だが同時に理解していた。
ここで逃げれば終わる。
民を恐れて隠れた。
その噂は一瞬で広がる。
そして劉邦の耳にも届く。
そうなれば今までの芝居が台無しだった。
「私が行く」
「相国!」
「ここで隠れる方が不自然だ」
曹参は唇を噛む。
「ですが!」
「私は強欲な相国なのだろう?」
自嘲気味に笑う。
「ならば民の怒りも受け止めねばならん」
曹参は何も言えなくなった。
蕭何はゆっくりと歩き出す。
一歩。
また一歩。
門の外へ出た。
その瞬間だった。
「いたぞ!」
誰かが叫ぶ。
群衆が揺れた。
「蕭何だ!」
「泥棒相国だ!」
怒号が爆発する。
堰を切った濁流だった。
「土地を返せ!」
「人殺し!」
「俺たちを騙したな!」
蕭何は立ち止まった。
逃げない。
ただ受け止める。
その姿勢だけは崩さない。
だが群衆の怒りは止まらなかった。
最前列から若い男が飛び出す。
二十歳そこそこ。
痩せた農民だった。
「父さんの畑を返せ!」
男の手が振り上がる。
石だった。
投げられる。
一瞬だった。
鈍い音が響く。
石は蕭何の額に命中した。
視界が揺れる。
熱い感覚。
血だった。
赤い雫が頬を伝う。
群衆がどよめく。
だが次の瞬間。
「やったぞ!」
誰かが叫んだ。
空気が変わる。
危険な方向へ。
「もっとだ!」
「石を投げろ!」
「殺せ!」
怒号が連鎖した。
監視兵たちが慌てて前へ出る。
「下がれ!」
「近づくな!」
だが人数が違いすぎた。
押し寄せる群衆。
揺れる防衛線。
誰かが柵を倒した。
誰かが門を蹴った。
怒りが怒りを呼ぶ。
もう誰も止められない。
蕭何は血を流しながら立ち尽くしていた。
そして悟る。
計算違いだった。
劉邦を騙すことはできた。
呂后も安心した。
目的は達成した。
だが。
その代償を甘く見ていた。
民の信頼とは何か。
失った時に何が起きるのか。
蕭何は理解していなかった。
信頼は財産だ。
だが失われた信頼は負債になる。
しかも最悪の形で。
「相国!」
曹参の叫び声が聞こえる。
兵たちが蕭何を守ろうと押し寄せる。
群衆もさらに前へ出る。
怒号。
悲鳴。
怒り。
混乱。
すべてが渦を巻いていた。
視界の端で、一人の男が群衆へ何かを叫んでいるのが見えた。
聞き取れない。
だが妙だった。
農民には見えない。
商人にも見えない。
誰かを煽っている。
まるで最初から暴動を望んでいたかのように。
蕭何の背筋に冷たいものが走った。
その瞬間。
群衆の奥から新たな叫びが響く。
「相国府を焼け!」
空気が凍った。
ただの抗議ではない。
暴動だ。
しかも自然発生ではない。
誰かが誘導している。
誰かが火をつけようとしている。
蕭何は血で霞む視界の向こうを見つめた。
もしここで暴動が広がれば。
長安全土が混乱に陥る。
そして、その混乱を利用したい者は決して少なくない。
劉邦の猜疑心をかわすために打った一手。
その一手が、漢王朝そのものを揺るがそうとしていた。
群衆が再び押し寄せる。
蕭何の意識が遠のく。
最後に見えたのは、群衆の奥でこちらを見つめる一人の男の姿だった。
その男は笑っていた。
まるで、この混乱こそが狙い通りだと言わんばかりに。
そして蕭何は悟る。
これは民の暴動ではない。
もっと大きな何かが動き始めている――。
第33話:了
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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次話の更新速度というKPIに直結しますので、何卒ご支援のほどよろしくお願いいたします!
また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




