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【悲報】転生先でも定時退社できない。――過労死会計士、劉邦のCFO・蕭何になる【完結済/シリーズもの/一気読み推奨】  作者: 筑紫隼人
第5章:セルフ粉飾決算と最後の退職届

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33/40

第33話:CEOの疑心暗鬼――「蕭何、お前の好感度、我が社の時価総額超えてないか?」

 静寂が部屋を満たしていた。


 扉の隙間から差し込む松明の光が、机上の竹簡を赤く染める。


 入ってきたのは審食其だった。


 呂后の側近。


 宮中でもっとも油断ならない男の一人だ。


 蕭何は筆を止めた。


 指先がわずかに強張る。


 机の上に広げられているのは、長安近郊の土地を相国府が買い上げるための計画書だった。


 表向きは都市整備。


 だが実態は違う。


 民の反感を買うための書類。


 自らの評判を壊すための計画だった。


 審食其は足音も立てず近づいてくる。


 そして竹簡へ目を落とした。


「相国。夜更けまで熱心ですな」


 薄い笑みが浮かぶ。


「ほう……これはまた、なかなか興味深い」


 蕭何は表情を崩さなかった。


「長安拡張の準備だ」


「農地を安値で買い上げるのも、その一環ですかな」


「そうなるな」


 審食其は小さく笑った。


 嘲笑ではない。


 どこか安堵したような笑みだった。


「結構なことです」


「何がだ」


「相国も人間だったということです」


 蕭何は黙った。


 審食其は竹簡を軽く叩く。


「皇后様も安心なされるでしょう」


「安心?」


「完璧な人間ほど恐ろしいものはありません」


 声が低くなる。


「民は相国を敬愛しております。官吏もそうです。軍の将ですら相国を信頼している」


 審食其は肩をすくめた。


「そんな男が欲を見せぬとなれば、かえって不気味です」


 言葉が胸に刺さる。


 反論できなかった。


 韓信は強すぎた。


 彭越は兵を持ちすぎた。


 そして蕭何は愛されすぎた。


 だから危険。


 理屈はそれだけだ。


「どうぞ続けてください」


 審食其は一礼した。


「これで皇后様も枕を高くして眠れます」


 そう言い残し、部屋を去る。


 扉が閉まった。


 静寂が戻る。


 蕭何は長く息を吐いた。


 呂后の側近ですら歓迎する。


 それほどまでに朝廷は蕭何を恐れているのだ。


 忠誠心ではない。


 実績でもない。


 人望そのものを。


「悪党になるしかないか」


 自嘲が漏れた。


 筆を取り上げる。


 墨が竹簡へ染み込んでいく。


 まるで自らの名声が黒く汚れていくようだった。


     ◇


 翌日。


 未央宮。


 蕭何は劉邦の前に平伏していた。


 部屋には二人しかいない。


 護衛すら外されている。


 そのことが、かえって不気味だった。


 劉邦は脇息にもたれかかっていた。


 矢傷は癒えていない。


 顔色も悪い。


 だが眼だけは鋭かった。


 獲物を見定める老狼の目。


「蕭何」


「はっ」


「沛県で初めて会った頃を覚えてるか」


 唐突な問いだった。


「もちろんでございます」


「俺はろくでなしだったな」


 劉邦が笑う。


「酒代も払えねえ。喧嘩ばかり。役人から見れば厄介者だ」


「豪快なお方でした」


「言い換えれば馬鹿だったってことだ」


 劉邦は肩を揺らした。


「それでもお前は俺を見捨てなかった」


 懐かしむ声。


 だが空気は冷たい。


「お前は昔から優秀だった」


 視線が突き刺さる。


「帳簿を任せれば間違いがない。人をまとめれば文句が出ない」


 蕭何は黙っていた。


「今もそうらしいな」


 胃の底が冷えた。


 来る。


 そう確信した。


「長安の民はお前を褒めてばかりだ」


 劉邦は続ける。


「戦の間もそうだった」


 指を折る。


「相国のおかげで兵糧が届く」


「相国のおかげで家族が生きられる」


「相国のおかげで国が回る」


 一つずつ数えるように口にする。


「大した人気者だ」


 蕭何は額を下げた。


「身に余る評価でございます」


「そうか?」


 劉邦が身を乗り出す。


「なあ蕭何」


 低い声。


「お前の評判、俺より上じゃねえか?」


 部屋の空気が凍りついた。


 質問ではない。


 疑念だ。


 いや。


 告発だった。


「陛下」


「別に責めてるわけじゃねえ」


 劉邦は笑う。


 だが目は笑っていない。


「ただ気になるんだ」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「俺が死んだ後、みんなは誰についていくんだろうなって」


 蕭何の背中を汗が流れた。


 創業者の恐怖。


 自分の死後。


 自分の作った国がどうなるか。


 その不安が、すべての言葉の裏にあった。


「私は陛下の臣です」


 蕭何は額を床につける。


「これまでも、これからも」


「そうだろうな」


 劉邦は頷いた。


「お前が裏切るとは思ってねえ」


 短い沈黙。


「だが人は変わる」


 その一言が重かった。


「俺が死んだ後ならなおさらだ」


 蕭何は返す言葉を失う。


 何を言っても無駄だった。


 問題は忠誠ではない。


 人気なのだ。


 持ちすぎた信用そのものが罪になっている。


「下がれ」


 劉邦は手を振った。


「これからも見てるぞ」


「はっ」


 蕭何は一礼した。


 部屋を出る。


 冬の風が吹き抜けた。


 だが寒さは感じない。


 首筋を流れる汗の方が冷たかった。


 もう猶予はない。


 今すぐ動かなければ、自分も一族も終わる。


 蕭何は未央宮の長い回廊を歩きながら、静かに覚悟を決めた。


 善人のままでは生き残れない。


 ならば――悪人になるしかない。


第33話:CEOの疑心暗鬼 「蕭何、お前の好感度、我が社の時価総額超えてないか?」

副題:聖人の値段(中編)


     ◇


 三日後の早朝。


 長安の市場は、いつも通りの活気に包まれていた。


 野菜を並べる農民。


 荷を運ぶ商人。


 朝餉の支度をする女たち。


 そんな日常を切り裂くように、相国府の役人たちが現れる。


 中央の広場へ進み、大きな高札を立てた。


「集まれ!」


 役人が声を張り上げる。


「相国府より布告である!」


 人々が足を止めた。


 何事かと集まってくる。


 やがて広場は黒山の人だかりになった。


 役人は高札を読み上げる。


「長安南部の農地を、相国府が買い上げる!」


 ざわめきが起きた。


 だが、この時点ではまだ小さい。


 都市拡張なら珍しい話ではない。


 問題は次だった。


「補償は一反につき一銭!」


 広場が静まり返った。


 一瞬、誰も意味を理解できない。


 一銭。


 それは補償と呼べる額ではなかった。


「待て!」


 老人が前へ出た。


 日に焼けた農夫だった。


「あの土地は先祖代々の畑だぞ!」


「異議は認めぬ!」


 役人が怒鳴る。


「相国府の決定である!」


「ふざけるな!」


 今度は別の男が叫んだ。


「ただ同然じゃねえか!」


「相国様がそんな命令を出すはずがない!」


 周囲からも声が上がる。


「そうだ!」


「あの蕭何様だぞ!」


「俺たちを助けてくれた人だ!」


 誰も信じていなかった。


 長安を守った男。


 民を飢えから救った男。


 その蕭何が、こんな暴政を命じるはずがない。


 だから人々は思った。


 何かの間違いだと。


 誰かが勝手に名前を使っているのだと。


 だが、その希望は半日で砕かれる。


     ◇


 午後。


 蕭何自身が街へ現れた。


 豪華な輿。


 護衛の列。


 相国としての威容。


 それを見た民衆が押し寄せる。


「相国様!」


「相国様!」


 悲鳴にも似た声だった。


 朝の老農夫が飛び出してくる。


 地面にひざまずいた。


「本当なのですか!」


 声が震えている。


「南の畑を奪うというのは!」


「私たちはあれがなければ生きていけません!」


 蕭何は男を見下ろした。


 顔を知っている。


 楚との戦で息子を送り出した男だ。


 兵糧不足の時も協力してくれた。


 漢王朝を支えた功労者。


 その人生を今から壊す。


 胸が痛んだ。


 だが周囲には監視兵がいる。


 劉邦の目だ。


 ここで迷えば終わる。


 蕭何は心を閉ざした。


 感情を押し殺す。


 ただ生き残るために。


「本当だ」


 冷たい声だった。


 老農夫が凍りつく。


「国家が必要としている」


「相国様……」


「不満なら出ていけばよい」


 老農夫の顔から血の気が引いた。


 まるで別人を見るような目だった。


「そんな……」


 かすれた声が漏れる。


「あんたまで……」


 周囲が騒然となる。


「嘘だろ……」


「本当に蕭何様なのか?」


「なんでだよ!」


 怒りと混乱が広がっていく。


 やがて誰かが叫んだ。


「俺たちを騙したのか!」


 それが引き金だった。


「泥棒役人!」


「土地を返せ!」


「守ってくれるんじゃなかったのか!」


 罵声が飛び交う。


 かつての称賛が憎悪へ変わる。


 一瞬だった。


 人の信頼が崩れる時は、思った以上に速い。


 蕭何は黙っていた。


 何も言わない。


 言えない。


 弁明した瞬間、この芝居は終わる。


 そして自分も終わる。


 輿がゆっくり進む。


 罵声が背中に突き刺さる。


 石こそ飛んでこなかったが、それ以上に痛かった。


「最低だ!」


「欲に目がくらんだか!」


「俺たちの相国は死んだ!」


 蕭何は目を閉じた。


 これでいい。


 そう自分に言い聞かせる。


 これで劉邦は安心する。


 これで一族は生き残れる。


 そう思わなければ、とても耐えられなかった。


     ◇


 その夜。


 長楽宮。


 密偵が劉邦へ報告していた。


「相国・蕭何。農地買収を強行しております」


「ほう」


「民の怨みは極まっております」


 劉邦はしばらく黙っていた。


 そして突然、大声で笑った。


「はははは!」


 傷が開きそうなほど笑う。


「そうか!」


 目尻に涙まで浮かべていた。


「あの蕭何が土地を漁り始めたか!」


 呂后が静かに微笑む。


「安心なさいましたか」


「ああ」


 劉邦は何度も頷いた。


「結局あいつも人間だった」


 どこか嬉しそうだった。


「欲があるなら安心できる」


 竹簡を放り投げる。


「聖人じゃなかったってことだ」


 長年胸に刺さっていた棘が抜けたような顔だった。


 蕭何への疑念。


 それがようやく消えた。


 だが。


 その代償はまだ終わっていなかった。


 むしろ本当の代償は、これから始まろうとしていた――。


第33話:CEOの疑心暗鬼 「蕭何、お前の好感度、我が社の時価総額超えてないか?」

副題:聖人の値段(後編)


     ◇


 翌朝。


 相国府。


 まだ日が昇り切らぬ時間だった。


 蕭何はいつものように執務へ向かおうとした。


 だが門へ近づいた瞬間、足が止まる。


 異様なざわめきが聞こえた。


 人の声。


 いや、怒号だった。


 門番の顔は真っ青になっている。


「どうした」


 蕭何が問う。


 門番は震える指で外を示した。


「相国……その……」


 言葉にならない。


 蕭何は自ら門へ向かった。


 重い扉が開く。


 そして目の前の光景に息を呑んだ。


 人。


 人。


 人。


 門前広場を埋め尽くす群衆。


 数百ではない。


 数千人規模だった。


 農民。


 商人。


 職人。


 老人。


 女たち。


 かつて蕭何を慕った長安の民が、相国府を取り囲んでいた。


「蕭何を出せ!」


「土地を返せ!」


「俺たちを騙したな!」


 怒号が押し寄せる。


 地鳴りのようだった。


 蕭何は無言で群衆を見つめる。


 その目に宿る感情を見てしまった。


 怒りだけではない。


 失望だった。


 裏切られた者の目だった。


 その時、背後から足音が響く。


「相国!」


 曹参だった。


 顔色が悪い。


 明らかに動揺している。


「外へ出てはなりません!」


 蕭何は振り返る。


「なぜだ」


「見ればお分かりでしょう!」


 曹参が声を荒げた。


「民の怒りは限界です!」


「……」


「今出れば何をされるか分かりません!」


 蕭何は再び門の外を見た。


 確かに危険だった。


 だが同時に理解していた。


 ここで逃げれば終わる。


 民を恐れて隠れた。


 その噂は一瞬で広がる。


 そして劉邦の耳にも届く。


 そうなれば今までの芝居が台無しだった。


「私が行く」


「相国!」


「ここで隠れる方が不自然だ」


 曹参は唇を噛む。


「ですが!」


「私は強欲な相国なのだろう?」


 自嘲気味に笑う。


「ならば民の怒りも受け止めねばならん」


 曹参は何も言えなくなった。


 蕭何はゆっくりと歩き出す。


 一歩。


 また一歩。


 門の外へ出た。


 その瞬間だった。


「いたぞ!」


 誰かが叫ぶ。


 群衆が揺れた。


「蕭何だ!」


「泥棒相国だ!」


 怒号が爆発する。


 堰を切った濁流だった。


「土地を返せ!」


「人殺し!」


「俺たちを騙したな!」


 蕭何は立ち止まった。


 逃げない。


 ただ受け止める。


 その姿勢だけは崩さない。


 だが群衆の怒りは止まらなかった。


 最前列から若い男が飛び出す。


 二十歳そこそこ。


 痩せた農民だった。


「父さんの畑を返せ!」


 男の手が振り上がる。


 石だった。


 投げられる。


 一瞬だった。


 鈍い音が響く。


 石は蕭何の額に命中した。


 視界が揺れる。


 熱い感覚。


 血だった。


 赤い雫が頬を伝う。


 群衆がどよめく。


 だが次の瞬間。


「やったぞ!」


 誰かが叫んだ。


 空気が変わる。


 危険な方向へ。


「もっとだ!」


「石を投げろ!」


「殺せ!」


 怒号が連鎖した。


 監視兵たちが慌てて前へ出る。


「下がれ!」


「近づくな!」


 だが人数が違いすぎた。


 押し寄せる群衆。


 揺れる防衛線。


 誰かが柵を倒した。


 誰かが門を蹴った。


 怒りが怒りを呼ぶ。


 もう誰も止められない。


 蕭何は血を流しながら立ち尽くしていた。


 そして悟る。


 計算違いだった。


 劉邦を騙すことはできた。


 呂后も安心した。


 目的は達成した。


 だが。


 その代償を甘く見ていた。


 民の信頼とは何か。


 失った時に何が起きるのか。


 蕭何は理解していなかった。


 信頼は財産だ。


 だが失われた信頼は負債になる。


 しかも最悪の形で。


「相国!」


 曹参の叫び声が聞こえる。


 兵たちが蕭何を守ろうと押し寄せる。


 群衆もさらに前へ出る。


 怒号。


 悲鳴。


 怒り。


 混乱。


 すべてが渦を巻いていた。


 視界の端で、一人の男が群衆へ何かを叫んでいるのが見えた。


 聞き取れない。


 だが妙だった。


 農民には見えない。


 商人にも見えない。


 誰かを煽っている。


 まるで最初から暴動を望んでいたかのように。


 蕭何の背筋に冷たいものが走った。


 その瞬間。


 群衆の奥から新たな叫びが響く。


「相国府を焼け!」


 空気が凍った。


 ただの抗議ではない。


 暴動だ。


 しかも自然発生ではない。


 誰かが誘導している。


 誰かが火をつけようとしている。


 蕭何は血で霞む視界の向こうを見つめた。


 もしここで暴動が広がれば。


 長安全土が混乱に陥る。


 そして、その混乱を利用したい者は決して少なくない。


 劉邦の猜疑心をかわすために打った一手。


 その一手が、漢王朝そのものを揺るがそうとしていた。


 群衆が再び押し寄せる。


 蕭何の意識が遠のく。


 最後に見えたのは、群衆の奥でこちらを見つめる一人の男の姿だった。


 その男は笑っていた。


 まるで、この混乱こそが狙い通りだと言わんばかりに。


 そして蕭何は悟る。


 これは民の暴動ではない。


 もっと大きな何かが動き始めている――。


第33話:了

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


突然ですが、作者からコンサル的お願いがございます。


「ブックマーク・評価」という施策を打てていない読者様、費用対効果は最高です。ワンクリック・5秒・無料。これ以上のROIはありません。


次話の更新速度というKPIに直結しますので、何卒ご支援のほどよろしくお願いいたします!


また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。


『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』

https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n9418lx/

王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!


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