第3話:営業力だけの男・劉邦との遭遇――「こいつ、経費を泥棒に奢るタイプの経営者だ」
「報告します! 沛県に向かって進軍中なのは、楚の国を興した項氏の軍勢! その数、およそ五千! 先頭を行くのは、項羽という若き猛将の精鋭部隊です!」
部下の役人の悲鳴が、乗っ取ったばかりの執務室に響き渡る。
五千。
対するこちらは、先ほど脅し取ったばかりの歩兵三百。
まともに戦えば、こちらのスタートアップ(劉邦軍)は市場から物理的に消滅(全員処刑)させられる。
「おい蕭何、どうするよ!?」
劉邦が腰の剣を握り直し、珍しく冷や汗を流している。
「……CEO。言ったはずです。暴力は最もコストの高い下策だと」
蕭何は深く息を吐き出し、デスクの上の帳簿をパチンと閉じた。
「相手は五千の大企業。こちらは三百の零細。まともに市場競争(合戦)をして勝てるわけがありません。ならば、取るべき戦略は一つ──『業務提携(M&A)』のフリをした、一時的な下請け入りです」
「下請けぇ?」
不満そうな劉邦の首根っこを掴む勢いで、蕭何は白髪混じりの髪をかき上げた。
「相手の狙いは秦を滅ぼすこと。私たちの狙いはこの沛県で生き残ること。利害は一致しています。彼らに『沛県という拠点を現物出資する代わりに、我々の独立性を担保せよ』という契約書(書簡)を送り、時間を稼ぎます。幸い、あの項羽という男はプライドが高く、数字よりメンツを重んじるタイプ。こちらが頭を下げて傘下に入るポーズを取れば、わざわざ三百の雑兵を潰すために貴重な兵力を割くような非効率な真似はしません」
蕭何は即座に書簡を認め、使者を走らせた。
結果は、読み通りだった。
項羽の軍勢は沛県の降伏(下請け入り)を受け入れ、進路を大きく変えて秦の主力軍へと向かっていった。
大企業同士の殴り合いの隙間に、零細ベンチャーが滑り込んだ瞬間だった。
「ふう……ひとまず、最大の倒産リスクは回避しました」
蕭何は泥の床に座り込み、前世の徹夜明けのような疲労感の中で呟いた。
「ガハハ! すげえな蕭何! 戦わずに五千の軍勢を追い返しちまった!」
劉邦はすっかり上機嫌になり、ドンと蕭何の背中を叩く。
「よーし、お祝いだ! 今日は地元のツレどもを全員集めて、どんちゃん騒ぎだ! 街の酒を全部買い占めてこい!」
「お待ちください」
蕭何は這い上がるように立ち上がり、劉邦の前に立ち塞がった。
「お祝い(交際費)の予算など、一銭も承認していません。CEO、先ほど掌握した役所の金庫(資本金)を確認しましたが……驚くほど空っぽです。秦への重税のせいで、沛県のキャッシュフローはすでに完全に枯渇しています。これからの軍の維持費、兵の給与、食糧の調達──すべてにおいて、圧倒的に資金が足りません」
「あ? 金? そんなもん、地元の金持ちから適当に借りりゃいいだろ?」
劉邦は鼻をほじりながら、事も無げに言った。
「……いいですか、劉邦殿」
蕭何の目が、前世で粉飾決算を見つけた時と同じ、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
「資金調達を甘く見る経営者は、例外なく破滅します。誰が、どこの馬の骨ともわからない無職の親分に、大切な資産を貸すというのですか。あなたの現在のクレジットスコア(信用度)はゼロです。まずは、我々の『支払い能力』と『事業の将来性』を証明しなければ──」
そこへ、ドタドタと騒がしい足音が近づいてきた。
入ってきたのは、犬の肉を扱う刃物を腰にぶら下げた、異常に体格の良い大男──劉邦の幼馴染であり、先ほど県令を暗殺してきた実行犯、樊噲だった。
「おぅ、劉邦! 蕭何! 街の酒場から、ツケの催促が来てるぞ!」
樊噲は、クシャクシャになった大量の竹の切れ端(領収書)を、蕭何のデスクの上にドサリとぶちまけた。
「……これは何ですか」
蕭何は嫌な予感がしながら、その竹の切れ端を一枚拾い上げた。
『劉邦様 飲食代:酒三石、豚肉五頭分。泗水亭のツケ回し分』
『劉邦様 交際費:地元のゴロツキ十名分の宿泊代』
『劉邦様 その他:身元の怪しい旅人への旅費の立替え』
蕭何の手が、プルプルと震え始めた。
「……CEO。この、地元の泥棒やヤクザ者に奢ったとされる、膨大な『交際費』の山は何ですか。エビデンス(領収書)の体裁すら成していない、ただの落書きですが」
「おう! それな!」
劉邦は悪びれもせず、胸を張った。
「俺、金はねえけどさ、困ってる奴を見ると放っておけねえんだよ。あいつらにも事情があるしさ。酒奢ってやったら、みんな『劉邦のためなら命をかける』って言ってくれたぜ?」
「──ッ!!」
蕭何の脳内で、前世の走馬灯がパッと明滅した。
『岡田先生、今回のクライアント、社長の個人資産と会社の金が完全に混ざっちゃってて、使途不明金が数億円規模であるんです……』
あの時、夜を徹して使途不明金を追跡した地獄の日々が、目の前の男の笑顔と重なる。
「劉邦CEO……ッ!!」
蕭何は机を両手で激しく叩いた。
その剣幕に、怪力の樊噲すらビクリと肩を揺らす。
「個人の『お人好し』と、組織の『経費』を混同しないでください! あなたは経費を泥棒に奢るタイプの、最もバックオフィスを破滅させる経営者だ! 投資対効果(ROI)がまったく見合っていません! 命をかけるという口約束は、貸借対照表には計上できないんです!」
「まあまあ、蕭何、硬いこと言うなよ……」
「黙りなさい! これより、我が軍の『コンプライアンス(法令遵守)規程』および『経費精算マニュアル』を策定します! 申請書のない出金は、一分たりとも認めません! 樊噲部長も、領収書は正しく提出しなさい!」
「あ、愛だ……愛があれば数字なんて……」
怯える樊噲を、蕭何は冷徹な眼光で黙らせた。
しかし、怒りに震える蕭何の前に、さらなる冷酷な現実が突きつけられる。
部下の役人が、震える手で一枚の「お触れ書き(通達)」を持ってきたのだ。
「蕭、蕭何様……! 下請け入りした楚軍の本部から、我々に最初の『業務命令』が届きました……!」
蕭何がその通達をひったくるように奪い、目を落とした。
そこには、赤インクで書かれたかのような苛烈な命令が刻まれていた。
『劉邦軍は速やかに兵を集め、秦軍の最前線基地である「碭郡」を攻撃・攻略せよ。なお、今回の作戦にかかる軍資金および食糧は、すべて沛県の「自社調達(自己負担)」とする。失敗した場合は、契約違反として即座に全軍処刑とする』
軍資金はゼロ。経費は使い込み。
その状態で、いきなり「予算ゼロの、命がけの新規プロジェクト」へ強制投入される。
「おい蕭何……金はねえけど、攻めなきゃ殺されるってよ。どうする?」
劉邦が、どこか試すような目で蕭何を見る。
蕭何は天を仰いだ。
前世の死因である「心不全」の鈍い痛みが、胸の奥で再び疼いた気がした。
第3話:了
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また、歴史ものである本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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