第2話:目覚めれば沛県の無能な上司――「今世こそは定時退社」の誓い
ドスン、ドスン、と地響きのような足音が廊下の向こうから迫ってくる。
秦王朝が天下を統一した証である、規格化された漆黒の鎧──。
県令直属の重装歩兵三百。
彼らはただの地方警察ではない。始皇帝の苛烈な法を執行するため、逆らう者を文字通り「物言わぬ固定資産」に変えてきたプロの軍隊だ。
「おい蕭何、乗っ取り(デット・エクイティ・スワップ)ってのは何だ!? 早くしねえとあいつら、このドアを叩き壊して入ってくるぞ!」
劉邦が腰の剣を半分抜きながら、珍しく焦った声を出す。
「CEO、静かに。剣を収めなさい」
蕭何はデスクの上に広げた竹簡──先ほど三分で構造を読み解いた、沛県の『戸籍帳簿』と『官倉の在庫目録』──を素早く数冊、懐にねじ込んだ。
「前世の私は、何百億という負債を抱えたゾンビ企業を、法律と数字の力だけで何度も優良企業に組み替えてきました。暴力などというコストとリスクの塊のような手段は、最も下策です」
バァン!!!
執務室の木の扉が、ついに外側から蹴破られた。
乱入してきたのは、重い鉄の胸当てを着込み、鋭い長槍を手にした大柄な男──沛県の兵を率いる隊長だった。
その背後には、抜き身の刃を持った兵たちが廊下を埋め尽くしている。
「そこまでだ、劉邦! それから主吏掾・蕭何! 県令様の命により、反逆の罪で捕縛する。神妙に縛り首になれ!」
鉄の匂いと、確実な殺気が室内に充満する。
部下の若い役人はすでに恐怖で床にへたり込み、ガタガタと震えていた。
だが、蕭何は逃げもしなければ、怯えもしなかった。
むしろ、前世で何度も経験した「敵対的買収を仕掛けてきた横暴な大株主」を相手にするかのような、冷徹極まりない目で隊長を見据えた。
「隊長。執行の前に、一つ重大な財務監査の結果をご報告します」
「な、何だと……? 監査だ?」
「ええ」
蕭何は懐から一本の竹簡を取り出し、それを隊長の目の前に突きつけた。
「これは、あなたが管理しているはずの『官倉・第三倉庫の食糧在庫目録』です。これによると、現在そこには三千石の米があることになっていますね?」
「それがどうした! 今はそんな話を──」
「しかし、私が先ほど棚卸しをし直したところ、実質的な在庫は千石にも満たない。差額の二千石は、ネズミの食害として処理されていますが、不自然に損金算入のタイミングが集中している。……隊長、あなた、これを市場に横流しして、私腹を肥やしていますね?」
「──っ!?」
隊長の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「秦の法、いわゆる『大秦律』において、官物の横領はどのような罰則になるか、法務のトップである私がお教えしましょう。本人への五体裂きの刑、および三族の処刑です」
蕭何の声は、静かだが、逃げ場のない有罪判決のように響いた。
「な、何を根拠に……! そんなデタラメなエビデンスが──」
「エビデンスなら、あなたの目の前にあるこの竹簡の数字です。縦の合計と横の合計が合っていません。子供でもわかる杜撰な帳簿操作だ。今ここで私がこの竹簡を本国の監査機関に郵送すれば、あなたのキャリアどころか、あなたの家族の命が本日をもって『強制決済』されます」
しん、と執務室が静まり返った。
兵たちの間に、動揺が走る。
彼らもまた、隊長が食糧を不正に処分していた薄汚い噂を、薄々知っていたのだ。
「……て、てめえ、蕭何……! 俺を脅す気か!」
隊長の手が、怒りと恐怖で小刻みに震え、剣の柄に伸びる。
「いいえ。これは『デット・エクイティ・スワップ』──債務の株式化です。あなたの致命的な弱みを、我が社の議決権に変えて差し上げようと言っているのです」
蕭何は一歩、前へ出た。
「あなたが今ここで私たちを捕らえれば、私は死ぬ前にこの帳簿を民衆の前にぶちまける。そうなれば、あなたも道連れだ。しかし──もし今この瞬間から、あなたが県令ではなく『劉邦CEO』の部下になるというなら、私はこの帳簿のバグを、適正なプロセスで『永久に償却』して差し上げます。命が助かるだけでなく、新しいベンチャー企業の初期創業メンバーとしての席を保証しましょう」
システムによる、完璧な乗っ取り。
相手の選択肢を一本道に絞り込み、合理的に降伏させる──それこそが、コンサルタントとして修羅場を潜り抜けてきた岡田誠一の真骨頂だった。
「さあ、選びなさい。ここで全員で共倒れするか、それとも、私たちと組んで天下を狙うか」
隊長は額から滝のような汗を流し、蕭何と、その後ろでニヤニヤと笑っている劉邦を交互に見た。
劉邦は、蕭何がここまで鮮やかに現場をコントロールするとは思っていなかったのか、感心したように口笛を吹いている。
蛇に睨まれた蛙のような隊長に対し、天性の人たらしである劉邦は、絶妙なタイミングでその肩を叩いた。
「おいおい、隊長さんよ。蕭何に数字で睨まれたらおしまいだぜ? あいつは鬼だからな。どうだ、役所のケチな給料でビクビク生きるより、俺と一緒に美味い酒飲まねえか?」
劉邦の、底抜けに明るい声。
それが、恐怖で凍りついていた隊長の心を、物理的な重力で引っ張り上げるように動かした。
「……クソが」
カラン、と激しい音を立てて、隊長の長槍が床に落ちた。
「……主吏掾。その帳簿の数字、本当に書き換えてくれるんだろうな」
「約束します。私は、契約書のない嘘はつきません」
蕭何が静かに告げると、三百の歩兵たちは、一斉に武器を収めた。
沛県の防衛戦力が、開始わずか数分で、劉邦軍の「現物出資」へと切り替わった瞬間だった。
「ガハハ! さすが俺の相棒だ! 鮮やかすぎて惚れ直したぜ!」
劉邦が蕭何の背中を激しく叩く。
「これでバックオフィスの掌握は完了です」
蕭何は眼鏡の位置を直す仕草をして、冷徹に告げた。
「ではCEO、さっそく次のタスクを処理しましょう。この歩兵三百を率いて、本社の筆頭株主──もとい、我々を処刑しようとした県令の身柄を拘束し、完全にこの沛県を……」
「あ、それならもう遅いぞ」
劉邦が、おにぎりでも食べるかのような気軽さで言った。
「……はい?」
「いやさ、お前が計算してる間に、俺の地元のツレの樊噲っているじゃん? 肉屋の。あいつに『ちょっと県令の首、取ってきて』って頼んだらさ。さっき『無事に仕留めた』って連絡が来たわ」
蕭何の手から、竹簡が滑り落ちた。
「……CEO。今、何と?」
「え? 県令を殺したって」
脳が、前世の過労死寸前の時と同じ鋭い拒絶反応を起こした。
県令を拘束し、役所の連続性を保ったまま平和的に権力を移行する──それが蕭何の描いた『生存計画書』の絶対条件だった。
だが、トップが暗殺されたとなれば話は完全に別だ。
これは「適法な事業承継」ではなく、ただの国家に対する「完全なテロ行為」である。
「お、おい蕭何? なんでそんな般若みたいな顔してんだよ。邪魔者は消えたんだから、これで俺たちがこの街のトップだろ?」
屈託のない劉邦の笑顔。
(ダメだ。こいつは、上場前にコンプライアンスを完全破壊するタイプの経営者だ……!)
その時、役所の外から、地響きのような別の軍靴の音が聞こえてきた。
三百の歩兵の比ではない。
数千、いや数万の軍勢が、猛烈な勢いで沛県に向かって進軍してくる地鳴り。
窓の外を見た部下の役人が、今度こそ完全に白目を剥いて叫んだ。
「蕭何様……! 大変です! 沛県がテロによって無政府状態になったのを検知したのか……隣国から、あの『化け物』が軍を率いて、こちらへ総攻撃を仕掛けてきます!」
隣国の軍。そして、化け物。
歴史の記憶が、蕭何の脳内で最悪の警報を鳴らした。
間違いない。
劉邦がやらかした「不祥事」の匂いを嗅ぎつけて、市場の競合他社──のちに天下を血の海に沈める、最強最悪の覇王『項羽』の先行部隊が、今まさにこの脆弱なスタートアップを「敵対的買収(物理的虐殺)」しにやってきたのだ。
「おい蕭何、なんかヤバそうな奴らが来たぞ! 次の作戦は!?」
暢気に剣を引き抜く劉邦。
資本金ゼロ。
味方は無職の親分と、いま脅し取ったばかりの裏切り者の歩兵300。
対するは、人類史上最強の戦闘生物。
「……CEO。私の今世の定時退社は……」
蕭何は、襲来する大軍の砂煙を睨みつけ、血を吐くような声で叫んだ。
「開始5分で、永久に『上場廃止(強制終了)』ですか──!?」
限界突破のデスマーチ、第2章の幕が上がる。
(第2話・了)
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また、歴史ものである本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n9418lx/
王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




