第31話:前線への最後の補給
監視兵の足音が机の脇で止まった。
蕭何は息を潜めたまま、手の中の絹布を袖へ滑り込ませる。
見つかれば終わりだった。
「相国」
冷たい声が降ってくる。
「何かございましたか」
蕭何は顔を上げた。
「いや。米の納入目録に数字の食い違いがあってな」
何気なく別の竹簡を示す。
老役人は青ざめた顔で平伏したままだ。
監視兵は蕭何の顔を見た。
次に袖口へ視線を落とす。
重苦しい沈黙。
やがて兵士は小さく頷いた。
「ご無理をなさいませぬよう」
そう言い残し、元の位置へ戻る。
蕭何はようやく息を吐いた。
老役人を下がらせる。
執務室に再び静寂が戻った。
袖の中の密書が異様に重い。
英布の誘い。
補給を止めれば劉邦は敗れる。
だが、それは再び天下を戦乱へ投げ込むことを意味していた。
蕭何は火鉢へ近づく。
監視兵たちの死角を確かめる。
そして密書を炎へ落とした。
絹が丸まり、黒く縮み、灰へ変わる。
英布の言葉も野心も跡形なく消えた。
「やるべきことは一つだ」
そう呟き、新しい竹簡を開いた。
◇
冬の長安は厳しかった。
夜更けになると指先の感覚が薄れる。
腰は悲鳴を上げる。
それでも相国府の灯火は消えない。
前線からは連日の催促が届いていた。
兵糧を送れ。
馬を送れ。
矢を送れ。
短い文面の向こうに劉邦の焦りが透けて見える。
英布軍は想像以上に粘っていた。
各地で激戦が続いている。
ある夜。
曹参が報告書を抱えて飛び込んできた。
「相国。限界です」
蕭何は顔を上げる。
「何がだ」
「兵です。若者はほぼ徴発し終えました。このままでは春の耕作にも支障が出ます」
蕭何は竹簡へ目を落とした。
数字は厳しい現実を示していた。
だが補給を止めれば終わる。
前線が崩れれば漢そのものが揺らぐ。
「名簿を作れ」
「相国」
「まだ動ける者は全て把握する。備蓄米も再点検だ」
曹参は言葉を失った。
「民の怨みを買いますぞ」
「それで陛下が勝てるなら安いものだ」
蕭何は淡々と言った。
「戦場で兵が飢える方がよほど恐ろしい」
曹参は深く頭を下げた。
それ以上は何も言わなかった。
蕭何は再び筆を取る。
数字を追う。
不足を埋める。
運ぶ道筋を作る。
夜が明けても作業は終わらない。
◇
一か月。
二か月。
補給は一度も途切れなかった。
英布軍は徐々に押し込まれていく。
その一方で長安には別の空気が漂い始めていた。
ある日。
審食其が相国府へ現れる。
「相国。陛下よりお言葉です」
蕭何は静かに聞いた。
「補給の手際は見事だとな」
「恐れ入ります」
「ただし、こうも仰せでした」
審食其は口元を歪める。
「蕭何は随分と民に慕われているらしいな、と」
蕭何の指が止まった。
やはりそこへ辿り着く。
民は蕭何へ感謝していた。
公正だったからだ。
苦しい徴発の中でも不公平がなかった。
その評判が前線まで届いている。
「相国のおかげで助かった」
そんな言葉が。
「陛下へお伝えください」
蕭何は慎重に口を開いた。
「私は帳簿を預かる役人に過ぎませぬ」
「そのまま伝えましょう」
審食其は笑いながら去った。
蕭何は深く息を吐く。
仕事をすれば疑われる。
怠れば国が滅ぶ。
逃げ道などなかった。
◇
数週間後。
長安を揺るがす報せが届く。
「英布敗死!」
歓声が広がった。
最大の反乱は終わった。
だが相国府の空気は重い。
曹参の顔色が悪かった。
「相国」
「陛下か」
蕭何は即座に尋ねた。
曹参は頷く。
「英布との戦で流れ矢を受けられました」
蕭何の表情が固まる。
「傷は深いのか」
「はっ。かなり」
部屋が静まり返る。
劉邦も若くない。
度重なる遠征。
蓄積した疲労。
すべてが限界に近かった。
「さらに」
曹参は続けた。
「陛下は道中、何度も相国のお名前を」
蕭何は目を閉じた。
予想していた。
病と痛みは猜疑心を増幅させる。
傷ついた獣ほど危険なのだ。
「帰還の準備を進めろ」
「相国」
「門を開けよ。最高の礼で迎える」
曹参は黙って頭を下げた。
◇
数日後。
親征軍が長安へ帰還した。
民は歓声を上げる。
だが兵士たちの顔は暗い。
勝者の行軍とは思えなかった。
列の中央。
巨大な輿が進む。
蕭何は百官の先頭で平伏した。
やがて輿が止まる。
御簾が上がった。
そこにいたのは別人のように痩せた劉邦だった。
顔色は土色。
目だけが異様に光っている。
「蕭何」
掠れた声。
だが威圧感は消えていない。
「陛下」
蕭何は額を地につけた。
「よくやったな」
劉邦は笑う。
その笑みが不気味だった。
「お前のおかげで英布は死んだ」
蕭何は何も答えない。
「兵糧も兵も途切れなかった」
劉邦は続ける。
「見事なものだ」
褒め言葉のはずだった。
だが蕭何には刃のように聞こえた。
「立て」
劉邦が言う。
「見せたいものがある」
蕭何は顔を上げた。
劉邦の指が南を向く。
そこには巨大な宮殿がそびえていた。
未央宮。
漢王朝最大の建築物。
白い壁が夕日に染まっている。
「明日だ」
劉邦が言った。
「落成の式をやる」
口元がゆっくり歪む。
「必ず来いよ、蕭何」
蕭何の背筋に寒気が走った。
その声に祝賀の色はない。
まるで判決を告げるようだった。
輿は再び動き出す。
未央宮の影が長安へ伸びる。
巨大な黒い手のように。
蕭何はその場から動けなかった。
韓信が消えた場所。
彭越が消えた時代。
そして今。
次に呼ばれているのは誰なのか。
答えは分かっていた。
夕陽が沈む。
未央宮だけが不気味に輝いている。
明日の式典は栄誉の場か。
それとも処刑台か。
蕭何は拳を握った。
だが震えだけは止まらなかった。
第31話:了
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