第30話:英布の焦燥――「次は俺だ」と悟った王の反乱
淮南の王都・六県。
夜だというのに、宮殿は昼のように明るかった。
無数の篝火が燃え盛り、兵たちの怒号が絶え間なく響いている。
広間の中央。
英布は一つの木箱を睨みつけていた。
長安から届いた荷だった。
箱の隙間から漂う塩の臭い。
そして腐臭。
中身を確かめる必要などない。
梁王・彭越。
かつて共に項羽と戦った男の末路だった。
「韓信が死に、今度は彭越か」
英布は低く呟いた。
拳が震える。
怒りか。
恐怖か。
自分でも分からなかった。
額の黥が汗に濡れて光る。
韓信。
彭越。
どちらも漢建国の功臣だった。
それでも生かされなかった。
ならば次は誰か。
答えは明白だった。
「俺だ」
英布は吐き捨てた。
広間が静まり返る。
「王様……」
側近たちも顔色を失っていた。
「待っていれば、いずれ俺もあの箱の中だ」
英布は木箱を蹴り飛ばした。
鈍い音が響く。
「そうなる前に動く」
その目に迷いはなかった。
追い詰められた獣の目だった。
「全軍を集めろ」
英布は叫んだ。
「領内の兵を一人残らず集結させろ!」
家臣たちが一斉に頭を下げる。
命令は瞬く間に淮南全土へ伝わった。
戦が始まる。
もはや避けられなかった。
◇
同じ頃。
長安の相国府。
蕭何は報告書を見つめていた。
英布、挙兵。
その文字が胸に重くのしかかる。
彭越の処刑は諸侯への警告になるはずだった。
だが結果は逆だった。
恐怖は服従を生まず、反乱を生んだ。
「韓信に続いて英布か……」
思わず漏れた声は小さい。
だが胸の痛みは大きかった。
部屋の四隅では監視兵たちが立っている。
視線が刺さる。
蕭何が少しでも怪しい動きを見せれば、すぐ報告されるだろう。
重い足音が近づいてきた。
曹参だった。
「相国」
顔色が悪い。
「英布軍が国境を突破しました」
蕭何は目を閉じた。
最悪の報せだった。
「陛下は」
「長楽宮で軍議を開かれます」
蕭何は静かに立ち上がった。
胃が重い。
だが行かなければならない。
◇
長楽宮。
広間には将軍たちが集まっていた。
誰も口数が少ない。
英布の名が持つ重みを知っているからだ。
上座の劉邦は疲れ切っていた。
だが眼だけは鋭い。
「英布が反旗を翻した」
劉邦が口を開く。
「誰か止められる奴はいねえのか」
沈黙。
誰も答えない。
韓信はいない。
彭越もいない。
その現実が場を支配していた。
「誰もいねえか」
劉邦は苦笑した。
灌嬰が進み出る。
「陛下」
「申せ」
「英布は強敵です。しかし討てぬ相手ではありません」
「なら誰が行く」
「陛下ご自身しかおりませぬ」
広間がざわつく。
誰もが同じことを考えていた。
劉邦の身体は限界に近い。
だが他に適任者がいない。
「そうか」
劉邦はゆっくり立ち上がった。
「なら俺が行く」
誰も反対できなかった。
「蕭何」
突然名を呼ばれる。
「はっ」
「後ろは任せたぞ」
蕭何は深く頭を下げた。
「兵糧も兵も欠かしませぬ」
「頼んだ」
劉邦は笑った。
だが次の言葉は冷たかった。
「留守中に妙な真似だけはするなよ」
蕭何は何も答えなかった。
答えなくても意味は伝わる。
信用されていない。
それだけだった。
◇
数日後。
親征軍が長安を出発した。
蕭何は昼も夜も働き続けた。
兵糧。
兵員。
馬。
武具。
前線へ送るべき物は山ほどある。
一日たりとも止められない。
だが仕事に没頭するほど恐怖も増していく。
民は蕭何を称賛する。
役人たちは感謝する。
それが危険だった。
劉邦の耳に入ればどうなるか。
民望を集めている。
そう受け取られるだけで命取りになる。
真面目に働くほど疑われる。
まるで出口のない迷路だった。
その夜。
蕭何がようやく筆を置いた時だった。
扉が静かに開く。
老役人が入ってくる。
「相国」
米の納入目録を差し出した。
「本日の書類でございます」
蕭何は受け取った。
だが違和感があった。
目録を開く。
そこに数字はなかった。
細かな文字がびっしり並んでいる。
密書だった。
蕭何の表情が固まる。
差出人の名を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
英布。
反乱軍の総大将だった。
蕭何は平静を装いながら読み進める。
『お前なら分かるはずだ』
書き出しから鋭かった。
『韓信は死んだ。彭越も死んだ。次は俺だ。その次はお前だ』
蕭何の背筋を冷たい汗が流れる。
『俺は黙って殺されるつもりはない』
文字は続く。
『兵糧を止めろ』
蕭何は息を止めた。
『数日でいい。補給が途絶えれば劉邦軍は崩れる』
さらに続く。
『俺が勝てば、お前を厚遇しよう』
蕭何は目を閉じた。
甘い誘いだった。
そして危険すぎる誘いだった。
受ければ反逆。
拒めば英布の敵。
どちらを選んでも地獄だった。
その時。
背後で金属音が鳴った。
蕭何の身体が硬直する。
監視兵の一人が動いていた。
こちらを見ている。
ゆっくりと近づいてくる。
蕭何は密書を握り締めた。
一歩。
また一歩。
兵士の足音が近づく。
もし今、この密書を見られたら。
弁明の余地はない。
蕭何は息を殺した。
足音が机のすぐそばで止まった。
第30話:了
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
突然ですが、作者からコンサル的お願いがございます。
「ブックマーク・評価」という施策を打てていない読者様、費用対効果は最高です。ワンクリック・5秒・無料。これ以上のROIはありません。
次話の更新速度というKPIに直結しますので、何卒ご支援のほどよろしくお願いいたします!
また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n9418lx/
王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




