第32話:未央宮の落成式 血で築かれた宮殿
冬空の下。
未央宮は静かにそびえていた。
磨き上げられた白壁。
天へ伸びる大屋根。
新しい王朝の威光を示すために築かれた巨大な宮殿だった。
だが、その門をくぐる百官たちの顔は暗い。
祝いの日とは思えない。
誰もが声を潜めていた。
石畳に響く足音さえ重たい。
蕭何は正装をまとい、長い階段を上る。
背後には監視兵たち。
劉邦が帰還しても消えなかった影だ。
むしろ数は増えたように見える。
未央宮は完成した。
だが蕭何を囲む檻も完成していた。
◇
玉座の間は冷えていた。
中央の高座。
そこに劉邦が横たわっている。
胸には厚い包帯。
顔色は悪い。
痩せた頬が病の深さを物語っていた。
それでも目だけは鋭い。
獲物を見定める老狼の目だった。
その傍らには呂后。
石像のように動かない。
「来たか、蕭何」
劉邦が声を出す。
掠れている。
だが威圧感は消えていなかった。
「陛下」
蕭何は深く頭を下げた。
「未央宮は見事だな」
劉邦は天井を見上げる。
「こんな立派な宮殿が建つとは思わなかった」
咳が漏れる。
呂后が静かに背を支えた。
「お前の働きだ」
「恐れ入ります」
蕭何はそう答えるしかない。
「英布の後始末は終わったか」
「すべて完了しております」
蕭何は竹簡を差し出した。
韓信。
彭越。
英布。
建国を支えた異姓王たちの記録。
その最後だった。
審食其が受け取り、劉邦へ渡す。
劉邦は黙って目を通した。
部屋に沈黙が落ちる。
長い時間だった。
やがて竹簡が閉じられる。
「終わったな」
劉邦が呟いた。
「はい」
「韓信も」
「はい」
「彭越も」
「はい」
「英布も」
「はい」
短いやり取り。
だが蕭何の胸は重かった。
そこに並ぶ名は、かつて共に戦った男たちだった。
「これで俺の子らも少しは安心だ」
劉邦は目を閉じる。
疲れ切った声だった。
その時だった。
「陛下」
呂后が静かに口を開く。
「まだ安心なさるには早いかと」
蕭何の背筋に寒気が走った。
◇
劉邦がゆっくり目を開く。
「何が残っている」
「外の敵は消えました」
呂后の視線が蕭何へ向く。
「ですが人の心は残ります」
誰も言葉を発しない。
だが意味は明白だった。
長安の民。
官吏たち。
彼らが最も信頼する男。
それが誰なのか。
全員が知っている。
「蕭何」
劉邦が名を呼ぶ。
「はっ」
「お前は人気者だな」
穏やかな口調だった。
だからこそ恐ろしい。
「身に余る評判にございます」
「俺が前線で矢を受けてる間も、お前の名は毎日のように耳へ入った」
劉邦は笑う。
だが目は笑っていない。
「相国のおかげで飢えなかった」
「相国のおかげで暮らせた」
「相国のおかげで長安は平和だった」
一つずつ読み上げる。
まるで罪状のように。
「ありがたい話じゃねえか」
劉邦が言う。
蕭何は返せない。
「俺が死んだらどうなると思う」
その問いに部屋が凍る。
誰も答えなかった。
「お前は何もしなくてもいい」
劉邦は続ける。
「周りが勝手に担ぎ上げる」
蕭何は額を床につけた。
「そのようなことはございません」
「お前はそうだろうな」
劉邦は薄く笑った。
「だが人は違う」
その一言が何より重かった。
◇
式典は短く終わった。
祝宴もなかった。
未央宮完成の日とは思えないほど静かだった。
蕭何は宮殿を後にする。
長い回廊。
冬の風。
後ろには監視兵。
鎧の音だけが続いていた。
まるで死刑囚の行列だ。
相国府へ戻った頃には夜になっていた。
机の前へ座る。
白紙の竹簡を見つめる。
何を書けばいい。
何をすれば生き残れる。
答えは見つからない。
その時だった。
窓がわずかに開く。
冷たい風が吹き込んだ。
人影が現れる。
「ずいぶんひどい顔だな」
聞き慣れた声だった。
召平。
沛県時代からの旧友。
今は畑を耕して暮らしている男だ。
「ここへ来るな」
蕭何は顔をしかめる。
「見つかれば危険だ」
「危険なのは俺じゃねえ」
召平は笑った。
「あんただ」
蕭何は黙る。
「未央宮へ行ったんだろ」
「……ああ」
「なら分かったはずだ」
召平の目が細くなる。
「天子はあんたを恐れてる」
その言葉は胸へ突き刺さった。
「俺は謀反など考えていない」
「そんなことは関係ねえ」
召平は即答する。
「疑う側にとっちゃな」
蕭何は言葉を失った。
「民はあんたを慕う」
「役人はあんたを信じる」
「その時点で危ねえんだ」
部屋に沈黙が落ちる。
やがて蕭何が呟いた。
「どうすればいい」
召平は即答した。
「嫌われろ」
蕭何は顔を上げる。
「何だと」
「善人をやめろ」
召平は机へ身を乗り出した。
「土地を買え」
「民から奪え」
「欲深い相国になれ」
蕭何は目を見開く。
「正気か」
「正気だから言ってる」
召平の声は低かった。
「皆が慕う蕭何は危険だ」
「皆が嫌う蕭何なら安心できる」
蕭何は拳を握る。
これまで積み上げたものを、自ら壊せと言うのか。
「名声と命」
召平が言う。
「どっちを取る」
答えは分かっていた。
だからこそ苦しい。
長い沈黙の後。
蕭何は筆を取った。
震える手だった。
白紙の竹簡へ最初の一文字を書く。
それは法案ではない。
補給計画でもない。
自分の評判を壊すための最初の命令だった。
召平は小さく頷く。
そして夜の闇へ消えた。
執務室に残るのは蕭何だけ。
筆先が竹簡を走る。
その時。
閉じたはずの扉が音もなく開いた。
蕭何の手が止まる。
立っていたのは審食其だった。
松明の火が揺れる。
その視線は真っ直ぐ竹簡へ向いていた。
書き始めたばかりの文字。
深夜の密談。
説明のつかない状況。
審食其の口元がゆっくり歪む。
「相国」
静かな声だった。
だが蕭何には死刑宣告のように聞こえた。
第32話:了
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